ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
初夏の刺すような日差しを照り返す、東京レース場。
十万余の観衆がひしめき合う巨大なスタンドは、これから始まる『ウマ娘レースの祭典』への異様なまでの熱狂と焦燥で、まるでひとつの生き物のように地鳴りを響かせていた。
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この年の日本ダービーは、歴史に類を見ない異様な熱気に包まれていた。
ファンやメディア、そして熟練の予想家たちの間でも、人気と評価は見事なまでに『二分』されていたのである。
一人は、皐月賞を圧倒的なパフォーマンスで制し、無敗のまま二冠目を目指す大本命――トウカイテイオー。
皇帝の系譜を継ぐその圧倒的なスター性と、天性のバネが生み出す未知数のトップスピードは、誰の目にも「選ばれた天才」として輝いて見えた。
そしてもう一人が、皐月賞という王道を自ら蹴り飛ばし、青葉賞での苛烈な大外一気でターフを蹂躙した、ハイペリオン陣営の最高傑作――ナイスネイチャ。
無敗のままダービーへと直行した彼女は、膨大なデータと過酷な鍛錬によって造り上げられた「完璧な体幹」を武器に、天才を物理と論理で叩き潰さんとする『弩級戦艦』として、テイオーに並ぶ大本命として君臨していた。
天才の閃きか、それとも極限まで磨き上げられた論理か。
パドックに二人が姿を現した瞬間、十万人の観衆から割れんばかりの大歓声が降り注いだ。
テイオーはいつものように軽やかなテイオーステップを踏みながら、無邪気な笑顔で観客の歓声に堂々と応えている。
一方のネイチャは、その凄まじい熱気とプレッシャーの渦中にありながら、表情を微塵も崩すことはなかった。かつてのように自分を卑下し、視線を泳がせる気弱な少女はそこにはいない。
彼女はただ真っ直ぐに前を見据え、自らに降り注ぐ歓声を、自らの力を発揮するための確かな燃料として、静かに吸収していた。
その研ぎ澄まされた重装歩兵の風格に、スタンドからはテイオーへ向けられるものと同等か、あるいはそれ以上の地鳴りのような拍手が巻き起こった。
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お披露目を終え、ターフへと繋がる薄暗い地下道。
外の喧騒が嘘のように静まり返ったその空間で、安楽椅子の魔術師は、ストップウォッチを片手に自らの教え子を待っていた。
彼の身を包むのは、ネイチャの厳しい検閲と丁寧なアイロンがけによって、シワひとつなく完璧に整えられた白いシャツだ。
「――仕上がりは、言うまでもなく完璧だ。心拍数も、筋肉の弾力も、私の描いた理想値のさらにその上を行っている」
近づいてきたネイチャに向け、トレーナーは極めて冷静な、しかしその奥に隠しきれない熱情を孕んだ声で告げた。ここに至るまで、彼らは数え切れないほどのシミュレーションを重ねてきた。
だが、この最後の瞬間に、もはや複雑な戦術指示や小賢しいデータ開示は必要なかった。
「やってきたことを、そのまま出せばいい」
トレーナーは、タブレットを置き、ただ一人の教え子の目を真っ直ぐに見据えた。
「最終直線の五二五メートル。あそこに差し掛かった時、君は間違いなく世界で一番先頭に立っているだろう。……あとは、持てる全てをぶつけ合う『追い比べ』だ」
「わかってますって」
ネイチャは、張り詰めた地下道の空気の中で、ふっと柔らかく、そしてこの上なく不敵な笑みをこぼした。
「一番前までは、先生のデータが連れて行ってくれる。そこから先は、アタシ自身の脚で競り勝つ。……約束しましたからね」
「ああ、頼んだぞ。私の、無敵の重装歩兵」
十万人の熱狂が待ち受ける光の海へ。
笑い合う二人の間に、それ以上の言葉は不要だった。ネイチャは力強く一度だけ頷くと、決戦のターフへと力強い足取りで向かっていった。
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その頃、スタンドの最前列。
最もターフに近い特等席には、日本中から集結したハイペリオン陣営のOGたちが、肩を寄せ合うようにして身を乗り出していた。
「あの子が……本当に、G1を走るんだ……!」
地方の現場で後進の指導に当たっているOGが、双眼鏡を握りしめながら感極まった声で呟いた。
彼女たちの陣営は、結成当初から「無事是名馬」を掲げ、勝利よりも生存と撤退を最優先としてきた。才能の壁にぶつかり、G1という華やかな舞台など一生無縁だと思っていた彼女たちにとって、自分たちの後輩が、しかも大本命としてこのダービーのターフを踏みしめているという事実は、奇跡以外の何物でもなかった。
「泣くのはまだ早いよ。アタシたちの最高傑作は、あんなとこで満足するタマじゃないんだから」
編集長が目頭を拭いながら強がって見せる横で、揚げ物屋のおねーさんは、ゲートへと向かっていくネイチャの背中を、祈るような、慈しむような目で見つめていた。
「無事に走り切って、そして……堂々と、一番前で戻ってきて、ネイチャ」
かつて自分たちが泥臭く紡ぎ、繋ぎ止めてきた陣営の『絶対防衛線』は、今やダービーの頂点をも射程に捉える、最強の矛へと昇華されていた。
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一方、喧騒を見下ろす観客席上段の特別VIP室。
そこでは、トレセン学園の歴史にその名を刻む二人の絶対強者――シンボリルドルフとマルゼンスキーが、ガラス越しにターフの熱狂を静かに見下ろしていた。
「ふふっ。二人とも、本当にいい顔をしてるわね?」
優雅に微笑みながら、マルゼンスキーがターフに散らばるウマ娘たちを見渡す。その視線の先では、トウカイテイオーとナイスネイチャが、互いの存在を強烈に意識しながらも、最高に高まった集中力の中でゲートへの準備を進めていた。
「ああ。天性のバネで空を飛ぶテイオーと、盤石の体幹で大地を削るナイスネイチャ。……あの二人の実力は、完全に拮抗している」
腕を組んだまま、皇帝・シンボリルドルフが重々しく頷いた。
その声には、自身の系譜を継ぐ天才への期待と、その天才を真っ向から脅かす秀才への底知れぬ畏怖が入り混じっていた。
「ふふ、どうなの? ルドルフとしては、やっぱり可愛いテイオーに勝ってほしいんでしょ?」
マルゼンスキーの悪戯っぽい問いかけに、ルドルフはふっと自嘲気味に目を細めた。
「ああ、個人的にはね。彼女には、無敗でこの景色を駆け抜けてほしいと心から願っている。……だが」
ルドルフの視線が、モニターに映し出されたナイスネイチャの、鋼のように鍛え抜かれた腰回りの筋肉と、一切の迷いのない静かな瞳でピタリと止まる。
「レースは、個人の感傷や才能だけで決まるような、そんな生易しいものではない。極限の鍛錬と、狂気じみたロジックの結晶……あれを捻じ伏せるのは、いかにテイオーといえども容易ではない。マルゼンスキー、君もわかっているだろう?」
「もちろんよ」
マルゼンスキーは、これから繰り広げられる未知の速度領域を想像して、ゾクゾクとするような感覚に身を委ね、不敵な笑みを浮かべた。
「あの青葉賞の走り……ターフが悲鳴を上げるような重さを持つ末脚と、テイオーの次元の違うバネ。どっちが前でゴールを駆け抜けるか、本気でわからなくなってきたわ。……最高に熱いレースになりそうね」
十万人の歓声が、一瞬の静寂へと収束していく。
ファンファーレの音が、初夏の府中の空へと高らかに鳴り響く。
天才と秀才。直感と論理。誰も見たことのない、歴史に残る一騎打ちの火蓋が、今まさに切って落とされようとしていた。