ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
年が明け、トレセン学園の生徒たちが新たな決意を胸に新学期を迎えたその直後。
寒風を切り裂くような特大のニュースが、学園はおろか、日本中のスポーツメディアを瞬く間に駆け巡った。
『無敗の超新星・ナイスネイチャ、まさかの皐月賞回避!』
『陣営の電撃発表!青葉賞から日本ダービーへ、異例のローテーション!』
『天才・テイオーとの頂上決戦は、初夏の大一番へ持ち越し!』
スポーツ紙の朝刊はこぞってこの話題を一面で報じ、テレビのスポーツ番組やネットの掲示板も、この「衝撃の撤退発表」の話題で持ちきりとなった。
無敗で連勝街道を突き進み、テイオーに対する最大の対抗と目されていたウマ娘が、怪我や体調不良でもないのにクラシック第一弾を自ら見送る。それは、伝統的なクラシックの常識からすれば極めて異端な決断であった。
当初、メディアやファンの一部からは「故障を隠しているのではないか」という憶測も飛んだ。
しかし、ハイペリオン陣営の徹底した情報統制と、OGたちが各メディアの要所に散らばって展開した見事な世論誘導により、そのネガティブな噂はすぐに掻き消された。
代わりに浮上してきたのは、「これは、あの安楽椅子の魔術師が仕掛けた、ダービーへの究極の『布石』である」という、ある種の熱狂的なシナリオだった。
『トリッキーな中山二〇〇〇メートル(皐月賞)を捨て、最も実力が問われる東京二四〇〇メートル(ダービー)に的を絞る。これはテイオーの圧倒的な才能に対する、ネイチャ陣営の強烈な宣戦布告だ!』
『青葉賞で東京コースを経験させ、ダービーへの切符と完全な適性を同時に手に入れる。あまりにも合理的で冷徹な、恐怖すら覚える戦略!』
世間は、天才と秀才がそれぞれの舞台で己を磨き、初夏の府中で激突するという、少年漫画のように劇的な展開を勝手に想像し、ちょっとしたお祭り騒ぎの様相を呈していた。
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一方、その熱狂の渦の中心にいる当のナイスネイチャはといえば。
学園中から注がれる好奇の視線や、グラウンドの柵越しに向けられる無数のカメラレンズを前にしても、彼女のペースは一ミリたりとも乱れていなかった。
「ふう……今日のメニューはこれで終わりですかね、先輩」
「ええ、お疲れ様。心拍数も規定値内。コーナーワークでの腰の入り方も、先生の計算通り、着実に重心が安定してきているわ」
夕暮れのグラウンド。中距離ウマ娘のチェックを受けながら、ネイチャはタオルで汗を拭い、息を整える。
世間がどれだけ騒ごうとも、彼女がやるべきことは変わらない。指揮官が弾き出したデータに従い、足りない体幹を地道に鍛え上げ、己の脚力を極限まで磨き上げる。そして、あの偏屈な男のヨレヨレのシャツにアイロンをかけ、栄養満点のタッパー飯をデリバリーするだけだ。
背後にそびえる陣営の絶対的な防衛線と、指揮官のロジックを信じ切っている彼女には、周囲の喧騒などどこか遠い世界の出来事のように感じられていた。
そんなある日の、トレーニング後のことである。
「ねーいーちゃー!」
背後から、底抜けに明るく無邪気な声が響き、小柄な人影がポンッとネイチャの背中に飛びついてきた。
振り返ると、そこにいたのは、春のクラシック戦線の絶対的本命にして、皇帝の系譜を継ぐ天才少女――トウカイテイオーだった。
「わっ、テイオー。急に飛び乗らないでよ、汗かいてるんだから」
「えへへ、いいじゃんいいじゃん! それよりさー!」
テイオーはネイチャの背中からひらりと降りると、目をキラキラと輝かせ、少しだけ不満げに頬を膨らませた。
「聞いたよ! ネイチャ、皐月賞出ないのー!? なんでなんで? ボク、ネイチャと一緒に走るのすっごく楽しみにしてたのに!」
天才の純粋な疑問。そこには嫌味も計算もなく、ただ「強敵とレースがしたい」という無垢な闘争心だけが存在していた。
以前のネイチャであれば、この圧倒的な光を放つ同世代の天才を前にして、どこか気後れし、「アタシなんて、まだまだだから……」と卑屈な愛想笑いを浮かべて言葉を濁していただろう。
しかし。
今の彼女は、ただの「才能に自信のない少女」ではない。
安楽椅子の魔術師がその手で選び抜き、最強の後方支援部隊が総力を挙げてバックアップする、ハイペリオン陣営の最高傑作なのだ。
ネイチャは、テイオーの放つ強烈な輝きを真っ直ぐに受け止め、ふっと口角を上げた。
「や、悪いねテイオー。アタシはダービー直行なんだ」
極めて自然体な、けれど確固たる自信に満ちた余裕の笑み。
「うちの先生がね、アタシの足はまだ皐月賞のトリッキーなコーナーには耐えられないって判断したの。だから、青葉賞で東京コースの感覚を掴んで、そのまま一番大きな舞台に向かうことになったんだ」
「むーっ! なんだよそれー! ネイチャなら絶対皐月賞でもいい勝負できるのに!」
本気で残念そうに地団駄を踏むテイオーに対し、ネイチャは肩をすくめ、けれどその瞳の奥には、決して引くことのない静かな炎を宿していた。
「ありがと。でもね、アタシはアタシの先生のデータを世界で一番信じてるから。
……テイオーのその天才的な脚を真正面から叩き潰すには、一番広くて、一番ごまかしのきかない東京の二四〇〇メートルが最適だって、そう結論が出たんだ」
「……っ!」
テイオーのピコピコと動いていた耳が、ピタリと止まった。
目の前に立つ少女から放たれる、研ぎ澄まされた刃のような静かな闘気。それは、これまでテイオーが戦ってきたどのウマ娘とも違う、ひどく冷徹で、強固で、底知れない強さを感じさせるものだった。
「……そっか」
テイオーはパッと表情を輝かせ、好敵手のその堂々たる態度に、最高に楽しそうな笑顔を向けた。
「わかった! じゃあボク、皐月賞はサクッと勝って、一番前で待ってるからね! ダービーで絶対、絶対勝負しようね!」
「うん。アタシも、最終直線の入り口までは絶対に一番前にいるって、先生に保証されてるからさ。……そこで、待ってるよ」
天才と秀才が、夕暮れのグラウンドで交わした再会の約束。
世間がどれだけ騒ごうとも、彼女たちの心はすでに、初夏の府中を吹き抜ける風の彼方――誰も見たことのない最高の舞台へと向けられていた。
■
世間がクラシック第一弾である皐月賞の熱狂に包まれる中、ハイペリオン陣営は外部の喧騒を完全にシャットアウトし、独自のタイムラインに沿って淡々と『ダービー制覇のための逆算』を進めていた。
春の期間、ナイスネイチャに課せられたメニューは極めて地味で、過酷なものだった。
それは爆発的なスピード練習ではなく、とにかく徹底した「基礎」の反復。強大すぎる脚力の負荷に耐えうるだけの分厚い体幹を作るための、泥臭い筋力トレーニングと走り込みの日々である。
さらに、絶対防衛圏を誇る頭脳派指揮官は、自陣営のデータだけにとどまらず、他陣営への外交にも動いた。
ネイチャの能力を限界まで引き上げるため、各分野に特化したウマ娘たちとの合同トレーニングを積極的にセッティングしたのである。
ある日は、気高き血統と一流のプライドを持つキングヘイローを相手に、最終直線を想定した苛烈な「追い比べ」の特訓。負けん気の強いキングの末脚に食らいつき、絶対に譲らないという根性を叩き直す。コーナーを立ち上がってからのコンマ数秒の反応速度を、実戦さながらのプレッシャーの中で極限まで研ぎ澄ましていった。
またある日は、底知れぬスタミナと無尽蔵の精神力を持つ漆黒のステイヤー――ライスシャワーを相手にした、地獄のような長距離の走り込み。狙うのは二四〇〇メートルという未知の距離を走り切るための持久力。肺が焼けちぎれそうになる苦しい展開の中でも、決してフォームを崩さない「分厚い体幹」を、彼女の背中を追うことで己の肉体に刻み込んでいく。
他陣営のライバルたちと切磋琢磨し、泥まみれになりながら、ナイスネイチャの肉体は日に日に力強さを増していった。
華奢だった腰回りにはしなやかで強靭な筋肉がつき、荒削りだった走りは、いかなる遠心力にもブレない「完璧な重装歩兵」のそれへと仕上がっていく。
そして。
そんな過酷なアスリートとしての戦いと並行して、彼女の『もう一つの重要な任務』もまた、完璧なルーティンとして定着していた。
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「はい、先生。今日の夕飯は豚肉の生姜焼きと、ほうれん草の胡麻和えです。ビタミンB1と鉄分を意識してみました」
「……完璧な兵站だ。五臓六腑に染み渡る」
夕暮れのトレーナー室。
タッパーに詰められた手作りのおかずを前に、安楽椅子の魔術師は拝むように手を合わせ、箸を進めていた。
春の訪れとともに、ハイペリオン陣営の最高司令官のビジュアルは劇的な改善を遂げていた。
ネイチャの厳しい検閲によって、彼が身にまとうシャツからは見事にシワが消え去り、常にパリッとした清潔感を保っている。さらに、一日二食の手作りデリバリーによって栄養状態が劇的に改善したため、かつての幽霊のような青白い顔色は嘘のように消え去り、極めて健康的な顔つきになっていたのだ。
「先生、最近他の陣営のトレーナーさんたちから『雰囲気変わったな』って言われません?」
「ああ。やれ『恋人でもできたのか』だの『清潔感が出て威厳が増した』だのと、非科学的な憶測を押し付けられて非常に遺憾に思っているところだ。私の本質は一ミリも変わっていないというのに」
「ふふっ、いいじゃないですか。アタシが横に立つんだから、それくらいちゃんとしてもらわないと困ります」
食後の片付けを済ませ、ネイチャは手慣れた様子でサイフォンに火を点けた。コポコポとお湯が湧き上がる心地よい音。挽きたての深煎り豆の香りが、夕日に染まる部屋に満ちていく。
「それにしても、君のタスク処理能力には舌を巻くよ。過酷な基礎練をこなしながら、他陣営との合同練習のスケジュールを調整し、私の衣食住の兵站まで管理する。……並のウマ娘なら、とっくにオーバーフローを起こして自壊しているはずだ」
コーヒーを受け取りながら、トレーナーは心底感心したように呟いた。
しかし、ネイチャは自分のカップを手にソファに腰を下ろすと、全く苦にしている様子もなく、むしろ心から楽しそうに笑った。
「アタシ、要領だけは昔からいいんです。それに……走るのも、先生の世話焼くのも、どっちも『アタシの居場所』ですからね」
過酷なトレーニングで己の限界を更新していく、ウマ娘としての充実感。そして、この不器用で生活能力皆無な男の日常を完璧に支え、誰よりも近い場所で同じ時間を共有しているという、一人の少女としての幸福感。
公私ともに、これ以上ないほど満たされた日々。ネイチャの心身は、かつてないほどの安定と充実感に包まれていた。
「……先生。アタシ、ダービーまで絶対にもっと強くなりますから。先生の描いた完璧なデータ、アタシの足で現実にしてみせます」
「ああ。君のその分厚くなった体幹があれば、もう恐れるものは何もない。……青葉賞で東京のターフを掌握し、そのままダービーの頂まで駆け上がるぞ」
コーヒーの温もりと、揺るぎない信頼。
春のうららかな陽気の中、無敵の重装歩兵と安楽椅子の魔術師は、初夏の大一番に向け、極めて静かに、そして確実にその爪を研ぎ澄ませ続けていた。