ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
決戦の地たる東京レース場を明日に控えた、ダービー前日の夕暮れ。
外の世界――メディアやファン、そして他陣営が放つヒリヒリとした熱狂と焦燥がトレセン学園全体を包み込んでいるというのに、ハイペリオン陣営の最高司令部たるトレーナー室だけは、まるで外界から完全に切り離されたかのような、ひどく穏やかな静寂に満たされていた。
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シャカ、シャカ、と。
部屋に響いているのは、コンロの火の上で手網焙煎器を振る、極めて規則正しい金属音だけだ。
ナイスネイチャは、ジャージ姿のまま腕をまくり、手網の中で薄緑色から茶褐色へと変化していくコーヒーの生豆を、じっと真剣な眼差しで見つめていた。
明日は生涯に一度の日本ダービーだというのに、彼女がやっているのは「いつものルーティーン」である。気負うことも、特別な願掛けをすることもなく、ただ淡々と陣営の『兵站』を整えている。
その、あまりにも変わらない普段通りの後ろ姿を見つめながら。
安楽椅子に深く腰掛け、タブレットの画面を無意味にスクロールさせていたトレーナーが、ふと、その静寂を破るように声をかけた。
「……なぁ、ネイチャ。緊張、しないのかい?」
その問いかけに、ネイチャは手網を振る手を止めず、パチッ、という豆が一ハゼを迎える音に耳を澄ませながら、小さく苦笑いをこぼした。
「あー、どうでしょう。正直、自分でもよくわからないです」
シャカ、シャカ。再び規則正しい音が鳴る。
「緊張してるっていえば、してますね。心臓の音、いつもより少し早いですし、さっきから指先も少しだけ冷たいですから。ただ……なんていうんでしょう」
パチ、パチパチ。一ハゼの心地よい音が連続し始める。ネイチャは豆の色の変化から一瞬だけ目を離し、背中越しに指揮官へと穏やかな声を向けた。
「特別なことをしようとは思わないんです。普段の事を、普段通りにすればいい。先生が作ってくれた完璧なデータ通りに、アタシの脚を回すだけ。……そう思ってますから」
気負いのない、しかし鋼のように強固な芯のある言葉だった。
そのあまりにも落ち着き払った重装歩兵の背中に、指揮官は小さくため息をつき、タブレットをデスクに伏せた。
「……正直に言おう。私は今、極めて非合理的なことだが……ひどく緊張しているよ」
「え? 先生が?」
意外すぎる言葉に、ネイチャは少しだけ目を丸くして彼を振り返った。どんな時でも冷徹なロジックを崩さず、絶対的な安全圏から盤面を支配してきた安楽椅子の魔術師。その彼が、自ら不安を口にするなど、これまでの日々では考えられないことだった。
「ああ。なにせ私にとっても、これが初めてのG1、トゥインクルシリーズ最高峰だからね。十数万人の観衆が放つ異様な熱狂……そこから生じる極限のプレッシャー……私のデータでも完全には演算しきれない不確定要素……」
トレーナーは、自らの震えを隠すように両手を組んで、自嘲気味に唇を歪めた。
「普段なら気にもとめない事………。『青葉賞を勝ったウマ娘はダービーに勝てない』というジンクスまで気になってしまってね。盤面を支配すべき指揮官でありながら、あれこれとネガティブなシミュレーションばかりを考えてしまう」
彼が背負っているのは、ただのレースの勝敗ではない。ナイスネイチャという一人の少女の『六十年の人生』と『足の無事』、そのすべてを賭けた大一番なのだ。守るべきものが大きくなりすぎたが故に、彼の脳には、熱という名のノイズが混じり始めていた。
「らしくないですねー、先生」
ネイチャはクスクスと笑いながら、再び火に向き直る。
パチピチッ、という高く短い二ハゼの音が鳴り始めた絶妙なタイミングで火を止め、熱を持った豆を手早くザルに移して、うちわで手際よく冷却させ始めた。香ばしい、深煎りの芳醇な香りが一気に部屋へと弾ける。
「ああ、実にらしくない。全く……。君には以前、『熱狂や不確定要素こそが、ウマ娘を暴走させ自らの未来を潰してしまう』などと偉そうに宣っておいて、いざ本番を前にすると、自らがその非論理的な思考の沼に沈み込むとはね。……指揮官失格だな」
力なく笑う男に。ネイチャは冷ましたばかりの豆をミルにかけ、ゴリゴリとハンドルを回しながら明るい声を返した。
「あはは。じゃ、落ち着きましょうか。脳のオーバーヒートには冷却が必要です」
挽きたての粉をドリッパーにセットし、細いお湯をゆっくりと、中心から円を描くように注いでいく。
ぷっくりとドーム状に膨らむコーヒーの粉。コポコポとお湯が落ちる音が、トレーナーの張り詰めた神経を少しずつ解きほぐしていく。
「こーいうときは、珈琲です。……確か、こうでしたよね?」
ネイチャは言葉を区切り、ドリップの手を止めずに、悪戯っぽく、けれどこの上ない深い敬愛を込めて、ふふっと笑った。
「『戦場へ赴く前夜に、兵士に白湯やデカフェを振る舞う指揮官はいない』」
「……っ」
トレーナーは弾かれたように顔を上げた。
それは、彼がナイスネイチャという才能を見出し、絶対に怪我をさせずに頂点へ連れて行くと決めたあの夜――彼女をハイペリオン陣営へスカウトした際に、自らの覚悟を示すために放った言葉だった。
まさか、最高峰の戦いを明日に控えたこの夜に。緊張に飲まれかけているであろう己の教え子から、その言葉をそっくりそのまま、自らの精神安定剤として返されることになるとは。
「……ふっ。これは、見事に一本取られたか」
トレーナーはボサボサの頭をガシガシと掻き、今度こそ心底からの、憑き物が落ちたような毒気の抜けた笑いをこぼした。
「と、いうことで。ネイチャさん特製の、気合いが入るブラックコーヒーです。どうぞ」
湯気を立てる漆黒の液体が注がれたカップが、デスクの上にコトリと置かれる。
トレーナーは無言でそれを受け取り、目を閉じて香りを楽しみ、ゆっくりと一口啜った。完璧な温度、雑味のない深い苦味、そして後から来る微かな甘み。
「……ああ。旨いな」
「でしょ? アタシの抽出技術、あれからだいぶ成長してますから」
胸を張って自慢げに笑うネイチャ。彼女もまた、自分のカップを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと一口啜った。
深くて、温かい苦味が、二人の間を確かに繋いでいく。
「うん、美味しい」
ネイチャはカップを持ったまま、安楽椅子に座る男の目を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、かつて自分が持っていた卑屈さも、明日の大舞台への恐れも、一切の濁りもない。あるのはただ、目前の戦場を完全に制圧するという、静かで強大な闘志だけだ。
「大丈夫ですよ、『トレーナー』」
普段の「先生」という呼び方ではなく、確かな戦友としての、陣営のトップとしての敬称。
「私、トレーナーが、そしてハイペリオンのみんなが。手塩にかけて造り上げた『弩級戦艦』ですから。どんな荒波が、熱狂が来ようと、どんな不確定要素が立ち塞がろうと、絶対に沈みません」
彼女は、最高司令官の不安をすべて吹き飛ばすような、極上の笑みを浮かべた。
「だから……安心して、特等席から見ててください」
それは、兵士から指揮官へ贈られる、これ以上ない絶対的な勝利の確約。
芳醇なコーヒーの香りが漂う決戦前夜の司令室で、魔術師と重装歩兵は、静かに、そして熱く、明日という運命の日へ向けてその覚悟を、完全に一つに結び合わせたのであった。