ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
ハイペリオンの門出
迎えたメイクデビュー。
ナイスネイチャは、事もなく、先頭でゴールを駆け抜けた。
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ジョッキのぶつかり合う小気味よい音が、商店街の裏路地にひっそりと佇む居酒屋――OGが店主を務める、ハイペリオン陣営の『前線基地』に響き渡った。
「――ネイチャのデビュー戦、圧勝に乾杯!」
「かんぱーい!」
きつね色に揚がった名物の特大メンチカツや唐揚げが所狭しと並ぶテーブルで、中距離ウマ娘をはじめとする現役の陣営メンバーたちが、満面の笑みでジンジャーエールの入ったグラスを掲げる。
主役であるナイスネイチャは、照れくさそうに首をすくめながら自分のグラスを合わせた。
「お見事だったわよ、ネイチャ! 最後の直線、あんなに余裕を残して差し切るなんて。アタシたちも鼻高々だったわ」
「いやいや……アタシ一人の力じゃないですよ」
先輩からの手放しの称賛に、ネイチャは苦笑しながら手を振った。
事実、今日のレースにおいて彼女は「自分の直感」で走った瞬間などただの一度もなかった。事前に叩き込まれた膨大なペース配分のデータ、他陣営のウマ娘たちの得意な仕掛け所、そして中距離ウマ娘による直前までの完璧なコンディション調整。それらすべての歯車が噛み合った結果、ただ『予定通りに足を動かしたら、一番でゴール板を駆け抜けていた』というのが正直な感覚だったのだ。
「先生の完璧すぎる指導の賜物ですし、先輩が毎日ミリ単位でアタシの足の調子を管理してくれたおかげですって。アタシはただ、言われた通りにエンジン回しただけですから」
「ふふっ、優等生なコメント。でも、その強靭なフィジカルを持ってるのはネイチャ自身なんだから、今日はもっと胸張っていいのよ」
先輩ウマ娘とそんな和やかな会話を交わしながら、ネイチャはふと、店の一番奥にある半個室のボックス席へと視線をやった。
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周囲の賑やかな祝勝会の空気からそこだけ完全に切り離されたように、ひどく密度的で、異質な緊張感を漂わせている空間。
そこに座っているのは、この宴のスポンサーであり、陣営の絶対的指揮官であるはずのトレーナーだ。だが、彼は主役であるネイチャを祝うこともなく、安楽椅子の代わりに居酒屋の座布団に深く腰を沈め、ウーロン茶のグラスを片手に「仕事」の顔をしていた。
彼の周囲を囲んでいるのは、六名ほどの妙齢の女性たち。
パリッとしたビジネススーツを着こなす者、スポーツメーカーのロゴが入ったポロシャツを着た者、あるいは地方のクラブチームのジャージを着た者。彼女たちは皆、かつて才能の壁にぶつかり、ターフでの勝利を諦める代わりに「社会での勝利」を掴み取った、ハイペリオン陣営の誇る『同盟国(OGたち)』であった。
和気あいあいとした宴の喧騒の中で、ネイチャは少しだけ耳をそばだててみた。
「――で、先生。西の地方リーグから上がってきた今年の新入生ですけど。うちの系列のスポーツジムの測定データを洗ったところ、体幹のブレはないんですが、骨密度の推移に少し気になる点が」
「ふむ。シニア級まで耐えきれるシャーシではないな。リストの優先順位を下げておこう」
「了解です。あと、先生が以前から気にかけられているあのウマ娘。あの子はまだ成長途中ですね。地元メディアに回したカメラマンの映像を解析しましたが、右の蹴り出しにコンマ一秒の遅れが出ています。関節の可動域がまだ肉体の成長に追いついていません」
「良いデータだ。彼女が壁にぶつかるまで、もうしばらく監視を継続してくれ。接触するのはそれからだ」
「それと、中央の新しい芝のクッション値の独自データです。来月のレース、うちの陣営の足の負担係数を再計算しておきました」
「助かる。すぐに本部のロジックに反映させよう」
次から次へと机の上に滑らせられる分厚いファイル、タブレット端末、そしてUSBメモリ。飛び交う専門用語と、冷徹なまでのデータ分析。それは居酒屋での雑談などでは決してなく、軍の最高司令部で行われる『作戦報告会』そのものだった。
日本全国のあらゆる業界に散らばった「目」たちが、ターフの土を舐めて這い上がった経験と、社会で磨き上げた実務能力をフル活用して、次世代の才能や危険因子を拾い上げ、本部の指揮官へと集約していく。
「……なるほど。こーやってるわけですねー」
ネイチャは手元のジンジャーエールを見つめながら、呆れたような、しかし心底感服したようなため息をこぼした。
先日、自分が見せられたあの鈍器のように分厚い『極秘ファイル』。この全国規模に張り巡らされた巨大で緻密な情報網が、数年がかりで対象を監視し、分析し、選び抜いたという「血の通った結晶」だったのだ。
「えげつないというか、なんというか。……あんな最強の後方支援部隊がついてたら、そりゃ負けるほうが難しいって話ですよ」
「でしょ?」
いつの間にかネイチャの背後に立っていた揚げ物屋のおねーさんが、新しい唐揚げの皿をテーブルに置きながら、楽しそうにウインクをした。
「あそこにいる子たち、みんな現役時代は一度も勝てなかった子ばかりなのよ。でも今は、あの子たちが集めてきたデータが、ネイチャちゃんの足を怪我から守り、今日の一着を導いてくれた。……うちの陣営はね、そうやって『誰も見捨てずに、全員で勝つ』システムなの」
「……はい」
ネイチャは奥のボックス席を見つめ直した。
報告を受けながら、満足げに不敵な笑みを浮かべる偏屈なトレーナーと、彼を囲んで真剣な顔でデータをつき合わせる誇り高き先人たちの背中。
自分は決して、孤独にターフを走っているわけではない。
あの怠惰な指揮官が何年もかけて築き上げた、敗者たちの無念と、未来への希望が詰まった巨大な『要塞』。その最も鋭利な切っ先として、自分は選ばれ、前線へと送り出されたのだ。
「……よーし。アタシも、先輩たちに負けてらんないですね」
ネイチャは唐揚げを一つ口に放り込み、グラスに残ったジンジャーエールを一気に飲み干した。
デビュー戦の勝利は、ただの始まりに過ぎない。この鉄壁の防衛線と共に、自分は誰も見たことのない景色まで駆け上がっていくのだと、彼女は静かに、しかし確かな熱意を持って胸に誓ったのである。
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祝勝会の喧騒の中、ネイチャは手元のグラスをテーブルに置き、思い切って陣営の奥のボックス席――最高司令部の作戦会議室へと足を向けた。
ちょうどトレーナーが「少し頭を冷やしてくる」と、追加のウーロン茶を頼みに席を立ったタイミングだった。残された六人のOGたちは、歩み寄ってくる後輩の姿を認めるなり、先ほどまでの冷徹なデータアナリストの顔から一転、人の良い気の置けないお姉様方の顔へと表情を綻ばせた。
「おおっ、来た来た! 今日の主役のお出ましじゃない」
「いやー、近くで見ると本当にいい筋肉してるわね。これがうちの陣営が手に入れた待望の弩級戦艦かぁ。間違いない、重賞の器だわ」
歓迎の声と共に、ネイチャは半ば強引にボックス席の真ん中へと引きずり込まれた。
パリッとしたスーツ姿の女性がネイチャのふくらはぎを軽く叩き、ポロシャツ姿の女性が彼女の肩周りの筋肉のつき方を興味深そうに観察する。
「おっ、足首の関節、凄く柔らかいのに靭帯はガチガチに強いね。これなら先生の無茶なコーナリング理論にも耐えられるわけだ」
「体幹も全然ブレないなー。ねえネイチャちゃん、普段の食事、タンパク質と糖質の比率はどうしてる? 先生の指定通りのメニュー?」
「あ、はい……基本は先生の計算したカロリー表通りで、あとは自分でも少し調整して……って、あの、先輩方、ちょっと近いです……!」
社会で大成功を収めているエリートの先輩たちから、まるで新車の高級スポーツカーでも査定するかのように全身をベタ褒めされ、ネイチャは気恥ずかしさで顔を真っ赤にして身を縮めた。
しかし、彼女たちの視線には下品な値踏みの色はなく、ただ純粋に「自分たちの陣営から出た最高傑作」を慈しみ、誇りに思う温かさだけが満ちていた。
「ふふっ、ごめんごめん。ウマ娘の現役離れて久しいから、つい本物の『才能』を目の前にして興奮しちゃってさ」
リーダー格である編集長の女性が、苦笑いしながらネイチャにウーロン茶のグラスを手渡した。ネイチャはそれを受け取りながら、少しだけ躊躇しつつも、先ほどからずっと胸の奥につかえていた素朴な疑問を口にした。
「あの……先輩たちは、なーんであんなに細かく、全国から情報を集めて先生に渡してるんですか?」
その問いに、六人のOGたちはきょとんとした顔を見合わせた後、やがて示し合わせたように、とても穏やかで晴れやかな笑い声を上げた。
「なんでって……そりゃあ、純粋な『恩返し』だよ」
「恩返し、ですか?」
「そう。アタシたちみたいな、他の陣営ならとっくに見捨てられてるような凡人に、泥臭く『勝利』を味わわせてくれて。ウマ娘を引退した後の長い長い『人生の航路』まで、全部計算して示してくれたんだもん」
一人の女性が、目を細めて懐かしむように語る。才能の限界を悟り、ターフの上で絶望していた彼女たちに、あの怠惰な指揮官は「社会での勝利」という新しい定義を与えた。
「それにね、先生はアタシたちが社会に出る時、スポンサー料とかの資金を完璧に運用して、絶対に路頭に迷わないための『お金という分厚い盾』まで持たせてくれたのよ。……あんな偏屈で面倒くさい顔して、誰よりもアタシたちの人生を背負ってくれたんだから、一生かけて恩返ししたって足りないくらいさ」
笑い合うOGたちの中で、地方のクラブチームのジャージを着た女性が、自分のグラスをカラカラと揺らしながら口を挟む。
「アタシらは結局、現役時代は一度も勝てなかったからさ。勝利の味ってやつは、ターフの上じゃ知ることはできなかった」
あっけらかんと笑う彼女の言葉に、ネイチャは少しだけハッとして言葉を詰まらせた。
トレーナーが「勝たせてやれなかった教え子もいる」と語っていた、まさにその当事者だったからだ。しかし、彼女の顔に暗い影は一切ない。むしろ、誰よりも誇らしげに胸を張っていた。
「でもね、この『ハイペリオン』の名声って、外の世界じゃ本当に凄いのよ。アタシがウマ娘を引退して就職活動をしてた時、面接官に言われたんだ。『えっ!?君、あの怪我人ゼロでオープンクラス無双してる、あの異常な陣営の出身なの!?じゃあ、あの戦術とコンディション管理のノウハウを知ってるのか!』って」
彼女はカラカラと笑いながら、親指で自分を指差した。
「ターフじゃ未勝利の負け犬でも、この陣営で先生の『助手』として兵站管理を叩き込まれたってだけで、スポーツ業界じゃ引く手あまたの超エリート扱いさ。……だから、今の指導者の仕事に就けてるってわけ」
彼女は、少しだけ目を伏せ、クスクスと楽しそうに笑い声を漏らした。
「先生はさ、アタシが卒業する時、『勝たせてやれなくて本当に申し訳ない』って、あのボサボサの頭を掻いて本気で悔しそうな顔をしてたけど……アタシからすれば、冗談じゃないわ。これだけ完璧にアタシの人生を防衛しきってくれたんだから、間違いなく大恩人さね」
敗北すらも資産に変え、教え子たちを社会の勝者へと導いた絶対防衛ドクトリン。ネイチャは、目の前の立派な社会人たちを見つめ、改めて自分の所属する陣営の底知れなさに圧倒されていた。
「でも、でもですよ」
ネイチャは身を乗り出し、現実的な疑問をぶつけた。
「いくら恩返しとはいえ、先輩たちだってそれぞれ自分の仕事があるわけじゃないですか。日本全国のグラウンドや地方レースを飛び回って、あんな分厚いファイルのデータになるまで情報を集めるのって……時間的にも金銭的にも、とんでもなく大変なんじゃあ……」
いくら義理堅くても、普通の社会人にできる芸当ではない。しかし、その心配をよそに、OGたちは「ふふっ」と余裕に満ちた大人の笑みを浮かべた。
「ま、普通ならそうだね。でもアタシたち、誰かに雇われてるただの会社員じゃないのよ」
編集長の女性が、スーツの襟を正して胸を張る。
「アタシたちはフリーのスポーツ記者であり、独立したクラブの指導者であり、ジムの経営者。……全部、先生が教えてくれた『社会での戦い方』を実践して、自分自身の裁量で動けるポジションを手に入れたのさ」
「時間とお金の都合なんて、先生の役に立つためならいくらでもつくように、死に物狂いで努力したんだよ。アタシたち自身の手でね」
ただ守られるだけの教え子から、共に戦うための強大な同盟国へ。彼女たちが全国を飛び回り、莫大な時間と資金をかけて極秘データを集めてくるのは、誰に強制されたわけでもない。
己の意志で選び取った、恩返しと言う名の忠誠の形だった。
「……すごいや。アタシ、とんでもない陣営に入っちゃったんですね」
感嘆のあまりポツリとこぼしたネイチャの言葉に、OGたちは顔を見合わせて悪戯っぽく微笑んだ。ふと、隣に座っていたスーツ姿の先輩がすすすっとネイチャに身を寄せ、その耳元で、甘い香水と微かなアルコールの香りを漂わせながら、秘密の予言を落とすように囁いた。
「ふふ……ネイチャも、きっとこうなるよ」
「えっ?」
「今は文句言ってるかもしれないけど……いつか必ず、アタシたちみたいに、自分の人生のすべてを懸けてでも『あの不器用な先生に尽くしたい』って、心の底から思うようになるから。……ウマ娘の純情に懸けて、ね」
「~~~~っ!?」
あまりにも直球で、かつ確信に満ちた大人のからかいに、ネイチャは耳の先まで真っ赤にして、
「な、ななな何を言ってるんですか先輩っ!」
と慌てて身を引いた。
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爆笑するOGたちの歓声が、居酒屋の奥に響き渡る。
ウーロン茶のジョッキを持って戻ってきたトレーナーが、
「おや、随分と盛り上がっているな。私の重装歩兵に変なことを吹き込んでいないだろうね?」
といぶかしげに眉をひそめたが、彼女たちは。
「なーにも!」
と声を揃えてしらばっくれた。
圧倒的な才能の壁に絶望する者たちを救い上げ、勝利の定義すら書き換えてみせた安楽椅子の魔術師。
そして今、その鉄壁の要塞(陣営)に守られながら、最高傑作たる一人の少女が、重賞という未曾有の荒波へとその歩みを進めようとしている。
その長く険しい航路は、決して孤独なものではないだろう。彼女の背後には常に、彼女の未来を何よりも案じ、無傷で帰還させることを至上命題とする、世界で一番過保護で冷徹な「最強の後方支援部隊」がついているのだから。