ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
翌朝。
トレセン学園の敷地内にあるトレーナー寮の廊下を、ナイスネイチャは少しだけ足早に歩いていた。
その腕には、昨晩のうちに洗濯し、ピシッと完璧な折り目をつけてアイロンがけを済ませたシャツが二着、ハンガーにかけられて大事に抱えられている。
「まーったく、なんでアタシが朝っぱらから先生のシャツのデリバリーなんて……」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながらも、その足取りは決して重くはない。むしろ、自分がビシッと仕上げたシャツを着た彼が、少しは『指導者らしい』まともな姿になってくれるのではないかという、奇妙な期待感すら抱いていた。
トレーナーの部屋の前まで来ると、ネイチャはコンコンと控えめにノックをした。
「先生ー、朝ですよ。取り急ぎ、今日の分と明日の分の二着、持ってきました」
数秒の沈黙の後、ガチャリと鍵が開く音がして、無精髭を少し伸ばしたボサボサ頭のトレーナーが顔を出した。寝起きらしいひどく怠惰な顔つきだったが、ネイチャの抱えるシャツを見ると、ふっと安堵したように目尻を下げた。
「ああ、ありがとう。本当に助かったよ。私の貧弱な兵站が、君の献身的なロジスティクスのおかげで見事に維持され――」
「はいはい、大げさな屁理屈はいいですから。ほら、受け取って」
ネイチャが呆れながらハンガーを手渡そうとした、その時だった。
半開きのドアの隙間から、ネイチャの視界に『それ』が飛び込んできたのだ。
「……えっ?」
それは、彼女がいつもコーヒーを淹れている、あの冷暖房完備の整然とした「トレーナー室」とは似ても似つかない、凄惨な光景だった。
床には脱ぎ散らかされた服が地層のように重なり、机の上にはいつ飲んだかもわからない空のペットボトルやエナジードリンクの缶が、まるでバリケードのように林立している。シンクには洗われていない食器が山積みにされ、本棚に入りきらなかった専門書や論文のコピーが、雪崩を起こしたまま放置されていた。
――要塞の司令官の私室は、目を覆いたくなるほどの、完璧な『汚部屋』だった。
「…………せ、ん、せ、い?」
ネイチャは、アイロンがけされた美しいシャツを持ったまま、地を這うような低い声で彼の名前を呼んだ。
その声の温度があまりにも冷たかったためか、トレーナーはビクッと肩を揺らし、慌ててドアの隙間を隠そうと体を滑り込ませた。
「あ、いや。その、違うんだネイチャ。これは私の怠慢というわけではなくてね。物理的な空間の乱雑さと、脳内における思考の整理機能には直接的な相関関係はな――」
「片付けます」
「……はい」
早口で並べ立てられた屁理屈を、ネイチャは氷のような一言で一刀両断した。
有無を言わさぬその迫力と、彼女の背後に見えた「オカンのオーラ」に圧倒され、絶対防衛圏を誇るはずの安楽椅子の魔術師は、がっくりと肩を落として完全降伏するしかなかった。
■
かくして、その日の朝の優雅なコーヒータイムは、全会一致と言う名のネイチャの独裁で中止となった。
「ちょっと! なんでシンクにコーヒーの粉がついたままのカップが五個も六個も放置されてるんですか!? これ、全部カピカピになってこびりついてるじゃないですか!」
「いや、まとめて洗ったほうが水道代と時間の節約になるという、極めて合理的な計算に基づいて……」
「洗ってない時点で不衛生の極みです! 言い訳しない!」
「……申し訳ありません」
トレーナー寮の一室に、容赦のない怒声と水音が響き渡る。
腕まくりをしたネイチャは、スポンジにたっぷりと洗剤を含ませ、親の仇のようにシンクの食器を磨き上げていた。その手際の良さと容赦のなさは、まさに陣営を支える『重装歩兵』の面目躍如である。
「そもそも、いっつもアタシたちには『日常のコンディション管理が最重要』とか偉そうに言ってるのに、自分の生活がこんなに破綻しててどうするんですか! 説得力ゼロですよ!」
「ぐっ……反論の余地がない……」
ネイチャの放つ強烈な正論を浴びながら、トレーナーは部屋の隅でちまちまと空き缶を潰していた。あの執務室で安楽椅子から一歩も動かずにふんぞり返っている男が、今や学生の少女の監視下で、渋い顔をしながらゴミの分別作業に従事しているのだ。外のOGたちが見たら、腹を抱えて笑い転げる光景だろう。
「先生、普段の『兵站』が大切なんですよね?」
ネイチャは、キュッキュッと綺麗に洗い上がった皿を水切りかごに伏せながら、トレーナーがいつも口にしているロジックを皮肉たっぷりに引用した。
「……その通りです」
自らの言葉で首を絞められたトレーナーは、この世の終わりみたいな嫌な顔をしながら、潰したエナジードリンクの缶をガラガラとゴミ袋に放り込んだ。
「自分の兵站もまともに回せないのに、アタシたちの足を管理しようなんて百年早いですよ。ほら、そこの床に落ちてる靴下! ちゃんと洗濯カゴに入れて!」
「うう……重装歩兵の制圧力が、私のパーソナルスペースを完膚なきまでに侵略してくる……」
「文句言わない! 次はあっちの古新聞まとめますよ!」
狭い部屋の中に響き渡る、世話焼きな少女の甲高い声と、怠惰な男の情けないぼやき。
才能の限界や重賞のプレッシャーといった、ターフの上の過酷な戦いからは完全に切り離された、ただただ平和で呆れた日常。
しかし、文句を言いながらも決して手を抜かずに彼の部屋を磨き上げるネイチャの背中と、屁理屈をこねながらも大人しく彼女の指示に従ってゴミをまとめている不器用な魔術師の姿は、すでに「陣営の指揮官と教え子」という枠組みを遥かに超えた、温かくて強固な信頼関係で結ばれていた。
■
その日の夕方。
夕日に染まる商店街の路地には、ラードの香ばしい匂いが漂っていた。
トレセン学園の生徒たちもよく立ち寄る、昔ながらの老舗の揚げ物屋。その店先のベンチに腰掛け、ナイスネイチャは揚げたてのアジフライをサクッと良い音を立ててかじりながら、目の前でエプロン姿でコロッケを袋詰めしている『おねーさん(一番艦)』に向かって、今朝の出来事を報告していた。
「――でね! もう本当に酷かったんですよおねーさん! 部屋中に脱ぎ散らかした服の地層ができてて、机の上はエナドリの空き缶だらけで! アタシ、朝から一時間半もみっちり掃除させられたんですよ!? というか、アタシがブチ切れて無理やりやらせたんですけど!」
「…………えっ?」
トングでコロッケを挟んでいたおねーさんの手が、空中で完全にフリーズした。彼女は目を丸くし、ポカンと口を開けたまま、目の前でアジフライを頬張る後輩の顔をまじまじと見つめた。
「ちょっと待って、ネイチャちゃん。……あんた、先生の『寮の部屋』に入ったの?」
「入りましたよ。なんなら、カピカピにこびりついたコーヒーカップも全部シンクで洗ってきました」
「というか……シャツ? 先生の私服のシャツを預かって、洗濯してアイロンがけまでして、朝にデリバリーしたの? ……まじで?」
「そーですよ!」
ネイチャは当然のことのように頷き、フンッと鼻息を荒くした。
「だってアタシ、これから重賞獲るんですよ!? だーったら! ウイニングライブや表彰式の時に、アタシの横に立つ陣営の先生にも、それなりの格好をしてもらわないと困るじゃないですか! ヨレヨレのシャツ着たおっさんが横にいたら、アタシの今後のグッズの売れ行きとかイメージ戦略に関わりますからね!」
本人はあくまで『陣営のマネジメントの一環』として正当性を主張しているつもりらしかった。しかし、話を聞かされたおねーさんの胸中には、とんでもない激震が走っていた。
(あの、パーソナルスペースの塊で、他人に生活のペースを握られることを何より嫌悪する先生が……?)
かつて陣営の立ち上げから数年間、一番近くで彼を支えていたおねーさんですら、彼の執務室でお茶を淹れることはあっても、さすがに『私生活の聖域』にまで上がり込んで掃除をしたことはなかった。
それが、どうだろう。
この生真面目で世話焼きな後輩は、出会ってからわずかな期間で、彼の「シャツのシワ」という屁理屈の通じない物理的な弱点を突き、いともたやすくその心のバリケードを蹴破ってしまったのだ。
「……すっごいね。まさか、そこまで踏み込んじゃうとは……」
おねーさんは、半ば呆れたように、しかしどこか「負けたな」という清々しい諦めを含んだ苦笑いをこぼした。昨晩、居酒屋でOGたちと『もし彼女が玉座の隣に立つ日が来たら』と笑い合ったばかりだが、この調子だと、自分たちが思っているよりもずっと早く、その日はやってくるかもしれない。
「ほんと、手のかかる指揮官ですよ。でもまあ、アイロンがけされたシャツ着たら、ちょっとはマシな指導者に見えましたから。……明日も朝イチでデリバリーして、ついでにゴミ出しもさせてきます」
アジフライの尻尾をパクリと平らげ、どこか誇らしげに、そして楽しそうに宣言するネイチャ。
その時だった。
店の奥でフライヤーの油を切っていた店長が、タオルで額の汗を拭いながらヒョイと顔を出した。彼はネイチャの愚痴を奥でずっと聞いていたのだろう。ニヤニヤとひどく意地悪い、しかし人の良さそうな笑みを浮かべて、ポツリと一言放ったのだ。
「そりゃあ完全に……『通い妻』だな、嬢ちゃん」
「――っぶふぉっ!?」
ネイチャは危うく、飲み込みかけたアジフライを気管に詰まらせそうになった。真っ赤な顔をして激しくむせる彼女に、店長はガハハと豪快に笑った。
「毎朝シャツにアイロンかけて持っていって、汚い部屋の片付けしてやって、尻叩いてゴミ出しさせてるんだろ? どっからどう聞いたって、ダメ亭主の世話を焼く通い妻じゃねえか。なあ、おねーちゃん?」
「ふふっ。店長の言う通りだねぇ。アタシら陣営の教え子っていうより、もう完全にオカンかお嫁さんのポジションだよ、それ」
「げっ、げほっ! お、おねーさんまで何言ってるんですか! ち、違いますよ! アタシはただの重装歩兵で! 兵站管理のミスを是正しただけで……!」
必死に手と首を横に振って言い訳を並べ立てるネイチャだったが、その顔は耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まっていた。
が、言葉の端々に「先生のロジック」が染み付いてしまっているあたりが、余計に店長のからかいの的になっていることに本人は気づいていない。
「はいはい、わかってるよ。でも、あんまり甘やかしすぎちゃダメだよ? うちの先生、油断するとすぐ安楽椅子に根を張って動かなくなるんだから」
「わ、わかってますぅー……!」
おねーさんは、顔から火が出そうになっている後輩の頭を、愛おしそうにポンポンと撫でた。
夕暮れの商店街。
揚げたてのフライの匂いと、大人のからかいにタジタジになる少女の抗議の声が、温かく溶け合っていく。
盤面を支配する冷徹な魔術師は、未だに自室の椅子から動かない。しかし、彼がかつて孤独に引き引いた「防衛線」は、今やこんなにも賑やかで、愛情深く、そして少しだけ世話焼きな同盟国たちによって、これ以上ないほど強固に守られているのであった。
■
その日の夜。静まり返ったトレセン学園のウマ娘寮、共用スペース。
シューッ、というスチームの音と、アイロンが生地を滑る規則正しい摩擦音だけが、蛍光灯の下に響いていた。アイロン台に向かっているナイスネイチャは、ハンガーから下ろしたばかりの無地のシャツに、丁寧に、そしてどこか事務的な手つきでシワを伸ばしていた。
「…………通い妻」
――ふと。
夕方の商店街で店長から投げかけられたその単語が脳裏にフラッシュバックし、ネイチャは思わずアイロンを握る手を止めた。カッと顔が熱くなり、スチームの熱気のせいだと言い訳するには無理があるほど、彼女の頬は真っ赤に染まっていた。
「いやいやいや! 違うってば。気にしすぎ、意識しすぎ! アタシはただの陣営の重装歩兵で、これは兵站管理の是正措置で……!」
自分に言い聞かせるように、誰もいない共用スペースでぶんぶんと首を横に振る。そうだ。あの指揮官は、生活能力が絶望的に欠如しているただの偏屈な怠け者なのだ。放っておいたらウイニングライブの晴れ舞台にシワシワのシャツで出てきかねないから、マネジメントの一環として仕方なく面倒を見てやっているだけ。
そこに、他意などあるはずがない。
絶対にない。
「よし。これで襟元もピシッと……」
「あれー、ネイチャ。こんな時間にアイロンがけー?」
自分を納得させ、再び作業に戻ろうとしたその時。パタパタとスリッパの音を立てて、寮の廊下からマチカネタンホイザがひょっこりと顔を出した。お風呂上がりなのか、首にタオルを巻き、片手には牛乳の紙パックを持っている。
「あ、マチタン。うん、ちょっとね」
「自分のブラウス? エラいねぇ、夜遅くに」
「あー、いや……これ、うちの先生のシャツ」
ネイチャはアイロン台の上の大きなシャツを指差し、少しだけバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。
「先生さ、いっつもヨレヨレのシャツ着てるでしょ? だから、見かねてちょっと……ね」
「あー、ネイチャのトレーナーさん、確かにいつもお洋服シワシワだもんねぇ。そっかそっか、ネイチャが代わりにやってあげてるんだ。偉い、偉い」
タンホイザはふんふんと呑気に頷きながら、紙パックの牛乳にストローを刺してチューッと吸い込んだ。
夕方の大人のからかいとは違う、同期の純粋な反応。ネイチャはホッと胸を撫で下ろした。そうだ、別に他人の服にアイロンをかけるくらい、ただの親切や手伝いの範疇だ。変に意識するほうがおかしいのだ。
……と、安心したのも束の間だった。
「でもさー」
牛乳を飲み終えたタンホイザが、何気ない様子で、微塵も悪意のない無垢な笑顔をネイチャに向けた。
「なんだかネイチャ、まるで先生の『お嫁さん』みたいだねぇ。えへへっ」
「――っっっ!?」
ドゴォォォン!!!と。ネイチャの脳内で、夕方以上の特大のクリティカルヒットが炸裂した。
酸いも甘いも噛み分けた大人のからかいなら、まだ「冗談やめてくださいよ!」と言い返せた。しかし、純真無垢なタンホイザが、一切の裏表なく「純粋な感想」として口にしたその言葉の破壊力は、とてつもなかった。
「お、お、およめっ……!? ま、マチタン、なに言っ……!?」
「えっ? だって、男の人のシャツにアイロンかけてあげるのって、テレビのドラマとかだと、だいたいお嫁さんの役目じゃない? 違った?」
「ち、ちがっ……違くないけど、違うのっ! これはね、陣営の安全圏を維持するためのロジスティクスっていうか、うちの偏屈な指揮官のビジュアルを補強するための防衛戦術で……っ!」
完全にパニックに陥り、トレーナーの受け売りである「理屈っぽい専門用語」を早口で並べ立てて必死に言い訳をするネイチャ。その顔は、手元のアイロンから噴き出すスチームと同じくらい、あるいはそれ以上に沸騰し、プシューッと音を立てて煙が出そうなほど真っ赤になっていた。
「ふぇ? ろじすちっくす? ぼーえーせんじゅつ?」
タンホイザはぽかんと首を傾げ、まったく理解できていない様子で瞬きをした。そして、真っ赤になって慌てふためくネイチャの様子を見て、不思議そうにふにゃっと笑った。
「うーん、よくわかんないけど……ネイチャ、お顔すっごく赤いよ? お風呂上がりよりポカポカしてるみたい」
「うるさーいっ! これ、アイロンの熱だから スチームのせいだからぁっ!」
ネイチャは耐えきれずに叫び、バシバシと自分の熱い頬を両手で叩いた。
これ以上アイロンがけを続けていたら、自分の顔から火が出てしまう。
深夜の共用スペース。綺麗にシワが伸びたシャツとは裏腹に、全く整理のつかない感情に振り回される重装歩兵の少女の悲鳴が、静かに、そして賑やかに響き渡っていた。