ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
恐ろしいほどの、静寂だった。
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十万人を超える大観衆が詰めかけ、その熱気で空気が陽炎のように歪む初夏の東京レース場。しかし、スターターが赤い旗を振り下ろし、運命のゲートが開くその一瞬だけは、世界からあらゆる音が消え去ったかのような錯覚に陥った。
ガチャァンッ!
という硬質な金属音が鳴り響いた瞬間、十八人の選ばれしウマ娘たちは、誰一人として出遅れることなく、まるでひとつの精密な機械が作動したかのように完璧なスタートを切った。
あまりにも美しく、そして恐ろしいほどに均整のとれた出走。誰かがバランスを崩すこともなく、誰かが逸ることもない。
世代の頂点を決める『日本ダービー』という極限の重圧の中にあって、彼女たちは各々の持つ闘争心と戦術を完璧に制御し、ターフという名の広大な海原へと滑り出していった。
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その完璧な隊列の動きを、地下道の暗がりにあるモニター越しに見つめながら、安楽椅子の魔術師たるトレーナーは、組んだ両手に静かに息を吹きかけた。
(……見事だ。全ウマ娘の初期挙動、完全にシミュレーションの許容範囲内。極度の緊張から来るオーバーペースも、出遅れという致命的なバグもない)
彼の頭脳は、画面に映る十八の点の動きをリアルタイムで数値化し、幾重にも分岐する未来の盤面を猛烈な勢いで演算し始めていた。
第一コーナーから第二コーナーへと差し掛かる中、レースの隊列は淀みなく、美しく形成されていった。
先頭集団が作り出すペースは、決して遅くはないが、狂気的なハイペースでもない。各陣営が互いの出方を冷徹に窺う、息の詰まるような神経戦。
その隊列の中前目、六番手という絶好のポジションにつけたのは、大本命にして無敗の天才・トウカイテイオーであった。彼女の走りは、重圧など一切感じさせないほどに軽やかだった。ターフの芝を蹴るのではなく、撫でるようにして推進力を生み出す天性のバネ。その一挙手一投足が発する「皇帝の系譜」としての絶対的なオーラは、周囲を走るウマ娘たちに目に見えない強烈なプレッシャーを与え続けていた。
そして、その天才のすぐ斜め後ろ、まるで影のようにピタリとマークについているのは、三番人気に支持された刺客・レオダーバンであった。彼女の瞳には、一切の迷いがない。「トウカイテイオーを徹底的に視界に収め、その動きに合わせて仕掛ける」という明確な殺意・戦術が、その力強いストライドからありありと伝わってくる。
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一方、その前線のヒリヒリとした駆け引きから遠く離れた、後方十二番手。
そこに、もう一人の大本命たる『弩級戦艦』ナイスネイチャはいた。
華やかなテイオーの走りとは対照的に、彼女の走りは極めて地味で、重厚で、機械的であった。ストライドのブレはミリ単位で修正され、呼吸のテンポは心拍計が刻むメトロノームのように一定。周囲のウマ娘が前方のテイオーの気配に呑まれ、焦りから微妙にポジションを上下させる中、ネイチャだけは完全に外界のノイズを遮断していた。
彼女は知っている。今の自分の役割が、エンジンを極限まで冷やし、燃料を一滴たりとも無駄にせず溜め込むことだけであると。
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「……落ち着いてる。恐ろしいくらいに、完璧な折り合いよ……」
観客席の最前列。手すりがひしゃげるほどに強く握りしめながら、現場指揮官たる中距離ウマ娘が震える声で呟いた。
その隣で、揚げ物屋のおねーさんは祈るように両手を組んでいた。
「ええ……。あの子、自分が今ダービーの大本命として走ってるってこと、本当に分かってるのかしらってくらい、いつも通りの走りだわ」
オープン戦を走っていた頃から、何一つ変わらない地道なフォーム。しかし、その一歩一歩がターフに刻み込む重みは、あの頃とは次元が違った。春からの地獄のような基礎鍛錬と、トレーナーやОG達が総出でサポートし、他のチームすらも巻き込みながら培われた、鋼のような筋肉の鎧。
それが今、巨大なエネルギーを内包したまま、静かに爆発の時を待っている。
「そうだ、その調子だネイチャ……! 周りに惑わされるな。お前はお前の、アタシたちの信じた兵站線を守り抜け……!」
編集長が、スーツの胸元を握りしめながら呻くように叫ぶ。
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レースは、向正面(バックストレッチ)の中間地点へと差し掛かった。
ここに至っても、静寂にも似た均衡は崩れない。
トウカイテイオーは、包まれるリスクを嫌うように、ほんのわずかに外側のラインへと進路を取りながら追走を続けていた。天才ゆえの嗅覚が、バ群の密集地帯である内側の窮屈さを無意識に避けているのだ。それに合わせるように、マークするレオダーバンも外へと持ち出す。
対照的に、ナイスネイチャはひたすらに内側の経済的なコースを突き進んでいた。ラチ沿いスレスレ、一歩でも踏み外せばバランスを崩しかねない過酷なライン取り。しかし、彼女の寸分の狂いもない体幹は、その狭く息苦しいルートを「最もロスのない安全圏」として悠々と往く。
そして、運命が動いたのは、大ケヤキの向こう側――第三コーナーへと差し掛かった、まさにその瞬間だった。
「――来るぞ」
地下道のトレーナーが、ストップウォッチのボタンに指をかけながら鋭く目を細めた。モニターの中で、中前目にいたトウカイテイオーの重心が、ほんのわずかに前へと傾く。天性のバネが、いよいよその本来のパワーを解放し始めたのだ。
―――グンッ、と。
目に見えて、テイオーのストライドが伸び、バ群の外目を回るようにして一気に前へと進出を開始する。
『天才が動いた!』
その事実は、十万人の観衆を熱狂の渦に叩き込むと同時に、ターフを走る他のウマ娘たちにとっての「絶望の号砲」となった。
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「い、行かせるかぁっ!」
レオダーバンが即座に反応し、テイオーの背中を追って外から凄まじい脚で追いすがる。二人の実力者が外を回って猛烈な進出を開始したことで、中団から後方に控えていた他のウマ娘たちも、たまらずそれに引きずられるようにスパートをかけ始めた。
「テイオーが仕掛けた! ここで置いていかれたら終わりだ!」
「外だ! 外へ持ち出して追え!」
焦燥と恐怖。天才が作り出した強烈なプレッシャーに耐えきれず、バ群全体が外側へと膨らみながら、一斉にペースアップを図る。レースの均衡は完全に崩れ去り、誰もが外の進路を求めて殺到した。
しかし。
その熱狂とパニックの渦中にあって、ただ一人。
安楽椅子の魔術師の脳内シミュレーションと完全に同調していた重装歩兵だけは、その『空白』を見逃さなかった。
(――不確定要素の動きにより、バ群全体に外側への強烈な遠心力が生じる。……光が強大であればあるほど、その裏には必ず、圧倒的な『影』が生まれる)
トレーナーの冷徹な頭脳と、ナイスネイチャの戦術眼が、完全に一つの結論へと結びつく。
大本命のトウカイテイオーが外を回り、他陣営がそれを追って外へと意識を向けた結果。広大な東京レース場の、最も内側――ラチ沿いのルートが、まるでモーセの海割れのように、ぽっかりと、そして美しく『一本の道』として空いたのだ。
「……いただきましたっ!」
ネイチャの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
これまでの地味な走りは、すべてこの一瞬のためにあった。彼女は外の喧騒など一切意に介さず、ぽっかりと空いた内側の最深部へと、一気にその巨体を滑り込ませた。
第四コーナー。勝負の分水嶺。
ここで、ナイスネイチャの走りが『劇的』に変貌を遂げる。
これまでの淡々としたストライドから一転。彼女は極限まで腰を落とし、まるで獲物を狙う獣のように、あるいはターフに根を張る巨木のように、その重心を深く、深く沈み込ませたのだ。
(さあ、見せてやれ。春から血を吐く思いで鍛え上げ、他陣営の猛者たちとの削り合いで造り上げた、君のその分厚い体幹を!)
地下道の片隅で、魔術師が心の中で熱く咆哮する。
コーナーの急カーブ。本来であれば、猛烈なスピードで進入すればするほど、巨大な遠心力が働き、ウマ娘の体は外へ外へと押し流される。インコースを突くということは、その遠心力に抗いながら、なおかつスピードを維持しなければならないという、物理法則への反逆を意味する。
だが、今の彼女にとって、その程度の負荷は『想定内』。
いわば、日常の延長に過ぎなかった。
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ダァァァンッ!! と。
ネイチャの強靭な右肢が、ターフの芝を根こそぎ抉り取るように踏み込んだ。
発生する凄まじい推進力と、外へ逃げようとする遠心力。その相反する巨大なエネルギーの衝突を、彼女の鋼のような腰回りから太ももにかけての筋肉群が、軋みを上げながらも完璧に受け止め、封じ込める。
ブレない。
一ミリたりとも、外へと膨らまない。
彼女は遠心力という見えざる敵を物理の力で完全にねじ伏せ、コーナーの最も内側――本来であれば誰もフルスピードでは回れないはずの極限の鋭角を、凄まじい速度のまま突き進んでいった。
「なっ……!?」
その光景に、前方を走っていた先行・逃げ集団のウマ娘たちは、己の目を疑い、そして背筋に氷のような恐怖を走らせた。
トウカイテイオーを警戒し、外側にばかり意識を向けていた彼女たちの視界の端。
ガラ空きだと思っていた最も内側のラチ沿いから、地響きのような重低音を響かせながら、漆黒のオーラを纏った『弩級戦艦』が、あり得ない角度と速度で突進してくるのが見えたからだ。
ターフを乱暴にめくり上げ、風を切り裂き、後方に土塊を撒き散らしながら。
ナイスネイチャは、第四コーナーを抜ける手前の極端に短い距離で、これまでのビハインドをあっという間に帳消しにし、逃げ粘る先頭集団のすぐ背後へと、その鋭い牙をいよいよ深く食い込ませたのである。