ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
そして、運命の第四コーナーの出口。
東京レース場が誇る、あまりにも広大で、あまりにも残酷な五二五メートルの最終直線が、ついにその全貌を現した。
逃げを打っていた先頭集団のウマ娘たちの足が、急激なペースアップと重圧によって悲鳴を上げ、次々とバ群の中へと沈んでいく。その沈みゆく背中の横を、コースの最内――インコースのスレスレから猛烈な勢いで突き抜けていく漆黒の影があった。
ナイスネイチャである。
彼女は第四コーナーの急カーブで生じた巨大な遠心力を、春からの過酷な鍛錬で分厚く造り上げた鋼の体幹で完全に受け止めていた。外へ押し流されようとする物理の力を、彼女はあろうことか前方への『推進力』へと強引に変換するという離れ業をやってのけたのだ。
パチンコ玉がレールに弾き出されるかのように、極限のスリングショット効果を得た彼女の肉体は、弾丸となって直線の入り口へと射出された。
視界が開ける。
そこに広がっていたのは、誰もいない、無人の荒野のような『先頭の景色』だった。
(……先生。本当だ。アタシ、今、世界で一番前にいる)
十万人の観衆が発するノイズが、極限の集中によって無音へと変わる中。ネイチャの口元に、歓喜と確信の笑みが浮かんだ。
――指揮官の予言は、寸分の狂いもなく的中した。
盤面の最前列という特等席に、彼女は今、自らの脚と、陣営の完璧なデータによって確かに到達したのだ。
しかし、勝負はまだまだ、これからだった。
■
「――来た!!! 大外から!! トウカイテイオー!!!」
実況の絶叫よりも先に、十万人の観衆が発した地鳴りのような叫びが、初夏の府中の空を揺るがした。
バ群の遥か外、最も芝の状態が良いグリーンベルトを大きく回って、大本命・トウカイテイオーが猛烈な勢いで進出を開始したのである。
天才のバネは、最後の直線に向けてスタミナを削られることなく、極めてクリアな状態で温存されていた。コーナーの遠心力を逆手に取り、大外へと大きく膨らみながらも、その膨らみすらも滑らかな加速の助走へと変えてしまう。
まさに天性のボディバランス。
ターフを蹴るのではなく、弾むようにして宙を舞うそのストライドは、一歩ごとに他を圧倒するトップスピードへと突入していく。
そのテイオーの動きに呼応するように、三番人気のレオダーバンがバ群の真ん中を割って抜け出しにかかる。彼女もまた、この世代を代表する猛者の一人だ。研ぎ澄まされた勝負勘で、インのネイチャと大外のテイオーの間、その僅かなスペースをこじ開けようと牙を剥く。
だが。
「……馬鹿なっ、届かない!? あの二人、次元が違う……!!」
レオダーバンの瞳に、戦慄と絶望の色が浮かんだ。
己もまた、限界を超えるトップスピードに乗っているはずだった。しかし、最内を重戦車のように突き進むナイスネイチャと、大外を飛翔するトウカイテイオー。完全にトップギアに入った二人の『無敗の怪物』が放つ推進力は、もはや同世代のウマ娘たちがどうにかできるような、既存の物理法則の枠内に収まっていなかったのだ。
瞬く間に、レオダーバンは二人の背中から、一バ身、二バ身と、残酷なまでに置き去りにされていく。
■
一方その頃。
地下道の薄暗い空間。
壁に設置された小さなモニターの前に立つ安楽椅子の魔術師は、己の教え子が予言通りに直線の入り口で先頭に立った瞬間、手の中でカチリと音を立てていたストップウォッチのボタンから、ゆっくりと指を離した。
ここに至るまで、彼の脳内スーパーコンピュータは、気温、湿度、芝の摩擦係数、各ウマ娘の心拍数、コーナーでの遠心力のロスなど、あらゆる不確定要素を演算し、完璧なシミュレーションを構築してきた。
彼にとってレースとはデータの証明であり、戦術とは生き残るための冷徹な論理であった。
だが、残る四〇〇メートル。
完全に限界を突破し、未知の速度領域へと足を踏み入れた天才と秀才の激突を前にして。彼は、己の信じてきたロジックが、もはや何の役にも立たない次元に到達したことを静かに悟っていた。
(……ああ。ここまで来てしまっては、もうどんなシミュレーションも、どんなデータも意味を持たない)
体幹の数値も、疲労度のグラフも、もはやただの数字の羅列に過ぎない。ここから先は理屈など意味がない。
最後に勝敗を分けるのは、勝利への絶対的な渇望と、極限まで磨き上げられた魂の削り合いだけだ。
指揮官としての役割は、第四コーナーを抜けたあの瞬間に、完全に終わったのだ。そう自覚してしまった。ただの一人の無力な男が出来ることは、たった一つだけ。
「…………あとは、」
男は、かつてのヨレヨレだった頃からは考えられないほど、ビシッとシワが伸ばされたシャツの胸元を強く握りしめ、ボサボサの頭を深く下げた。
常に冷静沈着を装ってきた男の額には、びっしりと脂汗が浮かび、その両手はコントロールできないほどに小刻みに震えていた。
「あとは……頑張れ。頑張れ! ナイスネイチャ……っ!」
それは、戦術指示でもなく、ロジックでもない。
ただの一人の男が、自らのすべてを懸けて世話を焼き、自らのすべてを託した愛弟子へと送る、泥臭くて、ひどく純粋な、祈りのこもった絶唱だった。強く握りしめた拳の爪が、手のひらに食い込んで血を滲ませるのも構わず、彼はただ食い入るようにモニターの中の教え子を睨みつけた。
■
同じ頃、スタンド最上段の特別VIP室。
眼下で繰り広げられる常軌を逸した二人のデッドヒートを前に、シンボリルドルフとマルゼンスキーは、言葉を失ったままガラス張りの窓に張り付いていた。
「……美しいな」
皇帝・シンボリルドルフが、まるで神聖な儀式を目の当たりにしているかのような、深い畏敬の念を込めて呟く。彼女の双眸はターフの上を並走する二つの光に完全に釘付けになっていた。
「大外を舞う、圧倒的な天性の才能。それに対し、最内という最も過酷なルートを、純粋な物理法則と論理の力でねじ伏せる極限の秀才。……水と油のように相反する二つの哲学が、今、全く同じトップスピードという特異点に到達している」
「ええ。背筋がゾクゾクするわ」
マルゼンスキーもまた、普段の余裕のある笑みを完全に消し去り、捕食者のような鋭い瞳でターフを見下ろしていた。
「テイオーちゃんの大外一気は、間違いなく彼女の持てる最高のパフォーマンス。でも……あのネイチャちゃんって子、恐ろしいわね。最内のラチ沿いなんて、前のウマ娘が掘り返した荒れた芝も多いはずなのに、バランスを崩すどころか、ターフの荒れすらもグリップに変えて加速してる。あんな重戦車みたいな走り、この府中の直線じゃ見たことがないわ」
「血を吐くような鍛錬と、陣営の狂気的なまでの管理の賜物だろう。……マルゼンスキー。これは、レース史に永遠に語り継がれる『一騎打ち』になるぞ」
「ええ。まばたきするのも惜しいわね」
頂点を極めた伝説のウマ娘二人をして、そう言わしめるほどの圧倒的な領域だった。
■
残り四〇〇メートル。
二〇〇〇メートルを走り抜いてきたはずの彼女たちの速度は、落ちるどころか、さらに一段階上のギアへと跳ね上がった。
最内ラチ沿いを猛烈な回転数で突き進む、重装歩兵・ナイスネイチャ。
大外のグリーンベルトを飛翔するように駆け抜ける、無敗の天才・トウカイテイオー。
バ群の最も内側と、外側。コースの幅をいっぱいに使い、物理的な距離は離れながらも、二人の魂はターフの中央で激しく火花を散らして激突していた。
―――ダダダダダダダッ!!
芝を削る凄まじい蹄鉄音。十万人の観衆が発する、鼓膜が破れんばかりの絶叫。それらすべてのノイズの中心で、二人は完全に並んだ。
「負けないっ……! ボクは、無敗の三冠ウマ娘になるんだぁぁぁっ!!」
テイオーが、その美しい顔を修羅のように歪め、限界を超えたバネをさらに引き絞ってターフを蹴る。天才の底知れぬ勝負根性が、データ上の限界値を叩き割ってさらなる加速を生み出す。
「アタシは負けない……! G1ウマ娘に、なるんだからぁぁぁっ!!」
ネイチャもまた、歯を食いしばり、極限まで鍛え抜かれた体幹から最後の一滴のエネルギーを絞り出し、重低音を響かせて前へと身を投じる。
両者の出力は完全に互角。一歩進めば一歩差し返される、永遠にも似た地獄の追い比べ。
実況アナウンサーの叫びが、マイクが割れるほどの凄まじい熱量で全国の空へ轟いた。
『――トウカイテイオーとナイスネイチャ! トウカイテイオーとナイスネイチャ! 完全に二人の世界だ!!』
スタンドの熱狂が、臨界点を突破する。
『内からナイスネイチャ! 外からトウカイテイオー! 無敗の怪物二人が、他のウマ娘を完全に置き去りにしている!!』
残り二〇〇。
離れない。
譲らない。
どちらも一歩も引かない。
『トウカイテイオーとナイスネイチャ!トウカイテイオーとナイスネイチャ!トウカイテイオーとナイスネイチャ!!!!どちらが栄光を掴むのかぁぁぁっ!!!』
極限のスピードの中、二人の視線が虚空で激しく交錯する。
息をするのも忘れるほどの数十秒間。論理と才能、秀才と天才が、持てるすべてを燃やし尽くす魂のデッドヒートは、ついに最後の一〇〇メートル、運命のゴール板へと雪崩れ込んでいった。