ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
翌朝。
ナイスネイチャは昨晩の動揺をむりやり胸の奥に押し込み、いつも通りの「陣営の重装歩兵」としての顔を作って、再びトレーナー寮の扉を叩いた。片手には、ピシッとシワひとつなくアイロンがけされた洗い替えのシャツ二着。
「先生ー。シャツのお届けと、ゴミ出しの監視に来ましたよー」
ガチャリと扉が開き、着替えを済ませたトレーナーが顔を出す。
「ああ、すまないね。だが、今日は本当に大丈夫だ。私にだって過去の失敗から学ぶ学習機能くらい備わっているからね」
自信満々にそう言ってのけた指揮官だったが、ネイチャがその背後――半開きのドアの隙間から部屋の中を覗き込むと、そこにはすでに不穏な兆候が現れていた。
昨日綺麗に片付けたはずの床には、早くも脱いだジャージが無造作に投げ出され、机の上には昨晩読んだであろう分厚い専門書がタワーのように積み上がり、今にも雪崩を起こしそうになっている。
ネイチャはジト目を向け、一切の感情を排した声で、にべもなく言い放った。
「……ダメですよね? これ」
氷点下の冷ややかな視線を浴びたトレーナーは、先ほどまでの自信に満ちた態度をコンマ一秒で撤回し、がっくりと肩を落とした。
「……すいません」
完璧なデータとロジックを操る男が、生活習慣という物理的なエラーの前ではただひたすらに無力だった。
■
幸い、今日は昨日ほどの惨状ではなかったため、大掛かりな掃除は免れた。
ネイチャの監視のもと、トレーナーが素直にゴミ袋の口を結んで集積所へと運び終えると、二人は早々に冷暖房完備の『トレーナー室』へと移動し、いつもの優雅なコーヒータイムへと入った。
コポコポと、サイフォンからお湯が落ちる心地よい音。
挽きたての豆の香りが部屋に満ちる中、ネイチャは手慣れた手つきで二つのカップにコーヒーを注ぎ、その片方を定位置の安楽椅子に座るトレーナーへと手渡した。
「どうぞ。……それにしても」
ネイチャは自分のカップを手に取り、向かいのソファに腰を下ろしながら、ふと呆れたように笑いをこぼした。
「まさか、いっつも完璧なロジックを語る先生が、あんな『生活無能者』だとは思いませんでしたよ」
「……表現が直球すぎて胸に刺さるな」
トレーナーはコーヒーを一口啜り、渋い顔をしてこめかみを揉んだ。しかし、指導者としての威厳をこのまま失うわけにはいかないと、彼は小さく咳払いをして反論を試みた。
「いや、そういうわけではないさ。ただ、兵站管理の優先順位が仕事に偏りすぎているだけで、決して無能というわけでは……。それに、見てみたまえ」
彼は大げさに両腕を広げ、整然と片付いたこのトレーナー室を見回した。
「このトレーナー室は、常にチリ一つなく綺麗に保たれているだろう? やるべき空間では、私だってちゃんとやれる男なのだよ」
どうだ、と言わんばかりの得意げな顔。
しかし、ネイチャはカップを持ったまま不思議そうに首を傾げ、指導者のささやかな自尊心を、根本から容赦なくへし折りにいった。
「えーそうですかぁ? 先生、よく考えてみてくださいよ。……ここの整理整頓だって、毎日アタシたちがやってますよね?」
「うぐっ」
指揮官の喉から、カエルのような奇妙な声が漏れた。
「机の上に散らばった資料をファイリングしてるのは中距離の先輩ですし、床にモップかけてるのもアタシたちです。それに……」
ネイチャは、自分が今手にしているコーヒーカップと、部屋の隅にある小さなシンクを交互に指差して、ニッコリとトドメの追撃を放った。
「今もこうしてコーヒー淹れてるの、アタシですよね? 当然、飲み終わった後に食器を洗うのもアタシたちですし?」
「…………っ」
完全に、論破された。トレーナーが自負していた「綺麗に保たれた執務室」という防衛線は、彼自身の力などではなく、陣営の少女たちの献身的な裏方作業によってのみ維持されていたのだ。
ぐうの音も出ず、完全に沈黙してしまったトレーナー。
その不器用で情けない姿がおかしくて、昨晩の「通い妻」というからかいで赤くなった頬の熱などすっかり忘れて、ネイチャはクスクスと楽しそうに笑った。
「ま、これ以上追求すると先生の威厳に関わりますからね。陣営の最高機密として、アタシの胸に秘めておきますが」
悪戯っぽくウインクをして見せた重装歩兵の少女に対し。ターフの盤面を支配する冷徹な指揮官は、深く、深く安楽椅子に項垂れ、消え入りそうな声で白旗を揚げた。
「……恩にきる」
コーヒーの芳醇な香りと、少女の明るい笑い声。朝の陽射しが差し込むトレーナー室は、今日も完璧な(教え子たちによる)兵站管理のもと、最高に平和で穏やかな日常の時を刻んでいた。
■
デビュー戦を圧勝で飾ったナイスネイチャの快進撃は、その後も止まらなかった。
完璧にコントロールされたローテーションのもと、オープンクラスのレースを危なげなく数度勝利。彼女は瞬く間に、ジュニア級において最も注目を集めるウマ娘の一人へと躍り出た。
ただ、この年のクラシック戦線には、絶対的な「本命」が存在した。
皇帝の系譜を継ぐ、無敗の天才少女――トウカイテイオー。
その圧倒的なスター性と天性のバネを前にしては、いかにネイチャが無傷の連勝を重ねようとも、世間の注目度としてはどうしても二番手か三番手に甘んじる形となっていた。
しかし、レース後の囲み取材において、無数のフラッシュを浴びるナイスネイチャの態度は、以前のようなおどおどとした卑屈なものではなかった。
「――ナイスネイチャ選手! これでオープン連戦無敗ですが、現在の心境は?」
「はい。特別変わったことはありません。日々のコンディション管理を守り、レースでは自分のやれる事をやるだけです」
押し寄せる記者たちのマイクの前で、彼女はひどく落ち着いた、淡々とした声で答えた。自分の走りが、何百時間にも及ぶ陣営のデータ分析と、先輩たちの徹底した管理の上に成り立っていることを知っているからこそ。
彼女は周囲の熱狂に呑まれることなく、極めて客観的に自分の立ち位置を把握できていたのだ。一人のスポーツ紙の記者が、少しだけ意地悪な、しかし世間が最も聞きたがっている質問をぶつけた。
「トウカイテイオー選手が同期ということで、来年のクラシック戦線の『本命』は彼女だと言われていますが、その点についてはいかがですか?」
天才と、それに挑む秀才。
凡庸なウマ娘であれば、ここで対抗心を剥き出しにして吠えるか、あるいは気圧されて言葉を濁す場面だろう。
しかし、ネイチャは表情ひとつ変えず、小さく頷いた。
「ですね」
その、あっさりと事実を認めた肯定の言葉に、記者たちがどよめく。だが、ネイチャはマイクを見据えたまま、静かに、けれど絶対に折れない鋼のような声でこう続けた。
「トウカイテイオーが天才だっていうのは、アタシもよく分かってます。クラシックの本命は彼女でしょう。……でも、アタシたちも、負ける気はありません」
自分一人ではない。
己の背後にそびえ立つ、ハイペリオンという名前の無敵の絶対防衛圏。その看板を背負い、堂々と放たれた宣戦布告。その気負いのない自然体な強さに、記者たちは圧倒され、一斉にシャッターを切った。
■
一方。
そんな彼女の頼もしい受け答えを、すぐ隣で聞いていたトレーナー。
ネイチャの厳しい検閲、と言う名のアイロンがけを通過した、シワひとつない綺麗なシャツを着た彼は、メディアの熱狂など一切耳に入っていなかった。
彼の脳内では今、極めて冷徹なスーパーコンピュータが、フルスピードでシミュレーションを弾き出していたのだ。
(本格化の兆しは確実に出ている。タイムの伸びも、私の初期ロジックを上回るペースだ。……だが)
彼は、フラッシュを浴びるネイチャの足元――その足首から太もも、そして腰回りにかけての筋肉の連動を、数式に変換するようにじっと見つめていた。
(まだダメだ。これほどの出力に対して、それを支える『体幹』が未成熟すぎる。今の状態で、クラシック特有の極限のプレッシャーの中、テイオーのような化け物と競り合って限界以上のトップスピードを引き出せば……確実に、足のどこかが弾け飛ぶ)
世間がどれだけ彼女をクラシックの有力候補として持ち上げようとも、指揮官の目は誤魔化せない。
(重賞は、まだ早い)
彼はポケットの中でストップウォッチを強く握りしめ、冷酷な撤退ラインを心の中で引き直した。
■
そして、その日の夜。
トレセン学園のトレーナー室――ハイペリオン陣営の最高司令部には、三つの影が集っていた。
デスクの上のモニターには、今日のネイチャのレース映像と、骨格や筋肉の成長度合いを示す膨大なグラフが映し出されている。安楽椅子に座る指揮官。その傍らに立つ、バインダーを持った中距離ウマ娘。
そして、モニター越しのビデオ通話で繋がっている、スポーツ誌編集長のOG。
「――というわけだ。世間はクラシックでのテイオーとの激突を期待しているようだが、私の見立てでは、ネイチャの体幹はまだ重賞の負荷に耐えきれない」
トレーナーがデータを示しながら見解を述べると、画面越しの編集長と、傍らの中距離ウマ娘は、送られてきた数値をじっと睨みつけ……やがて、同時に重々しく頷いた。
「ですね」
「同感です。三コーナーから四コーナーにかけての遠心力に対して、腰の踏ん張りがコンマ数秒遅れてます。これが重賞のハイペースになれば、致命的な怪我に繋がる」
現場の安全管理を担う下士官と、外から客観的なデータを集める情報将校。
陣営の頭脳とも言える彼女たちの意見が、指揮官のロジックと完全に一致した瞬間だった。世間の熱狂など、この部屋においては何の価値も持たない。優先すべきは常に「教え子の未来」ただ一つである。
「――方針を決定する」
トレーナーは、冷徹な最高司令官の顔で宣言した。
「現状の体幹の完成度では、タイトなコーナーが続く皐月賞は極めて危険だ。よって、皐月賞は『回避』とする」
「了解しました。メディアへの適当な言い訳はアタシのほうで手配しておきます」
「ありがとう。……日本ダービーに関しては、今後の彼女の体幹の仕上がりと、春先の成長曲線次第だ。最悪の場合、春のクラシック戦線はすべて見送ることも視野に入れる」
世間が聞けば、発狂して怒り出すような極端な安全策だろう。せっかく手にした重賞の切符を、怪我をしたわけでもないのに自ら捨てるというのだから。
だが、この陣営において、それに異を唱える者は一人もいない。
「賛成です。どれだけ遠回りになろうと、無傷で帰還させることが私たちの絶対防衛ドクトリンですから」
中距離ウマ娘が、頼もしく微笑んでバインダーを閉じる。
翌日のスポーツ紙が一斉に「ナイスネイチャ、トウカイテイオーに宣戦布告!」という見出しで大々的に報じることなど露知らず。
夜のトレーナー室では、熱狂から最も遠い場所で、教え子の六十年の人生を守り抜くための、極めて冷酷で優しい『撤退戦』の準備が、着々と進められていたのであった。