ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
そして迎えた、春の東京レース場。
日本ダービーへの切符を懸けた重要な前哨戦――G2『青葉賞』。
ナイスネイチャにとって、そしてハイペリオンにとって。
これが初となる重賞レースへの挑戦であった。
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観客席のスタンドには、現役生のハイペリオン3人娘はちろんのこと、仕事を調整して全国から集結したハイペリオン陣営のOGたちが総出で陣取っていた。パリッとしたスーツ姿の編集長も、ジャージ姿の地方指導者も、エプロンを外してきたおねーさんも。皆一様に、自分たちの誇る「最高傑作」の晴れ舞台を見届けようと、熱気と興奮に包まれている。
電光掲示板に燦然と輝く、1番人気の文字。
かつてであれば、その重圧に押し潰され、おどおどと卑屈な笑いを浮かべていたかもしれない。
しかし、パドックに姿を現したナイスネイチャに、気圧された様子は微塵もなかった。
春先の地獄のような基礎練と、他陣営の猛者たちと削り合った日々。そして何より、自分を日本一の舞台へと導こうとする『完璧な頭脳』がバックについているという絶対的な事実が、彼女に揺るぎない自信を与えていた。
無数のフラッシュを浴びながらも、堂々と、極めて落ち着いた足取りでお披露目を終え。ネイチャは静かに、決戦の舞台へと繋がる地下道へと足を踏み入れた。
薄暗い通路の先。
そこには、ネイチャが自らの手で完璧にアイロンがけを施した、シワひとつない真っ白なシャツを身に纏う安楽椅子の魔術師が、ストップウォッチを片手に静かに佇んでいた。
「――仕上がりは完璧だ。心拍数も理想的な数値を叩き出している」
近づいてくる教え子の足音に、トレーナーは顔を上げ、冷徹な、最高司令官の顔で最終作戦の伝達を始めた。
「作戦は、後方待機。道中はバ群の後ろで徹底して息を潜め、君のその分厚く鍛え上げた体幹に力を溜め込め」
「はい」
「そして、最終コーナーの手前から一気に加速しろ。小細工は要らない。……大外から、全員まとめて派手に巻き上げろ」
その指示に、ネイチャは一瞬だけきょとんと目を丸くした。
「……派手に、ですか?」
これまでのオープンクラスでのレースは、他陣営の仕掛けをデータで無効化し、ゴール前で確実に首一つ抜け出すという、極めて堅実で「地味」な戦法をとってきた。指揮官自身も「リスクを最小限に抑えるのが最良の戦術だ」と語っていたはずだ。
それがここに来て、最も大味で、最も観客を沸かせるような『大外一気』の指示。
不思議そうな顔をするネイチャに対し。トレーナーは、いつもは論理で覆い隠しているはずの『勝負師としての熱』を微かに滲ませて、ニヤリと不敵に笑った。
「なにせ、今までのオープンクラスは、手堅く地味な勝ち星ばかりだったからな。世間にも、君の『本当の出力』を見せてやる機会がなかった」
彼はストップウォッチをポケットにしまい、頼もしい重装歩兵の肩にポンと手を置いた。
「だが、ここは違う。ついに迎えた、重賞戦。日本ダービーへと繋がる『主戦場』だ。
……ならば、ハイペリオンの主砲は、その火力の『お披露目』は、可能な限り、ド派手にぶちかますもんだろう?」
それは、自陣営の最高傑作のスペックに対する、絶対的な信頼の証。どんなに大外を回らされようと、今の君の体幹と脚力ならば、すべてを捻じ伏せて一番前に立てるという、指揮官からの賛辞であった。
「……っ」
ネイチャの胸の奥で、カチリ、と。これまで溜め込んできたすべての熱量が、完全に一つの炎となって点火した。
「――はいっ!」
ネイチャは勢いよく頷き、満面の、一切の卑屈さも迷いもない極上の笑みを浮かべた。
「アタシの主砲、派手にぶちかましてきます!」
力強い足取りで、光の差し込むターフへと駆け出していく。
初夏の東京レース場。二四〇〇メートルの広大な盤面に、いよいよハイペリオン陣営が誇る最強の弩級戦艦が、その姿を現した。
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初夏の風が吹き抜ける、東京レース場。
二四〇〇メートルという広大な緑の盤面を取り囲むスタンドには、未曾有の熱気と、それに相反するような「静かな疑念」が渦巻いていた。
観客たちの視線の先には、最後方を悠然と進むナイスネイチャの姿がある。
オープン特別を無傷で連勝してきたとはいえ、彼女はここまで『重賞』の空気を一度も吸っていない。局地戦で無双していただけの秀才が、猛者が集うこのG2・青葉賞の舞台で、果たして本当に通用するのか。
しかも、東京二四〇〇メートルは「誤魔化しが一切利かない」と言われる過酷なコースである。いくら無敗とはいえ、重賞の激流に呑み込まれて沈んでいくウマ娘を、レースファンたちはこれまで嫌というほど見てきたのだ。
「……折り合いは完璧。かかっている様子も全くないわ」
「うん。ストライドも一定。心拍数も完全にコントロールされてる……でもっ」
スタンドの一角。ハイペリオン陣営のOGたちは、祈るように両手を握りしめ、あるいは双眼鏡を強く握りしめてターフを見つめていた。
中距離ウマ娘の呟きに、編集長が冷や汗を拭う。
指揮官の弾き出したデータを誰よりも信じている彼女たちでさえ、自身の現役時代に何度も味わった「重賞の壁」という呪縛から逃れることはできず、胃の痛くなるような不安と闘っていた。
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レースは向正面から、いよいよ勝負所の第三コーナーへと差し掛かる。
バ群全体がペースを上げ、各陣営のウマ娘たちが牽制し合いながらポジションを押し上げていく中。後方待機を貫いていたネイチャの様子が、そこへ来て『劇的』に変化した。
(――先生。ここですね。アタシの『主砲』の、撃ちどころ)
大ケヤキの向こう側。
最終コーナーのカーブへと突入した瞬間。ネイチャの重心が、獲物を狙う猛獣のように深く、極限まで沈み込んだ。
春先から血を吐くような思いで繰り返してきた、ステイヤーとの走り込み。一流のウマ娘と削り合った追い比べ。その過酷な基礎練によって鍛え上げられた「分厚い体幹」が、いよいよその真価を発揮する。
通常のウマ娘ならば、スピードに乗ったままタイトなコーナーを回れば、猛烈な遠心力によって外へ外へと振られ、足の踏み込みが甘くなる。
しかし、今の彼女は違った。
強大すぎる脚力が弾き出す圧倒的な推進力を、鋼のように鍛え抜かれた腰と体幹が完全に受け止め、遠心力など存在しないかのように、内側の芝をガッチリと掴んで離さない。
「う、嘘でしょ……!? あの速度でコーナーを回りながら、さらに加速してる!?」
双眼鏡を覗いていたOGの一人が、悲鳴のような声を上げた。
ターフを乱暴にめくり上げ、土塊を後方へと撒き散らしながら、彼女はバ群の『大外』へと一気に持ち出した。
そこから先は、戦術や駆け引きなどという生易しいものではなかった。
ただひたすらに、純粋な『暴力的なまでの脚力』による制圧。
東京レース場の五二五メートルの最終直線。抜け出そうともがく先行集団を、大外からやってきた一陣の暴風が、文字通り「まとめて薙ぎ払った」のである。
地味な局地戦しか知らないと言われていた少女の、それが本当の姿だった。絶対防衛圏に守られ、誰よりも自分の足を信じられるからこそ放てる、ブレーキを完全にぶっ壊した限界突破のトップスピード。
それはまさに、ターフという海原を蹂躙するために生み出された『弩級戦艦』の主砲そのものだった。
「――っ!!!」
どよめきは、瞬く間に鼓膜を劈くような大歓声へと変わる。
一バ身、二バ身、三バ身。
追いすがる他のウマ娘たちを引き離し、気づけばナイスネイチャは、たった一人で圧倒的なリードを保ったまま、悠々とゴール板を駆け抜けていた。
数バ身差の、完全なる圧勝劇。重賞の壁など、彼女の前では薄紙ほどの意味も持たなかったのだ。
『――強い、強すぎるっ!! なんだこの末脚は!!』
実況アナウンサーの興奮しきった絶叫が、東京レース場から全国の電波へと乗って響き渡る。
『これまでオープン特別で地道な勝利を重ねてきたナイスネイチャ! しかし、しかしその真の姿は、他を全く寄せ付けない圧倒的な末脚を持つ怪物でした!! 初重賞挑戦となるこの青葉賞を、大外一気の豪脚で並み居る強豪を粉砕してみせたっ! 見事な圧勝で飾りました!!』
わあぁぁぁぁっ! と、地鳴りのような歓声がスタンドを揺らす。
OGたちは涙を流して抱き合い、あるいは腰から崩れ落ちてその絶対的な勝利を噛み締めていた。
『これでナイスネイチャは、無傷の連勝記録をさらに更新! いよいよ次は、ウマ娘、トゥインクルシリーズの祭典・日本ダービーです!』
実況の声は、さらに一段階ギアを上げ、全国のレースファンの心を代弁するように熱く、高く響き渡った。
『天才・トウカイテイオーか! それとも遅れてきた弩級戦艦・ナイスネイチャか! ダービーで無敗同士がぶつかり合う、歴史的な頂上決戦! 今年のダービーは、空前絶後の大注目のレースとなりそうです!!』
歓声の波の中。
ターフの上でゆっくりとスピードを緩めたネイチャは、荒い息を吐きながら、巨大なターフビジョンに映し出される『1着』の文字を見上げた。
勝てた。
重賞の壁を、先生の描いたデータ通りに、圧倒的な力でぶち破ったのだ。
彼女は振り返り、地下道の奥――歓声の届かない暗がりで、ストップウォッチを握りしめて待っているであろう、完璧なシャツを着た怠惰なトレーナーへ向けて、これ以上ないほど誇らしげに、力強く拳を突き上げたのである。
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―――地鳴りのような大歓声がうねりとなって東京レース場を包み込む中。
スタンドの最前列で、揚げ物屋のおねーさんは、手すりを握りしめたまま静かに目を瞑った。
「ああ……」
無意識に、唇から小さな吐息がこぼれる。
目を閉じれば、肌を刺すようなスタンドの熱気と、初夏の青草の匂いが肺の奥まで深く流れ込んでくる。
……憧れた、重賞の空気。
すべてのウマ娘が目指し、選ばれた者だけが吸うことを許される、極限の闘争の残り香。
本当なら、自分もあそこに立ちたかった。あの広大なターフの真ん中で、数万人の歓声を一身に浴びて、あの不器用な指揮官に向けて一番に勝利の報告をしたかった。
でも、無理だった。
才能の壁に阻まれ、自分の船はあの夢の舞台に辿り着くずっと手前で、静かに座礁してしまったのだから。
叶わなかった過去へのほんの少しの未練と、可愛い後輩が成し遂げてくれた偉業への歓喜。相反する感情が胸の奥で複雑に渦巻き、少しだけ目頭が熱く滲んだ、その時だった。
―――ぽん、と。
彼女の肩に、温かく力強い手が置かれた。
「……」
目を開けて振り返ると、そこにはパリッとしたスーツを着崩した編集長が立っていた。
彼女もまた、目元を少しだけ赤く腫らしている。しかし、その顔に浮かんでいるのは、過去の未練など微塵も感じさせない、とても穏やかで晴れやかな笑みだった。
「今は、ネイチャの祝福だ。そうだろ?」
自分たちと同じように夢破れ、それでも共にこの陣営を裏から支え続けてきた戦友の言葉。
そこには、慰めや憐憫など一切ない。ただ、自分たちの叶えられなかった夢をすべて背負い、完璧な形で現実にしてくれた後輩への、純粋な敬意と感謝だけがあった。
その言葉に、おねーさんは小さく息を吐き出し、胸に渦巻いていた感傷を初夏の風の中へと綺麗に溶かした。そして、いつもの「陣営の一番艦」としての、優しくて底抜けに明るい笑顔を取り戻す。
「……そうね」
視線を下ろせば、ターフの真ん中で、自分たちの可愛い重装歩兵が、地下道の奥にいるはずの男に向かって誇らしげに拳を突き上げているところだった。
「ネイチャー!!! かっこよかった!! 重賞ウマ娘! おめでとぉおーーーー!!!」
おねーさんは、柵から身を乗り出すようにして、ターフの上の後輩に向かってちぎれるほど大きく両手を振った。
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座礁した巡洋艦たちが泥臭く繋ぎ合わせた、ハイペリオンという名の防衛線。
長い長い戦線のその先に、ついに、彼女たちは。
一隻の戦艦を、日本ダービーという、G1戦線の中でも最高峰の大海原へと送り出すことに成功する。
スタンドから注がれるOGたちの万雷の拍手と祝福は、初夏の府中の青空へと、いつまでも高く吸い込まれていった。