ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
夜も更け、秋の涼やかな風が商店街を吹き抜ける頃。
一次会がお開きとなり、「明日も朝からデータ測定があるからな」と欠伸を噛み殺すトレーナーと、「先輩たち、ごちそうさまでした!」と元気に頭を下げたナイスネイチャは、一足先に帰路に就いた。
ネオンの明かりが遠ざかる路地裏を、並んで歩いていく二人の背中。少し前を歩くボサボサ頭の不器用な指揮官と、彼に追いつこうと小走りで駆け寄る重装歩兵の少女のシルエットが、夜闇に溶けて見えなくなるまで、OGたちは店先の暖簾から目を細めて見送っていた。
そして、続くように、店の片付けを少し手伝っていた現役生の3人が店を後にした後。
現役という名の手枷足枷が外れ、アルコールという名の合法的な燃料が投下された二次会が始まる。
店を貸し切り状態にしたハイペリオン陣営の女たちは、ここからが本番とばかりに、それぞれのジョッキを片手に本音の弾幕を張り始めた。
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「――っかー! いやマジでさぁ、ネイチャずっるいーっ!!」
口火を切ったのは、先ほどまでネイチャの筋肉を絶賛していたスポーツメーカー勤務のOBだった。彼女はネクタイを緩め、テーブルに突っ伏しながら悲痛な叫びを上げた。
「あーんなに! あんなに露骨に、先生の寵愛受けてさぁ!? アタシたちの時なんて、データとストップウォッチの冷たい数字しか見てくれなかったのに!」
「わかる、超わかる! ちょっとあんた聞いた!? 焙煎係に任命されただけじゃなくて、豆の『買い出し』まで任されてるって、あれ本当なの!?」
「うん、ほんとー。中距離ちゃん(現・現場指揮官)から報告聞いた時は、マジで耳を疑ったよ。あの神経質で、パーソナルスペースの塊みたいな先生が、自分の嗜好品のベースをそっくり他人に委ねるなんて……天変地異の前触れかとすら思ったわ」
地方リーグの指導者を務める女性が、スルメをかじりながら深々とため息をついた。
安楽椅子の魔術師にとって、「自室での平穏」と「完璧なコーヒー」は、絶対に他者に踏み込ませない聖域だった。かつてその領域への、一部だが、立ち入りを許されていたのは、陣営の土台を築き上げた『一番艦』ただ一人。
それがいまや、出会って間もない新米のウマ娘に、その玉座の隣が用意されているのだ。
「先生のやつ、ネイチャちゃんには甘すぎない? 絶対に怪我させないって執念も、なんだかアタシたちの時より過保護になってる気がするし」
「まあ、それはアタシたちがエラーのデータを嫌ってほど蓄積させたおかげでもあるんだけどさ。……でも、それに文句言いながらも応じるネイチャもネイチャなんだよねぇ」
編集長の女性が、苦笑しながらジョッキを傾けた。嫉妬の言葉を口にしながらも、彼女たちの顔にドロドロとした負の感情はない。
むしろ、自分たちの後を継いだその不器用で健気な後輩を、心から愛おしく思っているのがありありと伝わってきた。
「愚痴りながらも完璧にこなそうと努力して、それでいて自分の才能を少しも鼻にかけない。あの子、本当に良い子だよねぇ……」
「そうそう。先生のあの理屈っぽい嫌味を、正面から受け止めて文句言い返せる素直さ。アタシたちみたいに、変に捻くれたり諦観したりしてない真っ直ぐな魂。……そりゃあ、先生だってああなるわよ」
才能の壁に絶望し、ターフを去ることを選んだ自分たち。
それに対し、泥だらけになって前を向こうとするあの少女。
指導者として、いや、一人の男として、彼女の足掻きに心を動かされないはずがないと、酸いも甘いも噛み分けた大人の女性たちは理解していた。
「はぁ〜あ……。先生の横に立ちてぇなぁ……」
誰かがぽつりとこぼしたその呟きに、座敷にいた全員が「わかる」と深く頷き、揃って重いため息を吐いた。
それは、彼女たちがトレセン学園という青春のグラウンドに置いてきた、たった一つの心残り。
冷徹で、面倒くさがりで、誰よりも不器用で優しかったあの指揮官に、ふんわりと抱いていた淡い恋心。
結局、彼女たちは誰も「ウマ娘としての大きな勝利」の姿を彼に見せることはできず、その恋心もまた、データとロジックの狭間に静かに沈めて封印するしかなかったのだ。
「はいはい、そこの負け犬ども。油と未練は熱いうちに飲み込みなさいな」
そこへ、山盛りの鶏の唐揚げとフライドポテトを乗せた大皿を抱えて、居酒屋の店主が奥の厨房から姿を現した。彼女もまた、かつてこの陣営の恩恵を受けた関係者の一人だ。
彼女はドンッと豪快に大皿をテーブルの中央に置くと、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて腰に手を当てた。
「でも残念。あんたたちはもう、あの要塞に入る前に見事に『座礁』した難破船なんだから。今更、叶わなかった初恋引きずって女子校生に嫉妬するなんてみっともないわよ?
私みたいに、手近なところで甲斐性のある良い旦那をさっさと捕まえたほうが、人生の生存戦略としてはよっぽど有意義ってもんでしょ?」
結婚指輪をこれ見よがしに見せつける店主の容赦ないからかいに、座敷からは一斉にブーイングが巻き起こった。
「うっさい! 既婚者は黙ってろ!」
「わかってるよぉ、そんなこと! アタシたちだって、とっくに彼氏くらいいるし、仕事だって順調なんだからねっ!」
「そうよ! これはただの、美しい青春の1ページの回顧録なんだから!」
やんやと騒ぎ立てる彼女たちの姿は、立派な肩書きを持つエリート社会人から、かつての「負けず嫌いな少女たち」へと見事に戻っていた。
ワーワーと賑やかな言い合いが続く中。
ずっと黙って、ニコニコと微笑みながらウーロンハイを飲んでいた揚げ物屋の『おねーさん』が、ふと、優しく凪いだ声で口を開いた。
「でもさ」
一番長く彼のそばにいて、一番彼の理解者であり、そしておそらく、誰よりも密かに彼を想い続けていたであろう『最古参』の言葉に、場がスッと静まり返る。
おねーさんは、グラスの氷をカランと鳴らし、窓の外の遠い星空を見上げるように目を細めた。
「もし、いつか本当に。……ネイチャちゃんが、あの不器用な先生の隣に、生涯のパートナーとして立つ日が来たとしたら。……その時は、陣営の総力を挙げて、盛大に祝福してあげようよ」
嫉妬も、未練も、後悔も、すべてを優しく包み込むような、その温かい言葉。それは、ターフで勝てなかった自分たちの人生を防衛しきってくれた恩人への、最大の敬意。そして、自分たちの叶えられなかった「夢」を背負って走る、愛すべき後輩への純粋な祈りだった。
一瞬の静寂の後。
やがて、編集長がふっと口角を上げ、ジョッキを高々と掲げた。
「……そりゃ、もちろん」
「あったりまえじゃない。あの子が先生を射止めるんなら、文句なんて一つもないわよ」
「ウェディングドレスの採寸から、式場のデータ収集まで、この最強の後方支援部隊が完璧にプロデュースしてやるんだから!」
「あははっ! さすがに気が早すぎるってば!」
笑い声が弾け、再びジョッキが華やかにぶつかり合う。
才能の壁に絶望し、座礁した彼女たちの青春。
けれど、その座礁した船が寄り集まってできた『ハイペリオン』という要塞は、今やかけがえのない絆となり、次の世代へと想いを繋ぐ灯台として、力強く輝いている。
深夜の商店街に響く、大人の女性たちの晴れやかな笑い声。
それは、勝利の定義を書き換えた魔術師が残した、何よりも美しく、幸福な『防衛線』の完成形であった。
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居酒屋の明るい提灯の明かりと、先輩たちの賑やかな喧騒を背に、二人は夜の商店街を並んで歩いていた。
涼やかな夜風が、少し火照った頬を撫でていく。街灯が等間隔に落とすオレンジ色の光のプールを、ボサボサ頭の不器用な指揮官と、少し前を歩く重装歩兵の少女の影が、交互に踏み越えては伸びていく。
「……先生。今日は、その……本当にありがとうございました」
ふと、ナイスネイチャは歩みを少しだけ緩め、隣を歩くトレーナーに向かって頭を下げた。
祝勝会の主役として先輩たちに散々ちやほやされて浮かれていたが、彼女は自分の力だけで勝てたとは微塵も思っていなかった。完璧なレースプラン、徹底されたコンディション管理、そして何より、自分という存在を見出し、チームへと迎え入れてくれたこの男の存在があったからこその一着だ。
「気にするな。私の構築したロジックの正当性を、君がその脚で証明してくれただけのことだ。指導者として当然の責務を果たしたまでだよ」
トレーナーはポケットに手を突っ込んだまま、さも当然の事実を述べるように淡々と答えた。その顔には奢りも謙遜もなく、ただ冷徹なデータが実証されたことへの純粋な満足感だけが浮かんでいる。
そのひどく理屈っぽいが頼もしい横顔を見つめながら、ネイチャは小さく微笑んだ。
―――しかし、視線を顔から少し下へと移した瞬間、彼女の微笑みはピタリと止まり、代わりに呆れの感情がじわじわと込み上げてきた。
「……そういえば、先生」
「ん?」
「先生のそのシャツって……なんでいつも、そんなにヨレヨレなんですか?」
ネイチャは、ジト目でトレーナーの胸元を指差した。
彼が着ているのは、おそらくどこかの量販店でまとめ買いしたであろう、何の変哲もない無地のシャツだ。しかし、その襟元は力なくくたびれ、袖口や腹部には幾重ものシワが刻まれ、およそ「指導者」という立場の人間の身だしなみとは言い難い惨状を呈していた。
「ああ、これか。まあ、衣服など体温調節と肌の保護ができれば十分だからね。外見の装飾などという非合理的なものに気を配る意味を感じないし、気にもしていないよ」
当の本人は、自分のヨレヨレのシャツを一度見下ろしただけで、全く悪びれる様子もなくヘラッと笑ってのけた。
「いやいやいや!」
ネイチャは一歩トレーナーに歩み寄りながら、全力で首を横に振った。
「機能性がどうとか、そういう問題じゃないですよ! なんでそこだけそんなにズボラなんですか!? データの管理とかコンディションの数字にはあんなに神経質なくせに!」
「兵站管理と個人的な服飾への興味は別軸の問題だ。第一、私は普段あの部屋の安楽椅子から動かないんだから、誰に見られるわけでも――」
「あの、先生」
屁理屈をこねて逃げようとするトレーナーの言葉を、ネイチャはひどく真剣な、そしてどこか冷ややかな声で遮った。
「確認しますけど。……これから私、重賞獲るんですよね?」
その問いに、トレーナーは一切の迷いなく、力強く頷いた。
「ああ。君のそのエンジンと私の戦略が噛み合えば、必ず獲れる」
「……ですよね?」
ネイチャの背筋に、ぞわりと嫌な予感が走った。彼女はこめかみを軽く押さえ、自分の担当トレーナーに『現実』を突きつけるように、一言一句を区切って尋ねた。
「なら……私が重賞を獲って、ウイニングライブの後に表彰式で記念撮影をする時。……先生、まさかそんなヨレヨレの、くたびれたおっさんみたいな姿で、全国メディアのカメラの前に立つつもりじゃない、ですよね?」
ピタッ、と。文字通りにトレーナーの足が止まった。
夜風が吹き抜ける中、彼は数秒間、完全に硬直していた。
やがて、その優秀な頭脳が『勝利の後のビジュアル的余波』という、自分の演算から完全に抜け落ちていた未知のデータ領域を処理し終えたのか。彼は、はたと気づいたように目を瞬かせ、気まずそうにボサボサの頭を掻き毟った。
「……ああ、そうか。自分が表舞台のカメラに晒されるという『懸念』は、すっかり抜け落ちていたな」
「……抜け落ちていたじゃないですよ! チームの顔なんですから、少しは身だしなみに気を使ってください! というか、なんで今まで誰もツッコまなかったんですか!」
おそらくだが、今までの教え子たちは、彼のズボラさを「そういう変人だから」と許容してしまっていたか、あるいは彼が表舞台に出る機会そのものがなかったために、見過ごされてきたのだろう。
「あのー……もしかしてですけど」
ネイチャはおそるおそる、しかし嫌な確信を抱きながら尋ねた。
「先生の部屋に、アイロンは……」
「持っているわけがないだろう。火傷のリスクと、あの単調な反復作業に費やす時間を計算すれば、極めて生産性の低い家電だ」
「……」
商店街の路地に、冷たい空気が固まった。
「じゃあ……せめてクリーニングに出したりとかは……」
「めんどくさいし、取りに行く手間も馬鹿にならない。そんなことに時間を使うくらいなら、私は自室の安楽椅子で海外のスポーツ力学の論文を読むが?」
堂々と胸を張って言い放つ、完璧なまでの屁理屈。合理主義を装いながら、その実態はただの『怠惰』であることを隠そうともしないその態度に、ついにネイチャの中で何かがプツンと弾けた。
「……っ、この、ダメ大人が……!」
ネイチャはギリッと奥歯を噛み締めると、トレーナーのヨレヨレのシャツの袖をガシッと掴んだ。
「じゃあ、その服! 学園に戻ったら全部私に渡してください!」
「……え? この、今着ているのをかい?」
「そーです! 部屋に戻ったら脱いで出してください! ついでにクローゼットの中にあるヨレヨレのシャツも全部です! 洗濯からアイロンがけまで、ぜーんぶ私がやってお渡ししますから!」
突然の強制的な家事代行宣言に、さすがのトレーナーもたじろぎ、一歩後ずさった。
「あ、いや。流石に年頃の教え子に、私の個人的な衣服の洗濯やアイロンがけまで要求するのは、指導者としてのモラルというか、倫理的なラインが……」
「だーめーでーすー!」
逃げ道を塞ぐように、ネイチャはビシッと指を突きつけた。
「普段の生活がいざって時には出ちゃうんですから! 先生も普段の練習の積み重ねが本番に出るって、いっつもアタシたちに偉そうに言ってたでしょう!? 普段からキチッと、せめてアイロンがけされたシワのないシャツぐらいは着ててください!」
「うっ……」
自分自身が常日頃から展開している『日常の管理こそが最大の防衛である』というロジック。それを完璧な形でブーメランとしてぶつけられ、安楽椅子の魔術師はぐうの音も出ずに言葉を詰まらせた。
データと戦術でどんな相手も論破してきた彼が、生活能力の欠如という極めて物理的で無様な理由によって、教え子に完全に白旗を揚げた瞬間だった。
「……反論の余地がない。君の言う通りだ、私の兵站管理のミス、怠慢だった」
トレーナーはがっくりと肩を落とし、渋々といった様子で降伏を宣言した。
「分かった。……部屋に戻ったら、洗い替えのシャツをまとめて君に預けよう。手数をおかけして申し訳ないが、よろしく頼む」
「最初からそうやって素直にお願いすればいいんですよ。まったく、コーヒーの焙煎の次はアイロンがけって……アタシ、本当に重装歩兵なんですかね? 完全に専属のメイドかオカンじゃないですか」
ぶつぶつと文句を言いながらも、ネイチャの足取りはどこか軽く、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。完璧に見える指揮官の、どうしようもなく情けなくて不器用な部分。それを自分が補って、面倒を見ているという事実が、彼女の胸の奥を不思議と温かく満たしていたのだ。
「仕方ないですよ。先生がだらしないのが悪いんですから、アタシがビシッと管理してあげます。……ほら、早く帰りますよ! アイロンがけ、時間かかるんですから!」
「やれやれ。私の絶対防衛圏も、君の前では形無しだな……」
ズンズンと前を歩いていく頼もしい世話焼きの背中を追いかけながら、トレーナーは諦めたように苦笑し、頭を掻いた。
夜のトレセン学園へと続く帰り道。響き渡る二人の足音と他愛のない言い合いは、どこまでも穏やかで、不器用で、そして幸福な陣営の未来を予感させるように、星空の下へ吸い込まれていった。