ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話   作:灯火011

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ナイスネイチャの契約準備

 後日。ナイスネイチャは「ハイペリオン」のチーム練習に、仮契約という形で正式に参加することとなった。

 

 初日、彼女はどんな奇抜な特訓が待っているのかと身構えていたが、渡されたメニューは拍子抜けするほど地味な「基礎訓練」の反復だった。しかし、いざバ場に出てそれを実行してみると、すぐにその恐ろしさに気づくことになる。

 

 心拍数、ペース配分、インターバルの秒数、さらには関節の可動域をミリ単位で意識させるようなフォーム指定。それは、ウマ娘の肉体を限界の「手前」で完璧に制御し続けるという、極めて息の詰まる、そして確実に全身の筋肉を削っていく厳格なものだった。

 

 しかも、奇妙なことにトレーナー本人は現場に一切姿を見せない。

 

 練習のルーティーンはこうだ。

 

 まず、朝一番に空調の効いたトレーナー室に集合する。彼は定位置のパーソナルチェアに深く座り、自前で挽いた深煎りのコーヒー――あるいは日によって、最高級の茶葉で淹れた香り高い紅茶――を優雅に啜りながら、タブレット端末でその日のメニューを送信してくる。

 

「前線で指揮官がストップウォッチを握って大声を張り上げたところで、君たちのタイムが物理的に縮まるわけではないからね。私の仕事はこの部屋で完璧な兵站線と作戦図を描くことだ。それをバ場という現場で正確に実行するのは、君たちの仕事だよ」

 

 彼は涼しい顔でそう言い放ち、本当に部屋から一歩も出ないのだ。

 

 そして練習後、汗だくになって部屋へ戻ると、ようやく彼が動く。

 

 ウマ娘たちを椅子に座らせ、脚の触診を行うのだ。冷たく乾いた彼の手が、ふくらはぎ、膝の関節、足首の腱を滑るように確認していく。異常な熱を持っていないか、微細な炎症の兆候はないか。それはまるで、熟練の職人が精密機械のメンテナンスを行うかのような、徹底して感情を排した確認作業だった。

 

「うーん……?」

 

 帰り道、ネイチャは首を傾げずにはいられなかった。

 

 熱血指導のトレーナーが、柵から身を乗り出して「あと一周! 腰を落として!」と叫ぶのがトレセン学園の日常風景だと思っていた。こんな指導で、本当に速くなれるのだろうか、と。

 

 

 しかし、一週間が経過した頃。ネイチャのタブレットに、目を疑うような風変わりなメニューが送られてきた。

 

『坂路コースの逆走(後ろ向きダッシュ)』

 

「え、いや、先生……これは流石に何かの間違いじゃ?」

 

 困惑して尋ねるネイチャに対し、彼はいつものように肩をすくめてみせた。

 

「まぁ、ものは試しだよ。人間の、いやウマ娘の身体構造において、前傾姿勢での推進力ばかりを鍛えると必ず後方チェーンの筋肉に歪みが出る。数日間、ハイペリオンの名前で坂路コースを貸し切りにしてある。他の生徒とぶつかる心配はないから、安心して後ろ向きに駆け上がってきたまえ」

 

 半信半疑のまま、ネイチャは誰もいない坂路コースで後ろ向きに走り始めた。

 

 するとこれが、想像を絶するほどにきつい。普段使わないハムストリングスや臀部の深い筋肉が悲鳴を上げ、体幹でバランスを取らなければすぐに転げ落ちそうになる。初日の練習を終えた翌朝、ネイチャはベッドから起き上がれないほどの凄まじい筋肉痛に襲われた。

 

 だが、不思議なことに、二度、三度と逆走メニューをこなしていくうちに、その筋肉痛は嘘のように引いていった。代わりに、下半身全体が一本の太い鋼のワイヤーで繋がったような、未知の安定感が生まれ始めていた。

 

 そして、更に一週間が過ぎた時のことである。

 

「ネイチャ、走ろーっ!」

 

 合同練習中のバ場で、弾むような声と共にトウカイテイオーが駆け寄ってきた。

 

「1000メートルダッシュ! ボクと勝負だよ!」

 

「ええっ? テイオーと? いやいや、ネイチャさんなんかが相手になるわけ……」

 

 苦笑いしながら辞退しようとしたネイチャだったが、テイオーの無邪気で強引な誘いを断り切れるはずもなく、結局スタートラインに並ぶことになった。天才と名高いテイオーとのスプリント勝負。どうせ最初のコーナーで遥か彼方に置いていかれるのだろうなと、ネイチャは半ば諦め気味に息を吐いた。

 

「よーい、ドンッ!」

 

 ゲート代わりの合図とともに、二人が同時にターフを蹴り上げる。その瞬間、ネイチャは自分の身体に起きている「異変」に気づいた。

 

(あれ……?)

 

 ターフを蹴る足の感触が、今までと全く違う。地面から伝わる反発力が、ロスなくダイレクトに推進力へと変換されている。坂路の逆走によって無意識のうちに鍛え上げられていた体幹と後方筋肉群が、彼女のフォームを理想的な重心へと強制的に補正していたのだ。

 

 先行するテイオーが、ペースを上げる。彼女の代名詞とも言える、バネのようにしなやかで変幻自在な「テイオーステップ」だ。並のウマ娘なら、その独特のリズムと圧倒的な加速に幻惑され、一瞬で引き離されてしまう。

 

 だが。

 

(見える……ついていけるっ!)

 

 ネイチャの脚は、無意識のうちにテイオーの不規則なステップに反応していた。決して無理をしている感覚はない。まるで自分の身体が精密なオートマチック車になったかのように、ブレのない体幹がテイオーの動きにぴたりと追従していく。

 

 風を切る音が耳元で轟く。息は苦しいはずなのに、視界はどこまでもクリアだった。

 

「ゴールっ!」

 

 最終ラインを駆け抜けたのは、テイオーが先だった。しかし、その差はほんのわずか。体半分のリードを許しただけで、ネイチャは天才の背中に喰らいついたまま、ほぼ同時にフィニッシュラインを飛び込んでいたのだ。

 

「はぁっ、はぁっ……!」

 

 膝に手をつき、荒い息を吐くネイチャの耳に、信じられないというようなテイオーの弾んだ声が届いた。

 

「すっ、すっごいじゃんネイチャ!!」

 

 振り返ると、テイオーが目を丸くして、興奮気味にこちらを見つめていた。

 

「最後、全然引き離せなかった! ボクのステップに完全についてきてたよ! いつもと全然走りが違ったもん! こりゃあ、ボクもうかうかしてらんないや!」

 

 純粋な賞賛を込めた満面の笑み。G1の大舞台を約束された天才からの、紛れもないライバル宣言だった。

 

「ははは……最近、ちょっと練習頑張ってるからね」

 

 ネイチャは照れ隠しに笑って、前髪をいじった。

 

 

 テイオーが次の練習へと走っていくのを見送りながら、ネイチャはターフの上に立ち尽くしていた。

 

 トクトクと、心臓が早鐘を打っている。

 

 それは1000メートルを全力で駆け抜けたからではない。自分の中に眠っていた、自分でも気づかなかった「底力」を、あの涼しい顔をした変人トレーナーが、たった数日の奇妙なメニューでいとも容易く引きずり出してみせたからだ。

 

(私の手に余る……重賞は間違いなく取れるだろう、って)

 

 カフェでの彼の言葉が、リフレインする。

 

 あれは、彼女を慰めるための世辞でも、適当な気休めでもなかった。過去の膨大なデータと歴史的観点から導き出された、氷のように冷たく、しかし確固たる事実だったのだ。

 

「……ずるいよ、あんなの」

 

 誰にも聞こえない声で呟き、ネイチャはぎゅっと両手を握りしめた。

 

 彼が「生存」と「平穏な配当生活」を愛し、才能ある者を遠ざけようとしているのはわかっている。自分が契約を迫れば、彼は間違いなく嫌な顔をして逃げようとするだろう。

 

 それでも。

 

(アタシ……あのトレーナーと、正式に契約したい)

 

 一度点火された胸の奥の熱は、もはやどうやっても消せそうになかった。夏の太陽が照りつけるターフの上で、ナイスネイチャは、あのこぢんまりとしたトレーナー室へ乗り込むための作戦を練り始めていた。

 

 

 夕暮れの商店街。すっかり常連になりつつある揚げ物屋の軒先で、ネイチャは紙コップの麦茶を両手で包み込みながら、深く深くため息をついた。

 

「……うーん。どうやったら、あの変人トレーナーさんをその気にさせられるのかなぁ」

 

 テイオーとの模擬レースの後、彼女の頭の中はそのことで一杯だった。しかし相手は「生存」と「優雅な配当生活」を至上の目的とし、重賞に手が届きそうな才能を「手に余る」と公言してはばからない、筋金入りの安楽椅子主義者だ。生半可な説得で首を縦に振るとは到底思えなかった。

 

 いくら考えても良い案は浮かばず、縋るような思いでOGのお姉さんの元へ相談に来たのだが……。

 

「うーん……」

 

 エプロン姿のOGも、困ったように腕を組んで唸っていた。

 

「あの人、そういう熱血展開みたいなの、本当に興味ないからなぁー。むしろ面倒くさがって全力で逃げるタイプだし」

 

「ですよねぇ……」

 

「でも、ネイチャの気持ちはすごくよくわかるよ。すごいもんね、トレーナーの指導。絶対に怪我させないで、それでいて、自分でも気づかなかった実力をポンって引き出してくれるんだから」

 

 OGの言葉に、ネイチャは麦茶のコップを置いて激しく首を縦に振った。

 

「そうです、そうです! あの逆走メニューだって最初は驚きましたけど、結果的に私の走りを劇的に変えてくれました! アタシ、あの人の下でなら、もっと上を目指せる気がするんです!」

 

 熱弁を振るうネイチャだったが、すぐにまた肩を落として耳を伏せた。

 

「でも……あの様子じゃあ、正式に契約してほしいって言っても、絶対に断られる気しかしないですよ。アタシなんかに構うより、歴史書読んでコーヒー飲んでる方がいいって言い切る人ですし……」

 

 ぐるぐると堂々巡りの悩みに陥るネイチャ。その時だった。

 

「若いんだから、ぶつかってこいや!」

 

 店の奥、油の跳ねる厨房の中から、野太い声が飛んできた。ビクッと肩を揺らしたネイチャが視線を向けると、頭にタオルを巻いた店主の『おっさん』が、揚げ網を振るいながらこちらを睨みつけていた。

 

「え? あの、店長さん……?」

 

「やってもねーことウダウダ話してても、埒は明かねぇだろうが」

 

 おっさんはカラッと揚がったコロッケをバットに並べながら、ぶっきらぼうに告げた。

 

「相手が変人だろうが何だろうが、お前さんが惚れ込んだ相手なんだろ? だったら、四の五の言わずにさっさと話を持っていっちまって、答えを聞きゃあいいんだよ。ウダウダ悩んで足踏みしてる時間が一番もったいねぇ。違うか?」

 

 おっさんの言葉は、油の温度のように熱く、そしてどこまでもシンプルで力強かった。

 

「……」

 

 ネイチャは目を丸くした後、ふっと口元を綻ばせた。

 

 そうだ。スマートなやり方なんて自分には元々似合わない。泥臭く、真っ向からぶつかっていくしかないのだ。

 

「……そうですね。やってもいないのに悩んでても、仕方ないですもんね」

 

 ネイチャは両手でパンッと自分の頬を叩き、気合を入れる。その様子を見て、OGのお姉さんも。

 

「あはは、店長の言う通りだね」

 

 と笑ってウインクをした。

 

「当たって砕けろ、だよネイチャ! もし砕け散ったら、またうちで美味しいメンチカツでもご馳走してあげるからさ」

 

「ええっ!? 砕ける前提ですかーっ!?」

 

 軽口を叩き合いながらも、ネイチャの瞳には確かな決意の光が宿っていた。

 

 明日、あのこぢんまりとしたトレーナー室のドアを叩く。そして、あの理屈っぽくて面倒くさがりな安楽椅子トレーナーに、真っ向から自分の気持ちを叩きつけてやるのだと。

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