ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
後日。
いつものように、冷暖房が完璧に効いたトレーナー室には、芳醇なコーヒーの香りが満ちていた。コポコポとお湯が落ちる音を聞きながら、ナイスネイチャは慣れた手つきで二つのカップに琥珀色の液体を注ぎ分ける。
「はい、お待たせしました。今日の豆は、少し深煎をチョイスしてみましたよ」
「助かる。午後からのデータ解析に向けて、ちょうど強いカフェインを欲していたところだ」
ネイチャのアイロンがけによってシワひとつないパリッとしたシャツに身を包んだトレーナーは、安楽椅子の上でタブレットから顔を上げ、差し出されたカップを受け取った。
一口飲み、満足げにふうっと息を吐いた後。彼はまるで「明日の朝食はパンにしよう」とでも言うような、極めて日常的で何気ないトーンで告げた。
「ああ、ネイチャ。君の春のローテーションだが……皐月賞は回避することとした」
それは、世間のウマ娘ファンやメディアが聞けば、大騒ぎしてひっくり返るような爆弾発言だった。無敗でオープンを駆け上がり、あのトウカイテイオーの対抗ウマ娘としてクラシックの主役に数えられている彼女が、その第一関門を自ら蹴り飛ばすというのだから。
しかし。
ネイチャは自分のカップに口をつけながら、表情ひとつ変えずに小さく頷いた。
「あ、はい」
あまりにもあっさりとした、拍子抜けするほどの即答。てっきり『ええっ!? なんでですか!』と食ってかかってくるものだとばかり思っていたトレーナーは、予想外の反応に目を瞬かせた。
「おや……随分と素直だね? 世間は君とテイオーの激突を煽り立てているし、普通なら『走らせてくれ』とゴネる場面だと思うのだが」
「まぁ、先生がそう判断したんでしょ?」
ネイチャはカップをソーサーに置き、ソファに深く腰掛けながら、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに笑った。
「ってことは、今の状態のまま皐月賞に出たら『私の走りは怪我するかもー』って事、ですよね?」
「…………っ」
指導者の絶対防衛ドクトリンに対する、寸分の疑いもない完全な信頼。周囲の熱狂に一切惑わされることなく、自分の足の安全を第一に考えるという「陣営の哲学」を、彼女はすでに己のものとして完璧に落とし込んでいたのだ。
トレーナーは一瞬言葉を失い、やがて、心底嬉しそうに口角を吊り上げて苦笑した。
「ふっ、ははは! ……君もすっかり、このチームに染まってきたね」
「そりゃあそうですよ。これでも一応、重装歩兵として前線張ってますから。それに……」
ネイチャは悪戯っぽく目を細め、ジト目でトレーナーのパリッとしたシャツの襟元を指差した。
「兵站管理だなんだって言って、先生の『生活』までバッチリ支えてますからね。アタシがこの陣営の色に染まるのは当然じゃないですか?」
「ぐっ……それを出されると、指導者としての威厳が……」
「威厳なんて、ゴミ袋と一緒に集積所に出してきたでしょ」
痛いところを突かれ、再び安楽椅子に項垂れるトレーナー。ケラケラと笑いながら、ネイチャは居住まいを正し、少しだけ真剣な目つきに戻って尋ねた。
「で、先生を信じてないわけじゃないですけど。今後の練習メニューの意識づけのために、一応聞いておきますが……理由は?」
「……ああ」
トレーナーも即座に「指揮官の顔」へと切り替わり、手元のタブレットを操作して、ネイチャの足の筋骨格のデータを空間モニターへと投影した。
「君の出力の成長速度は、私の想定ロジックすら上回っている。正直に言って、素晴らしい才能だ。だが、問題はその強すぎる脚力を支える『シャーシ』……つまり、体幹の仕上がりが追いついていないことだ」
彼はモニターの、腰から太ももにかけての数値をレーザーポインターで指し示した。
「皐月賞の舞台は、タイトなコーナーが連続するトリッキーなコースだ。今の君の体幹のまま、極限のプレッシャーの中でテイオーと競り合い、コーナーで限界以上のトップスピードを引き出そうとすれば、遠心力に耐えきれずに必ず足のどこかの靭帯が弾け飛ぶ。……計算上、その確率は極めて高い」
「なるほど。出力に耐えられるだけの体の軸が、まだ出来上がってないってことですね」
ネイチャは自分の腰回りを軽く手で叩き、納得したように頷いた。
もしこのロジックを知らされずに、メディアの煽るまま「気合い」や「根性」で皐月賞に突撃していたら。自分は高確率で、選手生命を脅かす致命的な怪我を引き起こしていたに違いない。
「日本ダービーに関しても、春先の君の成長曲線とタイミング次第だ。少しでも危険域に触れるようなら、容赦なく回避させる。……恨むかい?」
トレーナーの静かな問いかけに。ネイチャは残っていたコーヒーを飲み干し、ふうっと温かい息を吐いてから、力強く首を横に振った。
「まさか。アタシは絶対防衛圏から、安全に撃ちまくるって決めてるんです。……足りない体幹、夏までにみっちり鍛え上げて、先生のその冷たい数字ごと、ひっくり返してやりますよ」
不敵に笑う少女の顔は、もはや自分の才能に絶望していた頃の卑屈な影など微塵もなかった。
安楽椅子の魔術師は、その頼もしい重装歩兵の宣言に満足げに頷き、
「期待しているよ」
と、極めて熱の低い、しかし確かな信頼の言葉を返したのであった。
■
春のローテーションについての真面目な作戦会議が終わり、部屋に少しだけ弛緩した空気が流れたタイミングだった。
「……で。せーんせ?」
空になったコーヒーカップをトレイに乗せながら、ネイチャは悪戯っぽく、しかし絶対に逃げ道を許さない狩人のような笑みを浮かべて指揮官を見下ろした。
「な、なんだい?」
これまでの経験上、彼女がこのトーンで話しかけてくる時は、決まって自分の「生活上の重大なエラー」が発覚した時である。トレーナーはビクッと肩を揺らし、安楽椅子の上で身構えた。
「この間、夕方に商店街でおねーさんに会った時に聞いたんですけどね」
「あ、ああ……?」
「先生……朝食とか夕飯、かなり『適当』に済ませることがあるらしいですね?」
ジロリ、と。
重装歩兵の射抜くような視線が、怠惰な魔術師を貫いた。
アイロンがけ、部屋の掃除に続く、第三の生活指導の開戦の合図である。
「適当って、人聞きの悪いことを。何も食べていないわけじゃない。朝は食パンとジャムぐらいは胃に入れているさ」
「夜は?」
「……ゼリー飲料とか、サプリメントとか」
ネイチャの目がさらに半眼になる。トレーナーは慌ててタブレットを手に取り、自分の食生活の正当性をロジカルに主張し始めた。
「いいかい、ネイチャ。昼飯は学園の食堂で、専属の栄養士が計算した完璧なメニューを食べているんだ。ならば、一日の総摂取カロリーと栄養バランスから逆算すれば、朝夕は極めて軽微な炭水化物とビタミンで補うのが最も効率的かつ、さいてき……」
「はい、だめでーす」
得意げな屁理屈の防壁を、ネイチャは氷のような一言で木っ端微塵に粉砕した。
「……最適解だと、思うのだがね」
「だーめーでーすー」
しょんぼりと語尾を小さくするトレーナーに、ネイチャは腰に手を当てて仁王立ちになった。完全に、言うことを聞かない子供を叱るオカンのポーズである。
「一日三食、ちゃんとまともな固形物を食べてください。パン一枚とゼリーで済ませるなんて、どこの限界受験生ですか」
「だが、食事の準備と後片付けに費やす時間的コストを考えると――」
「先生は、うちの陣営の『ブレイン』なんですからね!?」
ネイチャはドンッ、とデスクを叩き、トレーナーの顔を覗き込んだ。
「アタシたちの足のコンディションをミリ単位で計算して、絶対に怪我させないって豪語してる本人が、栄養失調で倒れられたらどうするんですか。先生がぶっ倒れたら、アタシたちの安全管理は崩壊しちゃうんですよ?」
「うぐっ……」
教え子の未来を盾に取られ、指揮官は反論の言葉を詰まらせた。
「いや、でも……めんどくさいし。自炊なんて高等技術、私のスペックには実装されていないんだが……」
もはや理屈ですらなく、ただの「めんどくさい」という小学生並みの泣き言をこぼすトレーナー。そんな情けない陣営のトップに対し、ネイチャはニッコリと、有無を言わさぬ満面の笑みを浮かべた。
「だめですね」
そして、彼がいつも口にしている、最も抗えない「魔法の言葉」を突きつけた。
「……『兵站』、ですよね?」
「…………っ!!」
――グサァッ!!トレーナーの胸に、目に見えない巨大な矢が突き刺さった。
「『戦いは前線だけじゃない。日常の兵站こそが最大の防衛である』……って、いつも先生がドヤ顔で言ってるじゃないですか。自分の兵站も維持できない指揮官の命令なんて、重装歩兵のアタシは聞けませんねぇ?」
自分が散々生徒たちに叩き込んできた絶対防衛ドクトリンを、一言一句違わず完璧なブーメランとして投げ返され、安楽椅子の魔術師はついに白旗を通り越してフリーズしてしまった。
「完全に……私のロジックが……私自身を包囲している……」
「わかればよろしい。というわけで、これからは先生の『食の兵站』もアタシが管理しますからね。とりあえず今日の夕飯、アタシがなんか作ってタッパーに詰めてきますから。残さず食べること!」
「……はい」
もはや抵抗する気力すら失い、力なく頷くトレーナー。
シャツのアイロンがけ、部屋の掃除、そして手作りの夕飯の差し入れ。
夕方の商店街で言われた「通い妻」という単語が脳裏をよぎり、ネイチャは一瞬だけカッと頬を熱くした。
(いやいや、これはあくまで陣営の安全保障のための必要経費! 意識なんかしてない、してないから!)
必死に心の中で言い訳をしながら、ネイチャは、
「じゃあ、買い出し行ってきますから!」
と逃げるようにトレーナー室を後にした。
■
バタン、と扉が閉まり、再び静寂が戻った部屋。
残されたトレーナーは、深く、深く安楽椅子に沈み込みながら、天井を見上げてぽつりと呟いた。
「……私の絶対防衛圏、生活面に関しては完全に陥落しているな」
しかし、その顔に浮かんでいたのは敗北の屈辱ではなく。
呆れるほどに世話焼きで、頼もしい教え子の存在に対する隠しきれない、幸福な苦笑いであった。