ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
そして、トレセン学園に落ち葉が舞い、やがて冷たい木枯らしが吹き抜ける年末年始がやってきた。
秋から冬にかけて、ナイスネイチャの快進撃は誰の目にも明らかなほど絶対的なものとなっていた。
指揮官の冷徹な計算によって完璧にコントロールされたローテーションのもと、彼女はさらに数個のオープン特別を危なげなく奪取。その走りは派手な大差勝ちこそないものの、常に他陣営の仕掛けを無効化し、測ったようにゴール板で首一つ抜け出すという、極めて堅実で、かつ、恐ろしい完成度を誇っていた。
無傷の連勝街道を突き進む彼女の「底知れなさ」に、世間の空気も徐々に変わり始めていた。
当初は「無敗の天才・トウカイテイオーの影に隠れた二番手」という扱いだったメディアも、ここに来て全く別の視点から彼女を評価し始めたのである。
『――考えてもみてほしい。ナイスネイチャの無敗は、決してフロックではない。なんなら出走回数と勝利数という絶対的なデータにおいては、すでにあのトウカイテイオーをも上回っているのだ。ひょっとすると、彼女は我々が想像している以上の「怪物」なのではないか?』
そんなスポーツ紙の煽り文句が踊るようになっても、当のネイチャ自身は一切浮かれることはなかった。
年末のレース後のインタビューでも、彼女はおどおどするでもなく、かといって増長するでもなく、極めて淡々と事実だけを口にする。
「いえ、アタシ自身の力なんて大したことないですよ。すべてはうちのトレーナーの完璧なデータと、チームの徹底したコンディション管理のおかげです。アタシはただ、指示された通りに脚を回しているだけですから」
謙遜ではなく、心からの事実。
その地に足のついた重装歩兵のスタンスは、かえってレースファンたちの間に「底知れぬ不気味な強者」という確固たる人気を定着させていくこととなった。
■
そして迎えた、正月。
実家には帰らず、冬休みの間も学園の寮で過ごすことを選択したネイチャは、元日の早朝――まだ星が瞬く午前四時という常軌を逸した時間に、トレーナー寮の扉を容赦なく叩き殴っていた。
「せんせー! 朝ですよ! 起きてください!」
ガンガンと響くノック音に、数分後、ガチャリと力なく扉が開く。
そこには、厚手の半纏を羽織り、髪を鳥の巣のように爆発させた、この世の終わりのような顔をしたトレーナーが立っていた。
「……ね、ネイチャ? あけましておめでとう。新年早々、君の元気な顔を見られるのは指導者としてこの上ない喜びだが……いくらなんでも、早すぎるだろう? 太陽が仕事に就くには、まだ二時間以上あるんだが……」
睡眠という最重要の兵站を絶たれ、怨嗟の声を漏らすトレーナーに対し、マフラーと手袋で完全武装したネイチャはニッコリと笑って言い放った。
「一年の計は元旦にあり、です! ほら、着替えて! 河川敷まで初日の出を見に行きますよ!」
「いや、私は――」
「いーいーかーらー!」
暖房の効いた部屋に引きこもろうとする魔術師の襟首を掴み、重装歩兵の膂力をもって強制的に外へと引きずり出す。こうして、正月特有の静まり返った薄明かりの街を、二人は連れ立って歩くこととなった。
■
「まったく……。年始の午前四時から凍えるような外気に晒されるなど、極めて非合理的な生存戦略だ。君ね、私にも一応、チームのトップとしての『威厳』というものがあるんだ。少しくらいそれを大切にしてはくれないか?」
白い息を吐きながら、ポケットに手を突っ込んでブツブツと文句を言い続けるトレーナー。ネイチャは前を歩きながら、振り返りもせずにピシャリと斬って捨てた。
「週に二回、アタシに下着から靴下まで洗濯カゴに放り込まれて片付けられてる時点で、んなもん疾うの昔にねーですよ」
「…………参った」
物理的な生活の完全掌握という、絶対的な事実を突きつけられ、トレーナーは降参とばかりに両手を上げた。
河川敷に出ると、遮るもののない冷たい冬の風が容赦なく吹き付けてきた。
東の空はわずかに白み始めているものの、気温は氷点下に近い。ジャージの下に着込んできたとはいえ、ネイチャも思わず、
「うー、さむっ……」
と身を縮め、手袋をした両手を擦り合わせた。すると、隣を歩いていたトレーナーが、ふと立ち止まった。彼は半纏の下に提げていた小さなトートバッグから、銀色に光る保温ポットと、二つの紙コップを取り出した。コポコポと注がれた漆黒の液体からは、暴力的なまでに芳醇で温かい、深煎りのコーヒーの香りが立ち上る。
「ほら、飲んで温まりたまえ。カフェインと熱は、この過酷な環境下における最低限の防衛線だ」
差し出された温かい紙コップを受け取り、ネイチャは驚きに目を丸くした。
「……用意いいですね? いつ淹れたんですか、これ。ていうか、叩き起こされて無理やり連れ出されたくせに、なんでこんな準備してるんですか?」
ズボラで面倒くさがりの彼が、早朝からわざわざお湯を沸かし、豆を挽いていたという事実。ネイチャの問いに対し、トレーナーはフッと悪戯っぽく、けれどどこか優しげに口角を上げた。
「なに。君の最近の行動パターンと、正月というイベントの特異性を演算にかけた結果、未明に『奇襲』を受ける確率が極めて高いと予想していてね。……防衛線を張る指揮官として、迎撃の準備くらいはしておくさ」
文句を言いながらも、彼は彼女が来ることをちゃんと分かっていたのだ。そして、彼女がこの寒空の下で凍えないように、彼なりの「兵站」を用意して待っていた。ネイチャはコップの温もりを両手で包み込みながら、少しだけ頬を赤くして、
「……生意気な指揮官ですね」
と呟き、一口飲んだ。冷え切った体に、完璧に計算された苦味と温かさが染み渡っていく。
■
やがて、紫と濃紺が混ざり合っていた東の空が、鮮やかな黄金色へと切り裂かれた。
山の稜線から、眩いばかりの光の塊がゆっくりと姿を現す。新しい一年の幕開け、世界を照らす初日の出だった。
息を呑むような美しさに、二人はしばらく言葉を忘れ、静かにその光景を眺めていた。
冷たい風の音と、遠くで川の流れる音だけが聞こえる、二人きりの空間。
その静寂の中で。
トレーナーが、ご来光から目を離さないまま、ポツリと、極めて平坦な声で告げた。
「――今のデータの推移で行けば。私たちは、日本ダービーに挑戦する」
「……え?」
あまりにも唐突な、そしてあまりにも巨大な作戦目標の提示に、ネイチャは思わず間の抜けた声を漏らした。
皐月賞は回避し、夏まで体幹の強化に努めるはずだった。それが、すべてのウマ娘が憧れる最高峰の舞台――『日本ダービー』へと照準を合わせるというのだ。
「君の成長速度は、私の想定していた悲観的なシミュレーションを上回っている。君自身の日々の鍛錬の賜物だ。これなら、ダービーの二四〇〇メートルという極限の負荷にも、君のフィジカルは耐え切れる」
トレーナーは眩しい朝日に目を細め、静かに、けれど確かな熱を帯びた声で続けた。
「勝てるかどうかは、正直なところ蓋を開けてみなければわからない。トウカイテイオーは、私のロジックすらも超越しかねない強大な存在だ。天才の勝負根性が、データ上の限界値を叩き割る可能性は否定できない。他にもシャコーグレイド、レオダーバンら強力なライバルも居る」
彼は決して「絶対に勝てる」という無責任な夢物語は語らない。勝負事における不確実性を誰よりも知るからこそ、安易な希望的観測を排除する。
――しかし。
トレーナーはゆっくりと顔を向け、真っ直ぐに、隣に立つナイスネイチャの瞳を見据えた。
「でも、これだけは断言しよう。……君ならば、あの東京レース場の五二五メートルの最終直線を迎えた時。確実に『一番前』にいる」
それは、ただの激励ではない。
「私の見立ては外れないよ」
全国のOGたちを動員して集めた膨大なデータ、一切の妥協を許さない完璧な兵站管理、そして、ナイスネイチャという類稀なる才能をすべて計算し尽くした魔術師による、寸分の狂いもない『戦術的確約』だった。
日本ダービーという名の、ウマ娘が憧れる夢の戦場。
その、最終直線の入り口。
すべてのウマ娘が死力を尽くすその瞬間。
ナイスネイチャという矛は、間違いなく世界の先頭に立っている。
あとは、そこからゴール板までの30秒余り。彼女自身が、そのリードを守り切れるかどうかの戦いになる。
「……っ」
冷たい朝の空気の中。ネイチャは、手元のコーヒーの温もりをぎゅっと握りしめた。
天才ではない自分が、あの圧倒的な、天才の大本命を相手に、ダービーの最終直線で先頭に立つ。そんな途方もない光景が、隣の男の言葉によって極めて現実的な「予定」として脳内に描き出されたのだ。
「……はい」
震える唇を噛み締め、ナイスネイチャは静かに、けれど力強く頷いた。昇りゆく朝日の黄金色が、彼女の瞳の中で強い決意の光となって燃え上がっている。
「アタシを、一番前まで連れて行ってください。……その先は、アタシがこの脚で、先生のデータを本物にしてみせますから」
「ああ。頼んだぞ、私の重装歩兵」
元日の冷たい河川敷。
ヨレヨレの生活を送る魔術師と、世話焼きな少女の間に交わされた、静かで、とてつもなく巨大な誓い。
陣営のすべてを懸けた大いなる撤退戦(皐月賞)と、そこから繋がる最大の反攻作戦(ダービー)へのカウントダウンが、初日の出の光とともに静かに幕を開けたのであった。