ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
そして、残酷なまでに美しく、永遠にも似た最後の100メートル。
東京レース場、五二五メートルの直線の果て。十万を超える大観衆が放つ鼓膜を破るような絶叫は、極限状態にあるウマ娘たちの耳にはすでに届いていなかった。
■
世界は、自らの荒々しい呼吸音と、ターフを削り取る蹄鉄の音、そして隣で死力を尽くして走る最大の好敵手の気配だけが存在する、完全なる真空状態へと変貌していた。
大外を舞う天才・トウカイテイオーと。
最内を削る秀才・ナイスネイチャ。
互いの魂を燃料にして燃え盛る二つの炎は、完全に並んだまま、一歩進めば一歩差し返されるという、常軌を逸した死闘を繰り広げていた。
テイオーの天性のバネが生み出す、宙を滑るようなしなやかなストライド。
ネイチャの鋼の体幹が生み出す、大地を砕くような重厚なストライド。
全く異なる二つの出力は、どちらも自らの限界値をとうに超え、未知の速度領域へと突入している。しかし、並走する二人の間に、ほんのわずかな、しかし決定的な『綻び』が生じ始めたのは、ゴール板が目前に迫った残り五十メートルを切った瞬間だった。
決着を決定づけたのは、他でもない――第四コーナーから直線にかけての『コース選択』であった。
トウカイテイオーは、包まれるリスクを完全に排除し、己の最高速度を何にも邪魔されずに発揮するため、バ群の大外を大きく回るという「王道」を選択した。それは天才だからこそ許される、他を圧倒するための絶対的な暴力であった。
しかし、どれほど美しい飛翔であろうと、外を回れば回るほど走る距離は長くなり、無意識のうちに己のスタミナを削り取ることになる。
対して、ナイスネイチャは、最も窮屈で、最も遠心力の負荷がかかる最内のラチ沿いを選択した。春からの地獄のような基礎鍛錬によって分厚く造り上げられた体幹は、コーナーの遠心力による外への膨らみを完全に殺し、最短距離を、さらには遠心力すらも推進力に変えて駆け抜けたのだ。
天才がほんの僅かに余分に消費したスタミナと。
秀才が冷徹なロジックによって温存したスタミナ。
そのコンマ数パーセントの、目に見えないエネルギーの差が。
最後の最後、心臓が破裂しそうになり、筋肉が悲鳴を上げるこの極限の最終局面において、残酷な『牙』となって天才の足元へと襲い掛かったのである。
「あ……っ!」
大外を駆けるトウカイテイオーの表情が、ほんの一瞬、苦痛に歪んだ。
これまで一切のブレを見せなかった彼女の美しいフォーム。その腰の位置が、目に見えてガクンと落ちた。天性のバネを生み出していた筋肉の弾力が、限界を超えた疲労によって、ほんの一瞬だけ鈍ったのだ。
天才の行き脚が、致命的なまでに淀む。
その瞬間。最内を走るナイスネイチャの瞳に、獲物の急所を捉えた狩人のような、あるいはすべてをなぎ倒す戦艦の一斉射撃を命じる指揮官のような、決定的で、強く、そして激しい闘志の光が宿った。
(――今っ!!)
千切れるような肺の痛みを無視し、全身の筋肉が発する悲鳴を強靭な精神力でねじ伏せ、残された最後の一滴のエネルギーをすべて右脚の踏み込みへと注ぎ込んだ。
ターフの芝が深く抉れ、土塊が後方へと爆発するように吹き飛ぶ。これまで並走していたテイオーの気配が、視界の端から後方へとスライドしていく。
「「「いけぇぇぇぇぇぇっ!!!」」」
十万人の観衆が、総立ちとなって絶叫する。ネイチャは、もはや美しいフォームなどかなぐり捨て、ただひたすらに前へ、一ミリでも前へと、その泥臭くも力強い巨体を投げ出した。
そして、最後の最後。
『ズドンッ』
他のウマ娘の足音とは明らかに違う、戦艦の主砲のような、大地を打ち据えるような、重く、深く、凄まじい質量を持った足音が、ゴールラインを力強く叩き割った。
無敗の天才の猛追を振り切り、彼女が先にその鼻先をゴールへとねじ込んだのだ。
その差は、わずか『首差』。距離にして数十センチ、時間にしてコンマ数秒。
しかし、その首差は、安楽椅子の魔術師と重装歩兵が、血と汗と膨大なデータによって積み上げ、決して越えられないと思われていた天才の壁を完全に粉砕したという、明確で絶対的な『決着』の証であった。
『――先着は、日本ダービーの勝者は!!!』
沈黙を破り、実況アナウンサーの絶叫が、マイクの限界を超えて日本中の空へと轟き渡った。
『ナイスネイチャ! ナイスネイチャだ!! ナイスネイチャだ!!! ナイスネイチャだぁああああ!!!! ナイスネイチャが押し切った!! 天才・トウカイテイオーの猛追を首差凌いで、見事先頭でゴール板を駆け抜けました!!』
東京レース場が、物理的に揺れた。十万人の観衆が発する、地鳴りなどという言葉では生ぬるい、火山が爆発したかのようなすさまじい大歓声が、初夏の府中の空を完全に支配する。
『無敗対決を制したのは! 世代の頂点に立ったのは! ナイスネイチャ、ナイスネイチャ! ナイスネイチャだあああああああああ!!!』
アナウンサーの、もはや涙声に近い絶叫が響き渡る中。
観客席の最前列――特等席に陣取っていたハイペリオン陣営のOGたちは、青葉賞の圧勝の時にはまだ心の奥底で抑え込んでいた感情のタガを、完全に、そして無防備に弾け飛ばしていた。
「やった……っ! やった、やったぁぁぁぁっ!!」
「うわぁぁぁぁんっ! ネイチャ、ネイチャぁぁぁぁっ!!」
普段は冷静に地方の現場を仕切っているOGが、柵にすがりついて子供のように声を上げて大泣きしている。
スーツ姿の編集長は、もはや周囲の目など一切気にせず、顔を真っ赤にして天を仰ぎ、
「やってやった! やってやった! やってやったぞ!!! アタシたちの最高傑作が、一番だぁぁっ!!」
と喉が裂けんばかりの大声を張り上げて狂喜乱舞していた。
彼女たちは皆、かつてターフの上で才能の壁にぶつかり、あるいは怪我に泣き、無念の中で夢を諦めた少女たちだった。勝利を捨て、ただ無事に六十年の人生を生き抜くことだけを目標に掲げてきた「敗者の陣営」。
しかし今、彼女たちが泥臭く繋ぎ止め、あの不器用な魔術師が理屈とデータで守り抜いてきたその防衛線の先に、世代の頂点という最高峰の栄光が打ち立てられたのだ。
「あの子……本当に、一番前で戻ってきたじゃない……っ」
揚げ物屋のおねーさんは、両手で顔を覆い、指の隙間から大粒の涙を溢れさせていた。
自分たちの届かなかった夢の舞台。そこを誰よりも泥臭く、誰よりも力強く駆け抜け、天才をねじ伏せた後輩の姿。
それは、かつて挫折した自分たち全員への、これ以上ない救済であり、祝福であった。
■
一方、喧騒に包まれるスタンドの最上段、特別VIP室。
皇帝・シンボリルドルフと、伝説のウマ娘・マルゼンスキーは、その歴史的な決着の瞬間を、一切の言葉を発することなく静かに見届けていた。
「……ふふっ。やられたわね、ルドルフ」
しばらくの静寂の後。マルゼンスキーが、心の底から楽しそうな、極上のレースを堪能した者特有の艶やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「ああ。……見事としか言いようがない」
ルドルフは、深く息を吐き出しながら、ゆっくりと立ち上がった。
自身の系譜を継ぐ天才、トウカイテイオーの無敗神話が崩れ去った瞬間。
「個人的な感情を言えば、胸を締め付けられるような口惜しさがある」
しかし、それ以上に、一人のウマ娘として、レースという極限の闘争を愛する者として、あのナイスネイチャという少女が成し遂げた偉業に対する、畏敬の念が勝っていた。
「大外から飛翔するテイオーの末脚は、間違いなく彼女の生涯最高の輝きだった。だが、それを内から凌ぎ切ったあの強靭な体幹と、恐るべき執念。……あれは、天賦の才だけでは決して到達できない、論理と努力の結晶だ」
パチ、パチ、パチ。
ルドルフは、ターフの中央で荒い息を吐きながら歩みを緩めるナイスネイチャへ向け、静かに、しかし深い敬意を込めて拍手を送り始めた。それに合わせるように、マルゼンスキーもまた、美しい指先で軽やかに拍手を打つ。
「才能が論理に敗れたんじゃないわ。論理と執念が、才能という壁をぶち壊したのよ。……本当に素晴らしいものを見せてもらったわ」
二人の絶対強者による、敗者と勝者双方への、最大級の賛辞であった。
■
そして、その歴史的な決着の直後。
地下道の薄暗いモニター前で、ストップウォッチを握りしめていた安楽椅子の魔術師は。
「――――ッ!!」
声にならない叫びを上げ、手の中のストップウォッチを壁に叩きつけるように投げ捨てた。
精密機械のように数字を弾き出していた彼の脳内から、もはや一切のロジックが消え去っていた。
頭にあるのはただ一つ。
今すぐ、あのターフの真ん中で一人で立っているであろう、愛すべき教え子の元へと向かうこと。
彼は、ネイチャがシワひとつなく完璧にアイロンをかけてくれたシャツの襟元を乱暴に引きちぎるように緩め、ボサボサの頭を振り乱しながら、地下道からターフへと続く光のトンネルへ向けて、全速力で駆け出した。
常に安楽椅子に深く腰掛け、安全な場所から指示を出すことしか知らなかった男が。息を切らし、革靴の底を滑らせながら、無我夢中でグラウンドへと向かって走っている。
もはや、彼の中に「指導者としての威厳」など微塵もなかった。
ただ、一人の少女の勝利を誰よりも近くで祝福したいという、剥き出しの感情だけが彼を突き動かしていた。
■
一方、熱狂の渦の中心である、初夏のターフ。
ゴール板を過ぎ、ゆっくりと歩みを緩めたナイスネイチャは、全身から滝のような汗を流し、肩で激しく息をしながら、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「はぁっ……はぁっ……あ、れ……?」
視界が、ぐらぐらと揺れている。
全身の筋肉という筋肉が熱を持ち、鉛のように重い。肺は酸素を求めて悲鳴を上げ、心臓は肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打っている。
しかし、それ以上に。
彼女の鼓膜を震わせる十万人を超える歓声と、視界を埋め尽くす観客席の波が、あまりにも現実離れしていて、自分が今、何を成し遂げたのかが脳でうまく処理できていなかったのだ。
「アタシ……一番前で……」
信じられない思いで、自分が今駆け抜けてきたゴール板を振り返ろうとした、その時。
「――っ、ねーいーちゃーっ!!」
背後から、ひどく掠れた、しかし底抜けに明るい声が響き、ドンッ! と背中に強い衝撃が走った。
振り返ると、そこには、息を乱し、汗まみれになったトウカイテイオーが、ネイチャの首に抱きつくようにして飛び乗ってきていた。
「うわっ、テイオー!?」
「くやしいっ……! あーもうっ、すっごく、すっごく悔しいよぉっ!!」
テイオーは、ネイチャの肩に顔を埋め、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、子供のように地団駄を踏んで文句を言い放った。
無敗の天才が味わった、生涯で初めての敗北。その悔しさは、想像を絶するものだろう。しかし、テイオーは顔を上げると、涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔に、ひまわりのような満面の笑みを咲かせた。
「あの最終コーナー、なんだよあれーっ! ボクの最高速に内から追いついてくるなんて、聞いてないもんっ! ……でもっ」
テイオーは、スッと背筋を伸ばし、己の無敗神話を打ち砕いた最大の好敵手へ向け、誰よりも純粋で、誰よりも真っ直ぐな祝福の言葉を口にした。
「負けた! 今日は、ネイチャの勝ち!! ……おめでとう、ネイチャ! すっごく、すっごく強かった!!」
それは、一切の恨み言も言い訳もない、ただ純粋に勝者を称える、帝王としての気高さに満ちた敗北宣言だった。
その真っ直ぐな言葉に、ネイチャの胸の奥で、張り詰めていた何かがプツリと切れる音がした。
「……っ」
さらに、後方から次々とゴールしてきたウマ娘たちが、ネイチャの周りへと集まってくる。
「くそーっ、やられた! でも、すげえ足だったぜ! ダービーウマ娘!」
と肩を叩いてくるレオダーバン。
「おめでとう、ナイスネイチャ。あの最内のコース取り、見事だったわ」
と息を切らしながら微笑む世代の実力者たち。
共に死力を尽くして戦った、同世代のライバルたちからの惜しみない称賛と祝福。
スタンドからは「ナイスネイチャ!」というコールが地鳴りのように響き渡り、視線を上げれば、最前列でOGたちがちぎれるほどに手を振って泣き叫んでいるのが見えた。
(ああ……そうか。アタシ……)
自分が中心となって渦巻く、この巨大な熱狂。
才能がないと自分を卑下し、主役の引き立て役でいいと諦めかけていた自分が。
あの不器用なトレーナーに出会い、共に日常を歩み、泥臭い兵站を支え、計算と努力を積み重ねてきた結果が。今、この最高の景色となって、目の前に広がっている。
「アタシ……勝ったんだ。ダービー、勝ったんだ……っ」
呆然としていたネイチャの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
拭っても拭っても止まらない。天才のテイオーの前で泣くなんてかっこ悪いとわかっていても、感情の堤防が決壊してどうしようもなかった。
「あはは、ネイチャ泣いてるー! チャンピオンなのにー!」
「う、うるさいっ……テイオーだって、さっきまで泣いてたくせに……っ」
涙声で言い返しながら、ネイチャは泣き笑いの顔で空を見上げた。
■
――――初夏の抜けるような青空の下。
十万人を超える祝福と、最高のライバルたちに囲まれた、ターフのど真ん中。
視線の先、地下道の入り口からは、息を切らし、ヨレヨレになったシャツをなびかせながら、世界で一番頼りなくて、世界で一番信頼できる『トレーナー』が、大きく両手を広げてこちらへと走ってくるのが見えた。
才能の壁を論理と執念で粉砕し、世代の頂点へと上り詰めた弩級戦艦。
ナイスネイチャは、流れる涙を乱暴に勝負服の袖で拭い去ると、自分をこの場所まで連れてきてくれたすべての人たちへ向けて、そして、今まさに駆け寄ってくるただ一人の男へ向けて、これ以上ないほど誇らしく、光り輝く満面の笑みで、その両手を大きく広げて見せたのだった。