ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
ある日の昼下がり。
午前のデータ解析を終え、安楽椅子で浅い微睡みに落ちかけていたトレーナーの要塞に、ノックの音とともに一人の来訪者が現れた。
「やっほー、先生。近くまで配達があったから、陣営の最高司令官殿の顔を見に来てあげたわよ」
カラカラと軽快な音を立てて扉を開けたのは、ハイペリオン陣営の記念すべき『一番艦』であり、現在は商店街で揚げ物屋で働くおねーさんだった。彼女の手には、香ばしい匂いを漂わせる紙袋が提げられている。差し入れの特製メンチカツだろう。
しかし、その温かい好意に出迎えの言葉を返すよりも早く。
ボサボサ頭の指揮官は、安楽椅子の上で忌々しそうに眉間を寄せ、まるで重大な軍事規律違反を咎めるような、ひどく理屈っぽいクレームを口にした。
「……君ね。いくら可愛い後輩だからといって、ネイチャに私の『機密情報』を渡しすぎだ」
「おやおや? なんのことですかね先生?」
「とぼけるな。君が私の怠惰な食生活を吹き込んだせいで、昨晩から私の『衣食住』のうち、『衣』と『食』の二つのライフラインを、あの重装歩兵に完全に掌握されつつあるんだが」
アイロンがけされたシワひとつないシャツに身を包みながら、本気で頭を抱える指揮官。しかも、『住』はまだ掌握されてない、とも言いたげな、その姿のあまりの矛盾っぷりに、おねーさんは紙袋をデスクに置きながら、こらえきれずにクスクスと笑い声を漏らした。
「いいじゃないですか。重賞のウイニングライブにヨレヨレのシャツで出られたら、わたしたちOGの顔に泥を塗ることになるんだし。栄養満点のご飯まで作ってきてくれるなんて、至れり尽くせりでしょ?」
「そういう問題ではない。陣営の頭脳たる私のパーソナルスペースが、一介の生徒の物理的介入によって脅かされているんだ。これでは、いざという時の指導者としての『威厳』が保てない」
もっともらしい言葉を並べて防衛線を張ろうとするトレーナーに対し、おねーさんは呆れたように肩をすくめ、そして少しだけ意地悪な、からかうような流し目を送った。
「威厳ねぇ。……でも先生、私が現役だった時、先生の部屋を片付けてあげるって言ったら、断固として首を縦に振らなかったじゃないですか」
「む……」
「『私の生活空間におけるエントロピーの増大は、脳内リソースの最適化の証左だ』とか何とか、わけのわからない屁理屈を並べて、絶対に私を部屋に入れなかったくせに。……威厳がなくなるっていうなら、ネイチャちゃんの申し出も、あの時みたいに突っぱねたらいいんじゃないですか?」
かつて、彼女もまた、この不器用で生活能力の欠如した指揮官を放っておけず、世話を焼こうと試みたことがあった。しかし、当時の彼は完璧な論理の屁理屈を構え、その踏み込みを絶対に許さなかったのだ。
痛いところを突かれ、トレーナーは気まずそうに視線を泳がせた。
「い、いや。その……。流石に年頃の生徒に、私の私生活の世話をさせるというのは、倫理的な観点からしてもどうにも……」
「今現在、絶賛ネイチャちゃんにやらせちゃってる先生がそれ言っても、ミリ単位も説得力ないですけど」
「…………はい」
重装歩兵の不在時ですら、自らの放ったロジックが完璧なブーメランとなって己の首を絞める。がっくりと項垂れ、両手で顔を覆う安楽椅子の魔術師。おねーさんはその情けない姿がおかしくてたまらず、ついに声を上げてケラケラと笑い始めた。
「まったく、だらしないですねぇ。どうしてネイチャちゃんには、そう簡単に防衛線を突破されちゃったんですか?」
その問いに、トレーナーは指の隙間から恨めしそうな視線を向け、言い訳をするように言葉を紡いだ。
「……君の場合は、感情論が多かったんだ。自覚はあるだろう?」
「そーでしたっけね?」
「そうだ。『放っておけない』とか『私がやってあげたい』とか。そういう感情由来の侵略に対しては、こちらも論理という盾で明確に反論し、退けることができた」
彼は深くため息をつき、今朝のやり取りを思い出すように遠い目をした。
「ただ、ネイチャの場合は違う。あの子は、私が普段陣営の管理に使っている『ロジック』を、そのまま私の喉元に突きつけてくるんだ。日常の兵站がどうとか、指揮官の健康状態が陣営の安全保障に直結するとか……。私が自ら組み上げた理論武装を逆手に取られるから、こちらとしては一切の反論ができない」
自らが心血を注いで育て上げた、冷徹な状況分析と論理的思考。それが今、自分自身のズボラな生活を糾弾するための最強の兵器として機能しているのだ。
「まったく。誰から教わったのか知らないが、いやらしい喋り方をするようになったよ、あの子は」
「ふふっ。誰かさんにそっくり似たんじゃないですか? 自分の指導の賜物だと思って、甘んじて受け入れることですね」
おねーさんは、冷めかけていたコーヒーをポットから自分のカップに注ぎながら、とびきり優しく、そして楽しそうな笑みを浮かべた。
かつて自分が入れなかった領域に、後輩があっさりと足を踏み入れたこと。
………そこに一抹の寂しさが無いと言えば嘘になる。
けれど、それ以上に、この頑なで不器用な男が、ついに誰かに自分の「隙」を預けられるようになったという事実が、彼女にとってはたまらなく嬉しかったのだ。
おねーさんは、コーヒーの香りを楽しみながら、わざと大げさなトーンで冗談めかして言った。
「いやー、でも良かった。先生の老後の世話を誰がするのか、OGみんなで心配してたんですよ? この分なら、私は今のうちから『仲人』の準備をしておいたほうがいいかもしれないですねぇ。ご祝儀、奮発しちゃいますよ?」
「…………」
その直球すぎるからかいに、トレーナーはあからさまに顔をしかめ、心底面倒くさそうな、そして照れ隠しのような深いため息を吐き出した。
「冗談はほどほどにしておいてくれ。私はただ、彼女の優秀な陣営管理能力に一時的に頼っているだけであって、そこに君たちが期待するような非合理的な感情の介在はない」
「はいはい、そういうことにしておきます」
「本当だ。大体、一回りも歳の離れた教え子を相手に、そんな破廉恥な……」
なおもブツブツと論理的な自己弁護を重ねようとする指揮官の言葉を、おねーさんは穏やかな声で遮った。
「あら。でも、楽しそうですよ? 先生」
その一言に、トレーナーの言葉がピタリと止まる。
「文句ばっかり言って、威厳がないだの屁理屈こねてますけど……先生、ネイチャちゃんに怒られてる今の状況、本音ではすっごく居心地が良いんでしょ?」
全てを見透かしたような、長年の付き合いだからこそわかる一番艦の鋭い指摘。安楽椅子の魔術師は、口を半開きにしたまま硬直した後、バツが悪そうに視線をそらし、またしてもポリポリとボサボサの頭を掻いた。
「……君のその観察眼は、時として鋭すぎるのが玉に瑕だな」
否定しきれないその態度は、肯定以外の何物でもなかった。
おねーさんは「やった」とばかりに勝利の笑みを浮かべ、差し入れのメンチカツを一つ摘まみ上げた。
窓の外から聞こえてくる、午後のグラウンドの喧騒。
完璧な絶対防衛圏を誇るはずの魔術師の要塞は、今や一人の重装歩兵の少女と、それを見守る心優しいOGたちによって、外堀から内堀まで、すっかりと幸せに包囲され尽くしていた。
■
休日の朝。
トレセン学園の空気もどこかのんびりとしている中、トレーナー寮の廊下を歩くナイスネイチャの足取りは、極めて事務的かつ、少しばかり怒りを帯びた力強いものだった。
彼女はいつもの制服でも、ジャージ姿でもなかった。
トレードマークである髪の毛の結び目を解き、特徴的なメンコも外した、完全なオフのラフな私服姿。しかし、その両手にはしっかりと、栄養バランスを完璧に計算した手作りの朝食が入ったタッパーと、ビシッとアイロンのかかったワイシャツが握られている。
「せんせー、朝ですよー。お届け物です」
コンコン、とドアを叩くと、ガチャリと鍵が開く。そして。
「……おはよう、ネイチャ。休日の朝から申し訳ないね、助かる……って、ネイチャ?」
「はいはい、おはようございます。……はぁ」
挨拶もそこそこに、ネイチャは半開きのドアを押し開けてずかずかと中へ入り、部屋の惨状を前にして深々と特大のため息を吐いた。
床には脱ぎ捨てられた衣服が点在し、机の上には昨日読んだ資料が雪崩を起こしている。数日前に大掃除をしたばかりだというのに、汚部屋は急速に増大し、見事なまでに散らかり始めていた。
ネイチャはタッパーとワイシャツを安全な机の端に置き、腕をまくって速攻で掃除モードへと移行した。
「せんせー。……アタシ、一昨日もここ掃除しましたよね?」
「あ、ああ。その節は大変お世話に……」
「なーんで、休日の朝からアタシが掃除せにゃいかんぐらい、たった二日で散らかすんでしょうね? せーんせ?」
床に落ちていた靴下を拾い上げながら、ネイチャは振り返り、ジト目でトレーナーを射抜いた。その声音は極めて穏やかだったが、目が全く笑っていない。
「すいません」
指揮官の威厳など微塵もなく、素直に謝罪するトレーナー。しかし、彼はそのすぐ後に、往生際悪く屁理屈を試みた。
「でもだ、ネイチャ。一つだけ言い訳させてほしい。これは決して私の怠慢ではない。君たちの春以降のローテーションと、次世代の才能たちの選定計画を立てるために、脳の演算機能をフル稼働させた結果、生活を維持するための処理能力が回らなかっただけであって――」
「はい、そこまでにしてくださーい」
ネイチャは、ポイッとトレーナーの下着を洗濯カゴに放り投げながら、冷ややかにその言い訳を遮った。
「アタシたちを言い訳のダシに使わない。頭使ったから服脱ぎ散らかしていいなんてロジック、どこの世界にもありませんよ」
「……はい」
「まー、アタシが学園にいるうちに直してくださいよ? 卒業まで、まだ数年はありますけど。陣営のトップの先生が『生活無能者』だなんて世間にバレたら、チームの評判ダダ下がりですからね。ほら、先生がよく言う、ハイペリオンの人的資本? 社会資本? ってやつが下がっちゃいますから」
「すいません……」
自分がいつも使っている難しい専門用語を絶妙に間違えながらも、ド正論で論破してくる重装歩兵の前に、安楽椅子のトレーナーは完全に沈黙し、ただ項垂れるしかなかった。
■
数十分後。
手際よく部屋を元の綺麗な状態に戻したネイチャは、ふうっと額の汗を拭うと、何を思ったのか、部屋の隅にある一人掛けのソファにどかりと腰を下ろした。
そして、トレーナーの本棚から勝手に『ヨーロッパ中世戦史』という分厚い歴史書を抜き出し、パラパラとページをめくり始めたのだ。
タッパーの朝食を食べていたトレーナーは、その予想外の行動に目を瞬かせた。
「ね、ネイチャ? あのね、休日の朝から掃除とデリバリーをさせてしまったのは本当に申し訳ないと思っている。だが、用事が終わったのなら、君も自分の時間を大切にするべきであって、できれば部屋から出て行ってほし……」
「だめでーす」
ネイチャは本から顔を上げることなく、ピシャリと言い放った。
「アタシが帰ったら、先生またすぐに散らかすでしょ。監視モード継続です。それに、アタシはもともと今日、自習室で勉強する予定だったんです。だから、ここでします」
そう言って、ネイチャは口角を少しだけ上げ、ふふん、と不敵に笑った。ラフな私服姿で、髪を下ろした彼女がソファでくつろぐ姿は、驚くほどこの殺風景な部屋に馴染んでしまっている。
(……これは、ちょっと怒っているかもしれない)
長年の指揮官としての直感が、トレーナーにそう告げていた。下手に反論して機嫌を損ねれば、明日の『食と衣の兵站』が絶たれるという致命的なダメージを負いかねない。彼は瞬時に白旗を揚げ、小さくため息をつきながらキッチンへと向かった。
「……仕方ない。監視業務の報酬として、美味いコーヒーを淹れよう。豆の挽き具合の希望はあるかい?」
「うーん、今日は少し甘めがいいかも。ミルク多めでお願いします」
「了解した」
コポコポとお湯の沸く音が、静かな部屋に響き始める。休日の穏やかな陽射しが窓から差し込み、二人の間に流れる空気は、先ほどまでの説教タイムが嘘のようにゆったりと弛緩していった。
「あ、先生」
ソファで本を読んでいたネイチャが、ふと顔を上げた。
「この本に書いてある、『百年戦争における各陣営の兵站線の構築』について、ちょっとお聞きしてもいいですか? ここのロジックが、いまいちよく分からなくて」
「ん? ……ああ、そこか。これはね、当時のフランス側の補給路の欠陥と、イギリス側の機動力が……」
コーヒーの準備の手を止め、トレーナーは自らの得意分野である歴史上の戦術論について、水を得た魚のように解説を始めた。
ネイチャは「なるほどー」と相槌を打ちながら、時に鋭い質問を返し、二人の議論は静かに、けれど熱を帯びて深まっていく。
休日の朝。
片付いたばかりの部屋に漂うコーヒーの香りと、ラフな姿で本を読む少女、そして熱心に戦術を語るボサボサ頭の男。
それは、どこからどう見ても、長年連れ添い、互いの存在が完全に日常の一部として溶け込んでいる『夫婦』の休日の風景そのものであった。
気づけば、二人はそのまま日がな一日。時に本を読み、時に議論を交わし、時に他愛のない雑談をしながら、穏やかな休日を共に過ごすのであった。