ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
死闘の余韻が、初夏の風とともに東京レース場をゆっくりと包み込んでいく。
十万人の大観衆が発した狂乱の熱気は、心地よい疲労感と祝祭の空気へと変わり、ターフの熱を静かに冷まそうとしていた。
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コースの最前列に設けられた、栄光の表彰台。
無数のカメラのフラッシュが瞬く中、その頂点であるセンターポジションに、ナイスネイチャは立っていた。
泥と汗にまみれた勝負服の上に、世代の頂点を極めた者だけに許される赤い優勝レイが掛けられている。
トレーナーと出会うまで常に「自分なんて」と一歩引いていた卑屈な少女の姿はどこにもなく、彼女は堂々と胸を張り、眩しいフラッシュの雨を真正面から受け止めていた。その凛とした佇まいは、誰の目から見ても文句のつけようのない、威風堂々たる『無敗のダービーウマ娘』のそれであった。
そして、その最強の重装歩兵のすぐ隣には。
彼女と共にこの栄光を掴み取った陣営の最高司令官たるトレーナーが、いかにも居心地が悪そうに、所在なさげに立っていた。
「……あーあ。せっかくアタシが、昨日の夜に完璧にシワ伸ばしといたのに」
フラッシュを浴びながら、ネイチャが口元だけの小さな動きで、隣の男に呆れたような囁きを落とす。
彼女の視線の先にあるのは、トレーナーの着ている白いシャツだ。パドックから地下道にいる時までは、確かにシワひとつない完璧な状態だった。しかし今の彼は、地下からグラウンドへの全力疾走と、その後の教え子との熱い抱擁によって、シャツは見るも無残にヨレヨレになり、襟元は大きく乱れ、ネクタイはひん曲がっていた。さらにはボサボサの頭も汗で額に張り付いており、お世辞にも大舞台の表彰式にふさわしい「威厳ある指導者」の姿とは言い難い。
「……面目ない。私の演算能力をもってしても、ゴール直後の己の非合理的な感情の爆発までは予測できなかった。シャツの兵站管理に不備が生じたこと、深くお詫びしよう」
ヨレヨレのシャツのまま、トレーナーは極めて論理的な謝罪を口にしつつ、疲労困憊といった様子でふにゃりと覇気のない笑みを浮かべた。
普段の冷徹な安楽椅子の魔術師が、己の教え子の勝利のために理性を投げ捨てて感情のままに走り、息を弾ませて駆けつけてくれた。その事実が、ネイチャにとってはどんな完璧な身だしなみよりも嬉しかった。
「ふふっ。ま、今日だけは特別に許してあげます。……一緒に立ってくれて、ありがとうございます、先生」
「ああ。君の晴れ舞台だ、特等席で見せてもらうさ」
ヨレヨレの魔術師と、誇らしげな重装歩兵。
ちぐはぐに見えて、これ以上ないほど完璧な信頼で結ばれた二人の姿は、無数のレンズを通して全国のウマ娘レースファンの心に強く刻み込まれた。
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やがて、表彰式が一段落し、勝利ウマ娘への公式インタビューが始まった。
インタビュアーの興奮冷めやらぬ声が、マイクを通してレース場全体に響き渡る。
『おめでとうございます! 無敗のまま、見事日本ダービーの頂点に立ちました、ナイスネイチャさんです!』
わぁぁぁぁっ! と、スタンドから再び地鳴りのような拍手と歓声が巻き起こる。
『あの最終直線のすさまじい追い比べ、天才・トウカイテイオーを真っ向からねじ伏せました! 今のお気持ちはいかがですか!?』
マイクを向けられたネイチャは、一瞬だけスタンドを埋め尽くす観衆の海を見渡し、それから、隣で覇気のない笑顔を浮かべているトレーナーへと視線を向けた。
「はい。……アタシ自身の力なんて、本当に大したことないんです。今日の勝利は、ただひたすらに、アタシの所属するハイペリオン陣営のおかげです」
その言葉に、謙遜や卑屈さは微塵もない。極めてフラットな事実として、彼女は紡ぐ。
「絶対に怪我をさせないという信念のもと、アタシの足を完璧に計算してくれた先生のデータ。そして、後ろから支えてくれたOGの先輩たちや、泥臭い基礎練習に付き合ってくれたライバルのウマ娘たち。……アタシはただ、陣営や、トレセン学園のみんなが作ってくれた『完璧な防衛線』の真ん中で、指示通りに自分の脚を回しただけですから」
その落ち着き払った、どこまでもロジカルで地に足のついた受け答えに、インタビュアーも深く感嘆の息を漏らした。
『徹底した陣営の管理と、それをターフで体現した見事な走りでした。……では、ナイスネイチャさん。最後に、テレビの前で応援してくれたファンの皆様、そして会場の皆様へ、一言メッセージをお願いします』
最後の一言。
その問いかけに、ネイチャは少しだけ言葉に詰まった。マイクを持ったまま、うつむき加減になり、
「色々あるんですけど……」
と、小さく呟く。
―――この数ヶ月間。
青葉賞を勝ち、ダービーの最有力候補として祭り上げられ、学園でもメディアでも、常に「天才・テイオーを破る大本命」としての重圧を背負い続けてきた。
逃げ出したくなる夜もあった。自分がそんな大層な器じゃないと、弱音を吐きたくなる瞬間もあった。それでも、毎日変わらずに自分を信じてくれたヨレヨレの指揮官がいて、自分の勝利を我が事のように信じてくれるOGたちがいたから、今日まで折れずに走り続けることができたのだ。
数秒の沈黙の後。
ネイチャはゆっくりと顔を上げ、カメラの向こう側と、スタンドの観客へ向けて、飾らない、純粋な等身大の少女としての本音をこぼした。
「……正直、ホッとしました」
それは、重圧から解放された、深くて長い安堵の吐息だった。
「期待を受けて、たくさん応援してもらって……絶対に勝たなきゃいけないってプレッシャーの中で、必死に走って。……本当に、息が止まりそうなくらい苦しかったです」
彼女の瞳の奥が、初夏の青に反射して微かに潤む。しかし、その表情は泣き顔ではなく、すべてを出し切った最高に晴れやかな笑顔だった。
「でも、最後まで信じて走り抜いて、一番前でゴールできて……これでやっと、胸を張って言えます。アタシを支えてくれた、先生や陣営のみんなに。そして、死ぬ気で一緒に走ってくれた、大好きなライバルたちに……!」
ネイチャは、マイクを両手でしっかりと握りしめ、スタンドの最前列で泣き崩れているであろう先輩たちと、控え室で自分を見ているであろう天才のライバルへ向けて、ありったけの声を張り上げた。
「――ありがとうって!! 本当に、ありがとうございましたっ!!」
十万人越えの観衆が、その真っ直ぐで誠実な感謝の言葉に心打たれ、この日一番の、温かく割れんばかりの大歓声と拍手を送った。
隣に立つ安楽椅子の魔術師は、己の最高傑作が放ったその完璧な勝利宣言を聞き届け、静かに、誰にも気づかれないように、目頭を指で拭ったのであった。
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やがて日は完全に落ち、東京レース場は煌びやかな光の海へと姿を変えた。
ダービーを走り抜いたウマ娘たちによる、勝利の祝祭――『ウイニングライブ』の開演である。
スタジアムの照明が落とされ、観客たちが振る無数のペンライトが、夜の闇に色鮮やかな軌跡を描く。
その光の波の最前列、VIP用の特別観覧エリアには、ハイペリオン陣営のOGたちと、首からスタッフパスを提げたトレーナーが陣取っていた。
「きた、きたきたきたぁぁっ!! アタシたちのネイチャぁぁぁっ!!」
「ネイチャちゃぁぁぁん!! こっち見てぇぇぇっ!!」
スーツを脱ぎ捨ててハッピ姿になった編集長と、手作りの巨大な『ネイチャ命』と書かれたうちわを振り回す揚げ物屋のおねーさんが、鼓膜が破れんばかりの絶叫を上げている。周囲のOGたちも完全にタガが外れており、互いに肩を組んで泣きながらペンライトを乱獲りに振っていた。
普段の「怪我さえしなければいい」という達観した敗者の集団の面影はそこにはなく、今はただ純粋に、自陣営が輩出した最強のアイドルの熱狂的なファン(オタク)と化している。
ドンッ!! と。
重低音のドラムがスタジアムの空気を震わせ、ステージに強烈なスポットライトが降り注いだ。
選ばれた楽曲は、『ウイニングザソウル』。
激しいギターのバッキングと、地を這うような重厚なビート。クラシック戦線の過酷な闘争を象徴する、魂を燃やし尽くすようなロックチューン。
それはまさに、ターフを重戦車のように削り取り、圧倒的な体幹と執念で天才をねじ伏せたナイスネイチャの走りを体現するかのような、熱く激しいナンバーだった。
ステージの絶対的中心。
特別なライブ衣装に身を包んだナイスネイチャが、マイクスタンドを力強く握りしめ、スタンドの十万人を射抜くような鋭い視線を放つ。
イントロの爆音と共に、ネイチャがシャウトする。
その瞬間、スタジアムのボルテージは最高潮に達した。
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ターフで見せた泥臭く重厚な走りとは打って変わって、ステージ上の彼女は信じられないほどに輝いていた。ステップを踏むたびに揺れるツインーテール、指先まで完璧にコントロールされたダンス、そして、かつての卑屈さを微塵も感じさせない、極限まで自信に満ち溢れた力強いボーカル。
テイオーのような天性の煌びやかさとは違う。彼女が放つのは、膨大な努力とデータの蓄積によって造り上げられた、誰にも崩せない「確固たる秀才の光」だった。
「うわぁぁぁんっ! あんなに立派になって……っ!」
「カッコいいよぉ、ネイチャぁぁっ!!」
OGたちはもはや全員が顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫び、喉を枯らしながら彼女の歌声に合いの手を入れている。
そして、その狂乱の輪の端っこで。
「……おい、編集長。あまり前のめりになると柵から落ちるぞ。一番艦も、うちわの旋回半径が周囲の観客の安全域を脅かしている」
相変わらずの理屈っぽい小言をこぼしながらも、ヨレヨレのシャツを着たトレーナーの顔には、隠しきれない満面の笑みが浮かんでいた。
普段の彼であれば、こうした非合理的な熱狂空間は「聴覚への無駄な刺激」として早々に耳栓をして撤退するところだ。
しかし今夜ばかりは、彼は逃げなかった。
「ほら、先生も! 突っ立ってないで振りなさいよ!」
「わ、わっ……」
おねーさんから強引に押し付けられたオレンジ色のペンライトを、彼は戸惑いながらも不器用に握りしめた。
ステージの上。
曲のサビに差し掛かり、ネイチャが激しいステップを踏みながら、カメラの向こう側……いや、明確に彼らのいるVIPエリアに向かって、バチンッ! と完璧なウインクを飛ばしてきた。
「っぎゃぁぁぁっ! 今アタシ見た! アタシを見たわよっ!!」
「違うわよ、わたしよ! わたしにウインクしたの!!」
OGたちが狂ったように抱き合って絶叫する横で。
トレーナーは、手の中のオレンジ色の光を、ステージの中央で誰よりも眩しく輝く愛弟子へ向けて、少しだけ照れくさそうに、しかし確かに高く突き上げた。
(……理屈やデータでは、決して導き出せない美しいエラーだ。君という才能に出会えたこと、そして、この景色を見られたこと……私の計算も、まだまだ捨てたものではないな)
スタジアムを揺らす爆音と、夜空に響く十万人の歓声。
安楽椅子の魔術師は、すっかり狂乱の渦に呑み込まれたOGたちと共に、少しばかり浮かれながら、不器用にペンライトを振り続けた。
過酷な闘争の果てに訪れた、最高に非合理的で、最高に幸福な時間。
世代の頂点に立った最強の重装歩兵が歌い踊るその完璧なパフォーマンスを、彼は心の底から、いつまでも誇らしげに見つめ続けるのであった。