ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
『重賞ウマ娘』
それは、トレセン学園に在籍する数多のウマ娘たちの中でも、ほんの一握りの存在にのみ許された栄誉ある称号。ナイスネイチャは青葉賞の圧勝劇をもって、ついに名実ともに世代の『上澄み』へと上り詰めたのである。
とはいえ、一ヶ月後には最高峰の舞台である日本ダービーが控えている。
そのため、大々的な祝勝会はダービー後に持ち越しとなり、今夜の打ち上げは、学園の談話室を貸し切った身内だけのささやかなものとなった。
……もっとも、『ささやか』だったのは場所の規模だけであったが。
■
「さぁさぁ、今日はアタシたちの最高傑作の特例チートデーだよ! 遠慮しないでドンドン食べな!」
「ネイチャちゃん、おめでとう! おねーさん特製の、油分を極限までカットしつつ旨味を閉じ込めたヒレカツ、山ほど持ってきたからね!」
机の上には、居酒屋のOGが腕によりをかけて作った豪勢な大皿料理と、揚げ物屋のおねーさんが揚げた特製カツのタワーが所狭しと並べられていた。場所こそ学園の談話室だが、最強の後方支援部隊が総力を挙げて準備したフルコースは、高級ホテルでのパーティーにも引けを取らないほどの熱気と匂いに満ちている。
ウーロン茶やジュースが入ったグラスが、それぞれの手に渡り渡ったところで。
部屋の喧騒がスッと収まり、全員の視線が、上座に立つ安楽椅子の魔術師――ナイスネイチャのアイロンがけによって、今日も見事にシワひとつないシャツを着こなしている陣営の指揮官へと集まった。
彼は手元のグラス、中身は当然、彼専用の深煎りコーヒーだが、を軽く持ち上げ、少しだけ照れくさそうに、けれどどこか感慨深げに口を開いた。
「……いや。正直に言おう。こんな日が来るとは、私は思っていなかった」
静かな談話室に、彼の落ち着いた声が響く。
「我がハイペリオン陣営は、結成当初から『一生の勝利』を掲げてきた。ターフの上での刹那的な栄光よりも、引退後の六十年の人生を五体満足で生き抜くこと。それこそが我々の定義する絶対的な勝利であり、故に……レースでの勝利そのものは、そこまで重要ではないと、私は本気でそう思っていた」
その言葉に、OGたちは優しく目を伏せて頷いた。
才能の壁にぶつかり、怪我のリスクに怯えていた彼女たちを救ってくれたのは、指揮官のその『冷徹なまでに命を優先するロジック』だったからだ。レースでの勝利を至上命題とするこの学園において、彼のその哲学は異端であり、そして彼女たちにとっての絶対的な救いであった。
しかし。
トレーナーはそこで言葉を区切り、主役の席に座る教え子――ナイスネイチャへと、ひどく穏やかな、そして熱を帯びた視線を向けた。
「しかし……今日この時から、私はその認識を変えようと思う」
彼は、青葉賞の最終直線で彼女が見せた、あの常識外れの弩級の末脚を思い出すように、フッと口角を上げた。
己の限界を叩き割り、数万人の大歓声のど真ん中で誇らしげに拳を突き上げた、あの眩しい姿を。
「……勝利とは、素晴らしいものだ。私の組み上げた冷たいデータなどという枠組みを軽々と飛び越えて、ターフで輝く君の姿は……私がこれまで見てきたどんな景色よりも、美しかった」
その率直すぎる、一切の屁理屈も理論武装もない純粋な賛辞に。
ネイチャは一瞬だけ目を丸くし、それから、顔から火が出そうなほど真っ赤になって俯いてしまった。
「せ、先生……急に、そんなストレートに……」
照れて身をよじる重装歩兵の姿に、OGたちからクスクスと温かい笑い声が漏れる。トレーナーは苦笑しつつ、高く、堂々とグラスを掲げた。
「無傷での帰還という絶対防衛線の上に、勝利という最大の戦果を重ねてくれた我らがハイペリオンの最高傑作。……ナイスネイチャの、重賞勝利に!」
指揮官の号令に合わせ、談話室に集った全員が、一斉にグラスを高く突き上げた。
「「「乾杯!!!」」」
カチンッ! と、いくつものグラスが華やかな音を立ててぶつかり合う。
冷たいデータと防衛線を至上としてきた陣営が、初めて『重賞勝利の美酒』の味を知った夜。
豪勢な料理を囲みながら、尽きることのない笑顔と祝福の声が、夜の学園の談話室にいつまでも温かく響き渡っていた。
■
祝勝会の熱狂から数日が過ぎた、ある日の午後。
いつものように冷暖房が完璧に効いたトレーナー室には、コポコポとお湯が湧き上がる心地よい音が響いていた。
「重賞ウマ娘、かぁ……」
豆の香りが部屋に満ちていく中、ネイチャはドリッパーにお湯を注ぎながら、ふと独り言のように小さく呟いた。
「どうしたんだい?」
定位置の安楽椅子でタブレットのデータを眺めていたトレーナーが、顔を上げて尋ねる。ネイチャはコーヒーを二つのカップに注ぎ分けながら、少しだけ照れくさそうに、けれど本音をこぼすように眉尻を下げた。
「いやー……青葉賞勝ってから、すれ違う生徒たちに振り向かれたり、後輩からサイン求められたりするんですけど。正直、アタシがその『上澄み』になったっていうのが、イマイチこう、実感としてないと言うかー。……なんだかまだ、他人の夢の中にいるみたいな気分なんですよね」
オープン特別を堅実に勝ち上がってきた時とは比べ物にならないほどの、周囲の激しい環境の変化。
メディアの扱いも、学園内での注目度も、すべてが劇的に変わってしまった。しかし、彼女自身のやっていることは、春からずっと変わらない泥臭い基礎練と、この男のシャツのアイロンがけである。そのギャップが、彼女に不思議な浮遊感を抱かせていたのだ。
「ふむ」
トレーナーは、差し出されたコーヒーカップを受け取りながら、小さく、そしてひどく楽しそうに笑った。そして、デスクの引き出しをガサゴソと探り、一通の白い封筒を取り出してネイチャの前にスッと差し出した。
「理事長から、こういうものを頂いたがね」
「ん? なんですか、これ」
ネイチャは不思議そうに首を傾げながら、その封筒を受け取った。
トレセン学園の正式な印が押された、少し分厚く上等な和紙の封筒。ペリペリと封を切り、中に入っていた三つ折りの書類を開いて、そこに印字された太字のゴシック体に目を落とす。
『東京優駿(日本ダービー) 公開枠順抽選会 兼 記者会見のご案内』
「…………おおっ」
その文字を目にした瞬間。
ネイチャの口から、感嘆とも感極まったともつかない、震えるような声が漏れた。
■
それは、世代の頂点を決める最高峰の舞台へと上がる権利を勝ち取った、選ばれし十八名にのみ送られる絶対的な証明書。
紙の重みと、そこに書かれた「東京優駿」という四文字の威力が、フワフワとしていた彼女の足元を、力強く、そして強烈に『現実』へと引き戻したのだ。
書類を見つめたまま固まっている重装歩兵に向け。
安楽椅子の魔術師は、コーヒーの香りを楽しみながら、最高司令官としての頼もしく温かい言葉を投げかけた。
「君自身がまだ実感なくとも、世界は確実に、君を世代の主役として認めて進んでいる」
彼はカップを置き、静かに微笑んだ。
「だから君は、これまで通りでいい。何も気負うことなく、安心して日々の修練と兵站管理に励むといいさ。
……君が積み上げてきた日常の先に、その舞台はちゃんと繋がっているのだから」
「……はいっ!」
手の中の書類をぎゅっと胸に抱きしめ、ネイチャは満面の笑みで力強く頷いた。
実感がないなどという甘えは、もう完全に吹き飛んでいた。自分はもう、あの天才と同じ戦場に立つ資格を得たのだ。
初夏の大一番まで、あとわずか。
静かなトレーナー室に漂うコーヒーの香りと共に、陣営のすべてを懸けた「頂上決戦」へのカウントダウンが、今、確かな現実として動き出していた。
■
初夏の日差しが照りつける、トレセン学園のグラウンド。
そこでは今、ダービーを目前に控えた二人のウマ娘が、火花を散らすような激しい合同練習を行っていた。
「いっくよーっ! ネイチャ!」
「こっちだって、負けないよっ!」
無敗の天才・トウカイテイオーの絶対的なバネが生み出す、軽やかでしなやかなストライド。対するは、青葉賞を圧勝で制し、極限まで鍛え抜かれた体幹を手に入れた弩級戦艦・ナイスネイチャの、力強くターフを削り取るような重厚な踏み込み。
最終直線を想定した二人の並走は、見学していた他の生徒たちが息を呑むほどのすさまじい迫力だった。
春先までは、やはり天才たるテイオーのトップスピードにネイチャが引き離される場面が目立っていた。しかし、過酷な基礎練と他陣営の猛者たちとの削り合いを経て、ここに来て二人の実力差は劇的に縮まっていた。
純粋な最高速度ではまだ僅かにテイオーが上回っているものの、コーナーの立ち上がりの遠心力に耐える力や、持久戦の展開に持ち込めば、ネイチャがテイオーを完全に差し切る場面も珍しくなくなっていたのだ。
ダダンッ! と。
二人の影がほぼ同時に、仮想のゴール板を駆け抜ける。
「っはぁ、はぁっ……!」
「ふーっ、やーったぁ!」
荒い息を吐きながらスピードを緩めるネイチャの横で、テイオーは額の汗を拭いながら、ピコピコと耳を揺らして満面の笑みを浮かべた。今回のスプリント勝負は、ほんの首差でテイオーに軍配が上がっていた。
「えへへー! ボクの方が、まだ早いもんねー!」
「くっ……ちょっと仕掛けが遅れちゃったかな。でも!」
勝ち誇ってVサインを突き出すテイオーに対し、ネイチャは悔しそうに顔をしかめつつも、すぐに不敵な笑みを返し、ビシッとテイオーを指差した。
「本番の二四〇〇メートルなら、最後に前にいるのはアタシだからね! ダービーは、絶対にアタシが勝つから!」
「むーっ! なにさ! ダービーも絶対にボクが勝つもんねー! テイオー様は無敵なんだから!」
火花を散らしながら、まるでおもちゃを取り合う子供のように「ボクが勝つ!」「アタシが勝つ!」と言い合う二人。しかし、その瞳の奥には互いを最大の好敵手と認める、極めて純粋で熱い闘志が燃え盛っていた。
■
やがてテイオーと別れ、ハイペリオン陣営単独のチーム練習へと移行したグラウンドの片隅。そこには、トレセン学園の誰もが我が目を疑うような、極めて異例の光景が広がっていた。
「……コーナーでの重心移動が、想定データよりコンマゼロ五秒遅いな。右後肢の踏み込み角度をあと二度内側へ修正しろ。それで遠心力のロスを完全に殺せるはずだ」
厳しい日差しが降り注ぐターフの上。
そこに立っていたのは、ネイチャのアイロンがけによって完璧にシワが伸ばされたシャツを腕まくりし、ストップウォッチとタブレットを構えた『安楽椅子の魔術師』その人であった。
普段は冷暖房の効いたトレーナー室から一歩も動かず、現場の指揮はウマ娘たちに丸投げしてデータばかり眺めている怠惰な男。その彼が、自ら最前線の泥臭いグラウンドに降り立ち、直接教え子に指示を飛ばしているのだ。
「はいっ!」
ネイチャは汗だくになりながら指示通りに修正の走りを繰り返し、トレーナーの元へと戻ってくる。すると彼は、彼女が息を整える間も惜しむように、その熱を持った太ももからふくらはぎ、足首にかけての筋肉を、自らの手で直接触診し始めた。
「……筋肉の熱量は規定値内。しかし、ヒラメ筋の張りが少しだけ強いな。これ以上の出力アップは靭帯に不要な負荷をかける。今日のメニューはここまでだ。すぐにアイシングとケアに移行しろ」
「了解です! ……あ、先生。最後の直線の立ち上がり、もう少しかかとに重心を残した方が脚を無駄なく回せる気がするんですけど、どうですか?」
「ふむ。君の体感データか。ならば、そのフィードバックを数式に組み込んで、明日のメニューのパラメーターを再調整しよう。悪くないアプローチだ」
直接触れ、筋肉の張りを感じ取り、リアルタイムで教え子の感覚を吸い上げ、その場ですぐに計画を練り直していく。
―――かつての「安全圏からデータを押し付けるだけの冷徹な管理」から、「共に前線で血肉の通ったデータを削り出す泥臭い共闘」へ。
その修正のスピードと精度の上がり方は、鬼気迫るものがあった。
■
グラウンドのあちこちから、他陣営のトレーナーたちがその異様な風景を遠巻きに見つめ、ざわめきを交わしていた。
「おい、見ろよ……あの『引きこもり』のハイペリオンのトレーナーが、グラウンドに出てるぞ」
「しかも直接触診までしてる。いつもは中距離ウマ娘に全部やらせてるはずなのに……」
「……本気だ。あの男、マジでウチの陣営はおろか、あのトウカイテイオーごと食い散らかすつもりだ」
これまで、「怪我をさせないこと」を絶対の至上命題として、勝利への執着をあえて見せてこなかった男。
その安楽椅子の魔術師が、自ら心地よい防衛線を飛び出し、教え子とともに勝利という最高峰の戦果を捥ぎ取るために、その凄まじい演算能力のすべてをフル稼働させている。
『あの男が本格的に動き出した』
それはつまり、彼が弾き出したデータ上に『日本ダービー制覇』という道筋が、すでに明確に描かれているという何よりの証拠であった。
「……本当に、ナイスネイチャにダービーを取らせる気だ」
誰かがポツリとこぼした呟きは、初夏のグラウンドの風に乗って広がり、学園全体の空気を、ダービーへ向けた焦燥と興奮が入り混じる「熱」へと確実に変えていった。