ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
トレセン学園のグラウンドが、茜色の夕日に染まる頃。
ハイペリオン陣営の厳しい午後練を終え、息を整えるナイスネイチャの傍らで、現場指揮官たる中距離ウマ娘は手元のバインダーに細かくペンを走らせていた。
「よし、今日のメニューはこれで全工程終了。心拍数の戻りも早いし、ラスト一ハロンの踏み込みも昨日のデータをコンマ二秒上回ってる。完璧な仕上がりね」
「お疲れ様です、先輩。ふぅ……今日もいい汗かきました」
ネイチャは首にかけたタオルで汗を拭いながら、バインダーの数値を覗き込もうと中距離ウマ娘の隣へと腰を下ろした。二人の距離が近づき、夕方の涼やかな風がグラウンドを吹き抜けた、その瞬間だった。
中距離ウマ娘はピタッとペンの動きを止め、ふと不思議そうに鼻をひくつかせた。
「……ねえ、ネイチャ」
「はい? どうかしました?」
「気のせいかもしれないんだけど……あんたからなんか、うちの『先生』と同じ匂いがしない?」
ウマ娘の嗅覚は鋭い。グラウンドの土の匂いと汗の匂いに混じって、確かに微かに漂ってくる、トレーナーが愛飲している深煎りコーヒーの香りと、彼が使っている洗剤の匂い。
突然の指摘に、ネイチャはきょとんと目を瞬かせた後、自分のジャージの袖をクンクンと嗅ぎ、ああと納得したように手を叩いた。
「あー、多分それ、先生のワイシャツのシワ伸ばしに、アイロンがけしてるからかな? スチームの匂いとか、柔軟剤の香りが移っちゃったのかも」
極めて日常的なトーンで放たれたその言葉に、中距離ウマ娘は「……は?」と間抜けな声を漏らし、呆れたように深々とため息を吐いた。
「あー……なるほど。そういうこと」
彼女はバインダーを閉じ、パタンと額を押さえた。
「ここ最近、あのズボラな先生がやけにピリッとしたシワのないシャツを着てくるようになったから、ついに社会人としての自覚でも芽生えたのかと思ってたんだけど……まさか、ネイチャのおかげだったかぁ」
「そーなんですよ!」
ネイチャは待ってましたとばかりに身を乗り出し、日頃の鬱憤を晴らすように不満を口にし始めた。
「アタシ、これから重賞獲る予定じゃないですか! なのに、横に並ぶ陣営のトップがあんなヨレヨレのシャツ着てたら、写真写りも最悪だしチームの品格に関わるでしょって言ったんです。そしたら案の定、『アイロンがけの反復作業は時間の無駄だ』とか『めんどくさい』とか屁理屈ばっかり並べて逃げようとするから……もう埒が明かないと思って、アタシが洗濯からアイロンまで全部やるって立候補した次第です」
「……あー、目に浮かぶわ。あの人の言い訳する顔」
絶対防衛圏を誇る頭脳派指揮官が、教え子に生活態度を詰められてタジタジになっている姿を容易に想像し、中距離ウマ娘はくすくすと苦笑を漏らした。しかし、同時に陣営の先輩として、その献身には頭が下がる思いでもあった。
「なるほどねぇ。でも、あんたも偉いわね。自分のトレーニングで疲れてるはずなのに、あの偏屈な先生の衣類の兵站管理まで請け負うなんて。これで表彰式のビジュアル問題はクリアね」
中距離ウマ娘は感心したように頷き、ふと、もう一つの『陣営の懸念事項』を思い出したように付け加えた。
「でも、服がピシッとしたなら、あとはあの人の『顔色』もどうにかしたいわよね。ほら、先生ってデータの整理とか思考に集中しすぎると、平気でご飯抜く時あるじゃない? この間もゼリー飲料だけで丸一日過ごしてて、幽霊みたいに青白い顔してたし」
「あ、それなら大丈夫ですよ」
「え?」
ネイチャは、ペットボトルのスポーツドリンクを傾けながら、さも当然のことのように、さらなる特大の爆弾を投下した。
「最近は、アタシが毎朝と夕方にタッパーで手作りご飯を差し入れしてるんです。栄養バランスもバッチリ計算して、しっかり食べさせてますから」
「………………は?」
中距離ウマ娘の思考回路が、一瞬、完全に停止した。
アイロンがけだけではない。
手作りの、朝食と、夕食。
それを、毎朝と毎夕、彼の寮の部屋まで直接届けて、食べさせている。
(……おおっと? な、なんてことを言いますかこの子は)
現場の冷静な下士官たる彼女の内心は、今や未曾有のパニック状態に陥っていた。
休日に自室の掃除までさせているという情報はすでに掴んでいたが、そこに『衣』と『食』の完全掌握まで加われば、それはもはや教え子や陣営のマネージャーなどという枠組みを遥かに超えている。
(それ、もう完全に『お嫁さん』じゃん! いや、通い妻!? どっちにしろ、あのパーソナルスペースの鬼みたいな先生が、そこまであっさりと内堀を埋められてるって……えっ、これ、おねーさんや編集長(OGたち)に報告したら、打ち上げした居酒屋が爆発するくらいの特大スクープなんじゃ……!?)
頭の中で警告音が鳴り響き、妄想と現実が激しく交錯する。
しかし、ここで動揺を表に出して変に意識させてしまえば、せっかく上手く回っている(?)陣営のロジスティクスに支障をきたすかもしれない。彼女はギリギリのところで理性を総動員し、顔の筋肉を引き攣らせながらも、努めて冷静な先輩の顔を取り繕った。
「そ、そう……。あはは、それなら、多少はあの青白い顔色も良くなるかー。良かった良かった」
「でしょ? ほーんと、ブレインのくせに自分の食の兵站も回せないなんて、全く困りますよねー。アタシが監視してないと、すぐダメになっちゃうんだから」
中距離ウマ娘の内心の葛藤など露知らず、ネイチャは呆れたように肩をすくめ、一切の自覚のない無防備な笑顔でケラケラと笑った。
その顔には、邪心や計算など微塵もない。ただ純粋に、自分が陣営の役に立っていること、そして何より、あの不器用な指揮官の「欠けた部分」を自分が補っているという事実に対する、確かな充実感と無意識の愛情だけが溢れていた。
(……あーあ。こりゃ、先生が白旗揚げるのも時間の問題ね)
全く自覚のない天然の重装歩兵が、最強の論理武装を誇る魔術師の要塞を、無自覚なまま物理と献身で完全制圧していく様を目の当たりにして。
中距離ウマ娘は、夕日の沈むグラウンドでただ一人、
「陣営の未来は別の意味でも安泰だなー。うんうん」
と、密かに天を仰いで微笑むのであった。
■
夜の栗東寮、共用スペース。
すっかり日課として定着してしまったアイロンがけの作業中。シューッというスチームの音と、生地のシワを伸ばす小気味よい摩擦音だけが、静かな室内に響いていた。
「殊勝だな、ナイスネイチャ」
ふいに、背後から威厳に満ちた、けれどどこか温かみのある声が鼓膜を打った。
ネイチャが驚いて振り返ると、そこにはトレセン学園生徒会長にして、皇帝の異名を持つシンボリルドルフが静かに佇んでいた。
「あ、会長さん。ありがとうございます。……ってあれ? なんで栗東寮に?」
美浦寮で生活しているはずの彼女がここにいるのは珍しい。ネイチャが首を傾げると、ルドルフは穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「ああ、フジキセキに少しばかり野暮用があってね。……あとは最近、君の戦績が素晴らしいと思ったから、声をかけさせてもらった」
「あ……ありがとうございます」
学園の頂点に立つウマ娘からの直々の賞賛。ネイチャは慌ててアイロンを立てて置き、深く頭を下げた。
「それにしても」
ルドルフは、少しだけ目を細め、面白そうに口角を上げた。
「テイオーに『宣戦布告』をしたと聞いたが」
「あはは……」
メディアで大々的に報じられたあの囲み取材の件だ。天才の背中を追うだけでなく、真正面から叩き潰すと宣言したような形になり、学園内でもかなり話題になっていた。
ネイチャは照れくさそうに頭を掻き、苦笑いをこぼした。
「宣戦布告っていうか、その……アタシが勝つ、っていう宣言っていうか。……うちのチームの先生のデータを、信じてますから」
自分の才能だけで勝つとは微塵も思っていない。けれど、あの偏屈な指揮官の完璧な防衛線とロジックがある限り、絶対に負ける気はしない。その揺るぎない信頼を感じ取り、ルドルフは深く、力強く頷いた。
「それは良い事だな。指揮官と担当ウマ娘の間に確かな信頼関係が築かれている証拠だ。……これからも精進したまえ」
「はい!」
元気よく返事をするネイチャ。用件は済んだとばかりに、ルドルフが踵を返し、会話を終えようとした時のことだった。
「ん?」
ルドルフの視線が、アイロン台の上に広げられた無地のシャツでピタリと止まった。
「……君のブラウスにしては大きいな。男性用のシャツか?」
「ええ、トレーナーのですよ。会長さんもご存知でしょう? うちのトレーナー、いっつもいっつもヨレヨレのシャツ着てて、ほんとだらしないっていうか」
ネイチャが呆れたように肩をすくめると、ルドルフもまた「ああ」と納得したように頷いた。生徒会室での手続きや会議などでも、彼のあの無頓着な姿はよく目立っていたからだ。
「確かに、彼には身なりに一切頓着しないイメージが強い。……でも、そういえば最近は、やけにパリッとしたシャツを着ていたな」
そこまで言いかけて、ルドルフははたと気づき、アイロン台の前に立つネイチャとシャツを交互に見比べた。
学園随一の頭脳を持つ生徒会長が、この状況が意味する『事実』に辿り着くのに、コンマ一秒もかからなかった。
「……なるほど。君が彼の世話を焼いているのだな」
「世話ってほどじゃあないですよ」
ルドルフの感心したような呟きに、ネイチャはアイロンを再び手に取りながら、こともなげに笑って返した。
「ただの陣営のビジュアル面の補強です。重賞獲るのに、隣にいる人間がシワシワの服着てたらアタシのイメージまで下がっちゃいますからね」
ネイチャ自身は、あくまで「兵站管理の一環」だと心底思い込んでいる。しかし、第三者から見れば、年頃の教え子が夜な夜な独身男性のシャツにアイロンをかけているという状況が、どれほど異質で、かつ微笑ましいものか。
(……ふむ。彼も良い教え子を持ったものだ)
ルドルフは、すべてを察したような大人の余裕を含んだ笑みを浮かべ、それ以上深くは追求しなかった。ただ、去り際に、
「遅くまでご苦労様。火傷には気をつけてな」
とだけ優しく言い残し、夜の共用スペースを後にしたのだった。