ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
「で、君の名前は?」
分厚い本を小脇に抱えたまま、男は穏やかな口調で問いかけた。咎めるような響きは一切なく、純粋な好奇心だけがそこにある。
突然の当事者の登場に、ネイチャは心臓が飛び出るかと思った。他人のチーム名をこっそり調べて、あまつさえ、ちょっとしたツッコミのつもりだったとはいえ、一人で笑っていたところを本人に見られてしまったのだ。気まずさで顔に熱が集まっていくのがわかる。
「あ、えっと……ナイスネイチャ、です」
慌てて姿勢を正し、少し上ずった声で名乗ると、男は「ふむ」と短く頷いた。
「殊勝だね。疑問に思ったことをすぐに調べるというのは、それだけでも立派な才能だ」
「え……?」
予想外の褒め言葉に、ネイチャはきょとんとして瞬きを繰り返した。男は涼しい顔のまま、言葉を続ける。
「情報というものは、能動的に手に入れようとする者にしか真の価値をもたらさない。君のその知的好奇心は、きっとターフの上でも役に立つ時が来るはずだ。……それで?」
男はそこで少しだけ言葉を区切り、ほんのわずかに口角を上げた。
「名前が気に入らないのかい? 私のチームの」
「あ、いえ! そのぉ……!」
図星を突かれ、ネイチャはしどろもどろになる。
「決してバカにしたわけじゃなくて、その、噂で聞いていたイメージと、語源の『高みを行く者』って意味が、なんだか全然違うなぁって、ちょっと意外に思っちゃっただけで……!」
言い訳をすればするほどドツボにハマっていく感覚に陥り、ネイチャは身を縮こまらせた。
しかし、男は怒るでもなく、不快感を示すでもなかった。ただ「やれやれ」と小さく息を吐き、少しだけ面倒くさそうに肩をすくめると、空いている方の手で寝癖のついた頭をぽりぽりと掻いた。
「まぁ、言わんとしていることはわかる」
彼自身、自分のチームのメンバー構成と「ハイペリオン」という大仰な名前の間に、周囲が強烈なギャップを感じていることなど百も承知なのだろう。
「そうだな、ナイスネイチャ。この後、少し時間あるかい?」
「え? ええ、大丈夫です、けど……」
「それなら、少しだけカフェで話そう」
男は歩き出しながら、当然のようにネイチャを誘った。
「ちょうどコーヒーが飲みたかったところなんだ。私の『高み』の定義について、少しばかり語らせてもらうとしよう」
飄々としたその背中に、ネイチャは戸惑いながらも、慌てて辞典を棚に戻して小走りで後を追った。噂の「昼行燈」が何を語るのか、彼女の胸の内に芽生えた好奇心は、先ほどよりもずっと大きく膨らんでいた。
■
学園近くの閑静なカフェ。運ばれてきたのは、湯気を立てる深煎りのブラックコーヒーと、ふんわりとしたミルクの泡が乗ったカフェラテだった。
向かい合って席に着くなり、トレーナーはコーヒーカップを片手に、さっそく「ハイペリオン」についての解説を始めた。
「君が調べた通り、ヒュペリオンはギリシャ神話における太陽神の系譜だ。ただ、神話の伝承というものは往々にして複雑でね。時代や地域によって、彼は太陽神ヘリオスと同一視されている場合もあるし、さらに後世になるとアポロンとも混同、あるいは同一視されている場合がある」
彼はどこか遠くを見るような、それでいて楽しげな目つきで語り続ける。
「神話というのはつまり、異なる信仰を持った民族をまとめ上げるための『寓話』のようなものだ。様々な部族や都市国家が寄せ集まり、ひとつの巨大な文化圏を形成していったのが古代ギリシャであったという、歴史的な証左に他ならない。太陽という絶対的な概念ですら、政治的な統合作業の中でその名前や役割を変容させていくというのは、実に興味深い……おっと」
突如としてハッと我に返ったように、彼は言葉を切った。
「いけない、いけない。つい悪い癖が出てしまったよ」
照れ隠しのように、空いている手でぽりぽりと寝癖のついた頭を掻く。その全く威圧感のない姿に、ネイチャは目を瞬かせた。
「あ、いえ。……歴史、お好きなんですか?」
「ああ。少なくとも、トレーナーとしての本来の業務よりはね。私としては、一日中歴史書を読み耽りながら、こうして美味い珈琲を嗜むだけの生活を送りたいと常々思っているよ」
あまりにもあっけらかんとした、指導者らしからぬ堂々たるサボり宣言。それを聞いたネイチャは、ポカンとした後、思わずふきだしてしまった。
「あははっ! トレーナーさんって、本当に変人ですね」
「そうかな? 労働はあくまで手段であって、目的ではない。人間、仕事以外の場所に生きがいや目的があるというのは、精神衛生上とても大切だと私は思っているんだがね」
彼は微かに微笑み、ブラックコーヒーを一口啜った。そして、カップをソーサーに静かに置くと、先ほどまでののんびりとした空気を少しだけ引き締めるように、間を置いた。
「――だからこそ、私は『ハイペリオン』という名前を名乗らせてもらっているんだ」
「どういう意味ですか?」
カフェラテのグラスを両手で包み込みながら、ネイチャは身を乗り出した。それを見て、彼はほのかに口角を上げる。
「まず、大半の人間と私とでは、物事を測る『前提』が違うんだ。このトレセン学園にいると、生徒も指導者も、皆の照準が『トレセン在学中のレース』にばかり向きすぎている」
彼は指を一本立て、宙で小さな円を描いた。
「その短期間の視点だけで『高み』を目指すならば、君の言う通りだろう。目標はG1であり、ひいては有マ記念や宝塚記念といったグランプリ、海を渡って凱旋門賞、BCクラシック、香港国際競走……そういった華々しいタイトルを目指すのが常識だ」
「確かに、そうです。みんな、そのために血の滲むような努力をしてますから」
ネイチャが素直に相槌を打つと、彼は静かに頷いた。
「だが、その視点のフレームを、もう少スケールアップしてみてほしい」
「スケールアップ、ですか?」
「そう。『一生』というスケールではどうなのか、という話さ」
トレーナーは深く椅子に背もたれ、両手で小さな三角形を作りながら、まるで講義を行う歴史学者のように言葉を紡ぎ始めた。
「いいかい、ナイスネイチャ。君たちウマ娘がターフを全力で駆け抜けられる期間は、歴史というスパンで見ればほんの瞬きのような時間にすぎない。わずか数年、長くても五年やそこらだ。だが、ターフを降りた後の君たちの人生は、その十倍以上も続く圧倒的な長さを誇っている。
戦史を紐解けば、局地的な戦闘において全軍の兵站と士気を限界まで使い潰し、劇的な大勝利を収めた将軍は数え切れないほどいる。彼らはその瞬間、間違いなく英雄だ。だが、その無謀な消耗のせいで国家全体が立ち行かなくなり、最終的に戦争そのものに敗北してしまった国家もまた、歴史上には山のように存在するんだよ」
彼の瞳の奥底にある、冷徹なまでの論理性が顔を覗かせる。
「君たちの人生をひとつの国家の歴史に例えるなら、G1という局地戦で一時的な栄光を掴むために、肉体という国家の基盤を修復不可能なまでに破壊してしまうことは、戦略として完全に間違っている。若く美しい肉体を極限まで酷使し、骨を折り、靱帯をすり減らして掴み取る勝利。……それは確かに観客を熱狂させる美しいドラマだろう。だが、観客は君たちの引退後の数十年間に及ぶ古傷の痛みまで肩代わりしてくれるわけではない」
それは、熱血と根性が支配するこのトレセン学園においては、あまりにも冷や水のような、しかし残酷なまでに真実を突いた言葉だった。
「だから私は、トレーナーとしてウマ娘を指導する際、前提となる期間を『一生』にスケールアップした。私の戦術目標は、わずか数年間の栄誉ではない。八十年という人生の総力戦において、最終的に勝利者となることだ。
無理をして怪我をするリスクを徹底的に排除し、勝てる戦場で確実に勝ち星と賞金を拾う。そして、蓄えた資本を元手に、労働に縛られない強固な基盤を築く」
彼はそこでふっと表情を和らげ、窓の外の青空を見上げた。
「一瞬だけ激しく燃え上がり、燃え尽きて落ちていく流星の美しさは否定しない。だが、私が担当するウマ娘たちには、そうであってほしくないんだ。トレセンを卒業し、レースを引退した先の長い長い人生においても、中天に留まり続け、暖かく、十二分に輝き続ける存在であってほしい。
……流星ではなく、長く日常を照らす太陽神。そんな願いを込めての、『ハイペリオン』なんだ」
静かなカフェに、彼の穏やかな声だけが落ちる。
ネイチャはカフェラテの甘さを忘れたように、ただじっと彼の言葉を聞き入っていた。理屈っぽくて、変人で、熱血とは程遠い。けれど、その言葉の根底にあるのは、担当する教え子の「全人生」に対する、途方もなく誠実で深い愛情だった。
「……なんか」
ネイチャは少しだけ目を伏せ、照れくさそうに笑った。
「トレーナーさんって、変人ですけど……すっごくロマンチックですね」
その言葉に、トレーナーは面食らったように目を丸くした。そして、やれやれと本日二度目の肩をすくめ、残っていた冷めかけのコーヒーを一気に飲み干した。
「買い被りすぎだよ。この熱狂に満ちた学園においては、私の考え方なんて煙たがられるだけの、ただの面白みのない『生存主義』って奴さ」
自嘲気味に苦笑する彼を見て、ネイチャの胸の内で、ひとつの明確な決意が固まっていくのを感じていた。
■
「でも、あの」
ネイチャはカフェラテのグラスを見つめながら、さらに一歩踏み込んだ質問を投げかけた。
「OGさんから聞いたんですけど、『ハイペリオン』ってかなり厳しい訓練があるって聞きました。そこらへんって、その、先生の言う生存戦略というか……どういうバランスをとっているんでしょうか?」
怪我をさせない生存第一主義と、結果を出すための厳しい訓練。その二つは、一見すると相反するものに思える。
すると、トレーナーはどこか饒舌に、待っていましたとばかりに語り始めた。
「そこなんだ。非常に頭を悩ませる問題でね」
彼は指先でテーブルをトントンと軽く叩く。
「まずは、ウマ娘の実力を正確に見抜かなければならない。……これはわかるかね?」
「はい」
ネイチャは真剣な顔つきで頷いた。
非情な言い方ではあるが、彼女もまたシビアな勝負の世界に身を置くアスリートだ。足が遅い者、才能に見放された者は、無慈悲に去っていくしかない世界であることを骨の髄まで理解している。
「まぁ、まずはそこだ。先ほど言ったように、私の仕事はあくまで自分の優雅な老後のための資金稼ぎ程度のものでしかない。となれば、無理をさせずとも活躍できる『最低ラインを保っている才能』を見つけ出す必要がある」
「いや……」
ネイチャは思わず、ジト目でツッコミを入れた。
「それって、結構難しいと思うんですけど。才能のボーダーラインを見極めて拾い上げるなんて……先生、なんだかんだ言って、めちゃくちゃしっかりお仕事してるじゃないですか」
彼の態度と雰囲気に思わず「先生」と呼んでしまう。が、彼はそれを気にせず、言葉を続ける。
「それはそうだとも。指導者としての最低スキルだからね」
彼は悪びれる様子もなく、胸を張って答えた。
「過去のデータという歴史を紐解き、現場に出て脚質を観察し、個々の最適解を探す。これができない奴は、そもそもトレーナーを名乗る事は許されない。いいかい、ナイスネイチャ。『怠惰であるために、勤勉であれ』というのは正しいのさ」
「はー……なるほどぉ」
逆説的でありながら妙な説得力を持つその言葉に、ネイチャは感心したような、呆れたようなため息を漏らした。そんな彼女を尻目に、トレーナーは言葉を続ける。
「あとは、明らかに才能のあるウマ娘や、トップクラスの実力を持つウマ娘は意図的に避けている」
「えっ、なんでですか? スカウトできたら、それこそ楽に勝てるんじゃ……」
「私の手に余る」
彼はさも当然というように、肩をすくめた。
「凄まじい才能を持つ者は、得てして自らも高み……それこそ文字通りの限界点、G1を目指そうとする熱量を持っているものだ。さっきも言ったが、私は『生存』を第一としている。故に、自らを燃やし尽くそうとするような連中とは相性が最悪なんだよ。わざわざ水と油を混ぜるような真似をするバカは居ないさ」
「なるほどぉ……」
無茶苦茶な言い訳のようにも聞こえるが、確かに筋は通っている。彼の徹底したリスク管理と、燃え尽きることを是としない哲学において、規格外の才能や熱血はむしろノイズ(不確定要素)になるのだ。
「あとは、君の言う『厳しい訓練と生存のバランス』ということだが」
トレーナーは空になったコーヒーカップを見つめ、事もなげに答えた。
「それは単純に、トレーナーとしての腕の見せ所というやつだ。怪我のリスクを極限まで削ぎ落としつつ、必要な筋肉とスタミナだけをピンポイントで鍛え上げる。……なに、最低限、雇い主から支払われる賃金分の仕事は確実にこなすだけだとも」
その「最低限」のハードルがどれほど狂気じみた計算と緻密なトレーニングメニューの構築の上に成り立っているのか。この時のネイチャにはまだ完全に理解することはできなかったが、目の前に座る冴えない風貌の男が、途方もない実力を隠し持った「本物」であることだけは、ひしひしと伝わってきた。
■
ネイチャは残っていたカフェラテをごくりと飲み込むと、決意を固めたようにテーブルから身を乗り出した。
「で、それなら、そのー……」
「なんだい?」
首を傾げるトレーナーに、ナイスネイチャは少し上目遣いで、しかし真剣な眼差しを向けて相談を持ちかける。
「あの、仮のトレーナーとしてでもいいので……アタシを指導していただけませんか?」
今の自分よりも遅かったはずのOGを育て上げた手腕。そして、何よりウマ娘の人生そのものを大切にするその哲学。もしこの人に教わることができたら、自分はもっと変われるかもしれない。そんな直感があった。
「ふむ」
トレーナーは少し目を細め、顎に手を当てて一瞬だけ考え込む仕草を見せた。しかし、すぐにいつもの飄々とした空気に戻る。
「まぁ、うちのチームの訓練に『参加する』という形なら、特に問題はないよ。学園の規則にも反しないし、私が立てたスケジュールに従うだけなら手間も増えない」
「お、やったぁ!」
予想外にあっさりと許可が降り、ネイチャはパァッと顔を輝かせてガッツポーズを作った。しかし、喜びも束の間、トレーナーは静かに、しかしはっきりとした声で一本の釘を刺した。
「だが、勘違いしないでくれたまえ。私は君を正式にチームへスカウトすることはないぞ?」
「え?」
ガッツポーズのまま固まり、ネイチャは気の抜けた声を漏らした。訓練には参加していいのに、スカウトは絶対にしない。先ほどの「最低ラインの実力」という話が頭をよぎり、途端に不安が押し寄せる。
「そ、それって……やっぱりアタシに才能がないから、先生の『最低ライン』にも届いてないってことですか……?」
しゅんと耳を伏せるネイチャを見て、トレーナーはやれやれと呆れたように息を吐いた。
「逆だよ、ナイスネイチャ」
「逆……?」
「さっきも言っただろう? 私は『明らかに才能のあるウマ娘や、上位の実力を持つウマ娘は避けている』と」
彼は事もなげに、まるで歴史の必然を語る学者のように、淡々と告げた。
「だって君は、私の『手に余る』ウマ娘だからね」
「アタシが、先生の手に余る……?」
「ああ。私が目指すのはオープンやリステッドでの安全な生存戦略だ。だが、君をそこに押し込めるのは、どう考えても才能の無駄遣いというものさ。もっと自分に自信を持っていい」
男はカフェラテのグラスを見つめるネイチャの目を真っ直ぐに捉え、絶対的な確信を込めてこう断言した。
「君なら、重賞は間違いなく取れるだろう。――私の見立ては外れないよ」