ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
ダービーの祝祭
そして迎えた、大祝勝会の当日。
日本ダービーという極限の死闘から一週間。完全休養を言い渡されていたナイスネイチャにとって、今日は練習オフの最終日であった。
激戦の疲労は陣営の完璧なケアとマッサージによってすっかり抜け落ち、十分に与えられた睡眠と栄養が、彼女の分厚い体幹の隅々にまで新鮮なエネルギーを行き渡らせている。
体力、気力ともにこれ以上ないほど充実した状態のネイチャは、アイロンの効いたシャツを着た安楽椅子の魔術師とともに、夕闇に包まれた街角に佇む『例の居酒屋』の前に立っていた。
■
「……なんか、外まで声が漏れてる気がするんですけど」
「私の事前のシミュレーション通りだ。鼓膜の防衛線を張っておくことを推奨するよ」
トレーナーの苦笑混じりの忠告に、ネイチャは覚悟を決めたように小さく息を吸い込み、ガラガラと引き戸の敷居を跨いだ。
パーーーーーンッ!!!
パーン! パーン! パーンッ!!
足を踏み入れた瞬間、鼓膜を劈くような連続した破裂音が店内に響き渡り、金銀の極彩色をした無数の紙テープとコンフェッティが、吹雪のように二人の頭上へと降り注いだ。
「「「おっめでとーーーーーーっ!!!」」」
貸し切られた店内に響き渡る、先輩たちとOGたちの鼓膜が破れんばかりの大合唱。
壁一面には『祝・日本ダービー制覇! 弩級戦艦ナイスネイチャ!』と極太の筆文字で書かれた手作りの巨大な横断幕が掲げられ、テーブルの上には居酒屋の女将が三日三晩徹夜で仕込んだという、伊勢海老の舟盛りや特大の鯛の尾頭付き、そして山のような揚げ物のオードブルが所狭しと並べられている。
「ダービーウマ娘だ! ウチの陣営のダービーウマ娘のお出ましだぞぉぉっ!」
「よくやったネイチャ! アタシたちの最高傑作! 天才狩りの弩級戦艦!」
「きゃーっ! ネイチャちゃーん! こっち向いてー!」
スーツを脱ぎ捨てて『ハイペリオン』と背中にプリントされた特製ハッピを着込んだ編集長がメガホンで絶叫し、地方組の先輩たちがネイチャに群がってもみくちゃにする。
「わわっ、ちょっと先輩たち、髪が! テープが絡まって……!」
と悲鳴を上げるネイチャを、OGたちは爆笑しながら胴上げせんばかりの勢いで店内の奥へと引きずり込んでいった。
狂乱の渦の中、ひとまずの儀式として、ネイチャは店内の中央、最も目立つ上座である『お誕生日席』へと強制的に座らされた。そして、彼女をこの頂点へと導いた安楽椅子の魔術師は、当然の権利としてそのすぐ隣、最高司令官のための特等席へと丁重に案内された。
それぞれの手に、なみなみと注がれたビールジョッキやウーロン茶のグラスが渡り切ったところで。
「はいはい、みんなちょっと静かに! 乾杯の挨拶いくよ!」
パンパンと手を叩いて場を鎮めたのは、いつも陣営の胃袋を支え、誰よりも声の大きい、揚げ物屋のおねーさんであった。
彼女は、自慢の特製ヒレカツが山盛りにされた大皿の前に立ち、手にしたジョッキを高く掲げた。普段の底抜けに明るい顔には、今日ばかりはどこか厳粛で、そして感極まったような深い感慨が刻まれていた。
「えー、まずは。……ネイチャ、そして先生。日本ダービー制覇、本当におめでとう!」
ワァァァァッ!と再び沸き起こる歓声を、おねーさんは手で制して言葉を続ける。
「正直言って……わたしたち『ハイペリオン』の陣営から、ダービーウマ娘が出るなんて、いまだに夢みたいでさ。信じられないっていうか、ほっぺたをつねっても痛くないんじゃないかって、ずっとそんな気分だったんだ」
おねーさんの声のトーンが、少しだけ落ちる。店内の喧騒がスッと引き、全員が彼女の言葉に静かに耳を傾け始めた。
「先生がいつも言ってた、『一生の勝利』。レースで勝つことよりも、怪我をせずに無事に引退して、その後の六十年の人生を五体満足で生き抜くこと。
……その教えのおかげで、わたしたちはこうして今、美味しいお酒が飲めてるし、仕事にも就けてる。自分の揚げたコロッケを『美味しい』って言ってもらえる、最高に充実した第二の人生を生きてる」
彼女は、少しだけ目を伏せ、ジョッキを持つ手にギュッと力を込めた。
「オープン戦では確かに勝てるようになった。人生と言う戦いでも、みんな各々勝利を掴んでる。……でもね。やっぱり、わたしたちの心の奥底には、ずっと消えない『棘』があったんだよ」
その言葉に、編集長も、居酒屋の女将も、地方で指導者をしているOGたちも、皆一様に唇を噛み締め、静かに頷いた。
「怪我をしないための撤退戦。身の丈に合ったレース選択。それは絶対に正しいし、先生には感謝してる。……でも、本当は。わたしたちだって、本当は……重賞を獲りたかったんだよ。
あの東京レース場の大観衆のど真ん中で、ちやほやされて、天才たちと肩を並べて、ダービーウマ娘になりたかったんだよ……っ!」
才能の壁にぶつかり、夢を諦めざるを得なかった少女たちの、ずっと蓋をしてきた痛切な本音。おねーさんの声は次第に震え、その瞳からは大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていた。
「でも、無理だった。わたしたちの才能じゃ、あの舞台には絶対に届かなかった。……だから、ネイチャにわたしたちの全部を託したんだ。わたしたちの叶えられなかった夢を、全部背負わせちゃった」
おねーさんは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、お誕生日席で目を潤ませている重装歩兵を、真っ直ぐに、深い深い愛情を込めて見つめた。
「重かったよね。苦しかったよね。プレッシャーで、押し潰されそうになった日もあったよね。……でも、あんたは逃げなかった。先生の過酷なメニューを文句一つ言わずにこなして、泥臭い練習にも付き合って……そして、最後の最後、あの大本命、天才のトウカイテイオーを、真っ向から叩き潰してくれた!」
涙声は、いつしか魂の底からの絶叫へと変わっていた。
「あんたは、わたしたちの誇りだ! ハイペリオンの、間違いなく最高傑作だ!!」
おねーさんは、もう片方の手で涙を乱暴に拭うと、天井の照明を突き割らんばかりの勢いでジョッキを天へと掲げた。
「ほんとうに……っ、ほんとうに、良かった! あんたが、わたしたちの夢を現実にしてくれて、ほんとうに良かったぁぁっ!!」
堰を切ったように、店内のあちこちからOGたちのすすり泣く声と、嗚咽が漏れ始める。
トレーナーは静かに目を閉じ、ネイチャはこぼれる涙を拭おうともせず、ただ真っ直ぐにおねーさんを見上げていた。
「さあ、泣くのはここまで! 今日はとことん飲んで、とことん食うよ!」
おねーさんは、極上の、泣き笑いの笑顔を弾けさせた。
「最強のダービーウマ娘・ナイスネイチャのこれまでの凄まじい奮闘と! 彼女の、限界を知らないこれからの未来に……!!」
店内の全員が、立ち上がり、手にしたグラスを高く、誇り高く掲げる。
「「「乾杯っっっ!!!!」」」
ガチンッ! カチンッ! と、無数のグラスが激しく、そして華やかにぶつかり合う音が、夜の店内に響き渡る。
歓声と拍手、涙と笑顔が入り混じる狂乱の空間。敗者の哲学を掲げてきた陣営が、過去のすべての未練を最高の結果で昇華させ、心からの勝利の美酒に酔いしれる。
ナイスネイチャという一人の少女の栄光を祝う、長く、熱く、そして世界で一番温かい宴が、今ここに華々しく幕を開けたのであった。
■
乾杯の発声と同時に、グラスが弾けるような音を立ててぶつかり合ったその瞬間、それを合図とするように、店内の空気は一瞬にして「感動の祝勝会」から「タガの外れた狂乱の宴」へと劇的な変貌を遂げた。
「さぁさぁさぁ! アタシたちの最高傑作に、まずは一杯! ネイチャ、ウーロン茶だけど遠慮せずに一気に行きなさい!」
「ちょっと編集長、未成年の子に一気飲みなんて古臭いノリやめてよ! ネイチャちゃん、こっちの特製フルーツジュース飲みな! ビタミンたっぷりだから!」
「あーもう、順番だってば! 地方組から先にネイチャを労わせろー!」
お誕生日席に座らされていたナイスネイチャは、もはや自分が主役なのか生贄なのか分からない状態に陥っていた。
右から注がれるジュースを飲もうとすれば、左から唐揚げの山が盛られた皿を押し付けられ、正面からはビールで顔を真っ赤にしたOGたちが次々とやってきては、その首に抱きつき、頭をぐしゃぐしゃに撫で回していく。
「ちょっと、先輩たち! 順番、順番に! ああっ、こぼれる、ジュースこぼれますって!」
嬉しい悲鳴を上げるネイチャの首には、すでに何本もの金銀の紙テープが絡まり、髪はボサボサになっていた。しかし、OGたちの興奮は留まるところを知らない。
「あの第四コーナー! あのラチ沿いのイン突き、最高だったわよ! 私どーしても行けなくてさ、仕方なくテレビで見てたんだけど、アタシ、思わず『そこだぁっ!』って叫んじゃって、隣の部屋の人から壁ドンされたんだから!」
「わっかるー!!!! アタシは現地で見てたけどさ! テイオーちゃんが大外から来た時、もうダメかと思って一瞬目ぇ瞑っちゃったもん。でも目を開けたら、ネイチャがまだ一番前で踏ん張っててさぁ……! 思い出したらまた泣けてきたぁぁっ!」
「泣くのはさっき終わったでしょ! ほらネイチャ、この伊勢海老食いな! あんたが稼いできた賞金に比べたら安い安い!」
あっちで騒ぎ、こっちで騒ぎ、ネイチャの周りには常に黒山の人だかりができていた。普段は冷静に地方のトレセンで後進を指導しているはずのベテランOGたちでさえ、今日ばかりは完全に理性のタガを外しており、ネクタイを頭に巻くような昭和の酔っ払いスタイルで、ネイチャの肩をバンバンと叩いては大声で笑い合っている。
そのすさまじい喧騒の中、厨房を預かる居酒屋の女将は、戦場のような目まぐるしさで次から次へと大皿料理を提供し続けていた。
「はいお待ち! 豚の角煮特大ドーム盛り、特製ネギ塩ダレの牛タンマウンテン、それから海鮮チヂミの十段重ね! ドンドン食え、ドンドン飲め! 今日はウチの店にある食材、全部食い尽くす勢いで行けぇっ!」
「女将さん、こっちビールおかわり! ピッチャーで三つ!」
「こっちもウーロン茶のピッチャーと、だし巻き卵追加で五本!」
「はいよー!!! ちょっと待ってな!」
ウマ娘の胃袋は、常人のそれとは次元が違う。ましてや、厳しい体重管理から解放されたOGたちと、現役のウマ娘、そして極限のレースを終えて完全休養中のダービーウマ娘が集っているのだ。女将が豪快に盛り付けた大皿料理は、テーブルに置かれた端から、まるで掃除機に吸い込まれるようにスッカラカンになっていく。
「んんっ! この角煮、とろっとろで最高です! 脂身の甘みが……っ、はふはふっ」
「でしょでしょ! ネイチャちゃん、もっとお食べ! ほら、あんたら3人も遠慮するんじゃないよ! ねーさんが揚げた特製ヒレカツも、まだ五十枚はあるからね! ダービーのエネルギー、全部ここで補給して帰るんだよ!」
「五十枚!? 殺す気ですか!?」
ネイチャは口いっぱいに角煮を頬張りながら目を丸くしたが、その横から編集長が「アタシが二十枚食うから安心しな!」とハイボールを片手に乱入してくる。
宴は完全に無礼講の混沌状態に陥っていた。
店内のテレビモニターでは、録画された日本ダービーの映像がエンドレスで流されており、レースが最終直線に差し掛かるたびに、まるで今まさにリアルタイムでレースを見ているかのように、
「いけぇぇっ!」
「そのままぁぁっ!」
という絶叫とコールが巻き起こる。そしてネイチャがゴール板を駆け抜けるたびに、全員で万歳三唱をしては乾杯を繰り返すという、ある種の狂気的なループが形成されていた。
「ネイチャぁ……! あんた、ほんとに凄いよぉ……っ! あたしたちの自慢の後輩だよぉ……っ!」
「だから先輩、泣き上戸になるの早すぎますって! ほら、ティッシュ! 涙拭いて!」
「だってぇぇ! あんたが、あんたがカッコよすぎるからぁぁっ!」
アルコールと熱気、揚げ物の油の匂い、そして涙と笑顔がごちゃ混ぜになった、極彩色のように騒がしくも温かい空間。
自分を押し潰さんばかりの勢いで群がってくる先輩たちをあしらいながら、ネイチャもまた、心の底からの笑い声を弾けさせていた。
自分が勝ったことで、こんなにもたくさんの人たちが喜んでくれている。自分の勝利が、こんなにも狂おしいほどの熱狂を生み出している。その事実が、口に運ぶ料理の味を、これまでの人生で味わったどんなご馳走よりも美味しく、輝かしいものに変えていた。
ダービーウマ娘・ナイスネイチャは、ハイペリオン陣営という家族のど真ん中で、もみくちゃにされながら、幸せの絶頂を味わい尽くしていたのである。
■
一方で。
その狂乱の渦から少しだけ離れた、テーブルの端の席。
陣営の最高司令官たる安楽椅子の魔術師は、自身の前に置かれた、今日ばかりは解禁した生ビールのジョッキを片手に、静かにその光景を見つめていた。
「……そりゃあ、そうか」
誰の耳にも届かないほどの小さな声で、彼はポツリと独り言をこぼした。
彼の視線の先では、かつて己の教え子だったOGたちが、ダービーの録画映像を見ながら拳を突き上げ、ネイチャを抱きしめ、涙を流して喜んでいる。その姿は、普段の「勝利よりも生存」を掲げる彼女たちの落ち着き払った態度とは、あまりにもかけ離れていた。
トレーナーは、ジョッキの結露を指でなぞりながら、自らの哲学の根底を静かに問い直していた。
彼はこれまで、自陣営のウマ娘たちに対し、『一生の勝利』という名の撤退戦を敷いてきた。
才能の壁にぶつかり、絶望し、時に無理な出力を出して足を壊しかける彼女たちを救うため。彼は冷徹なデータとロジックを駆使し、「レースでの勝利など重要ではない。無事に引退し、健康なまま六十年の人生を生き抜くことこそが究極の勝利である」と説き伏せてきた。
彼のその屁理屈は、事実として彼女たちを救った。無理なローテーションを避けさせ、致命的な怪我を未然に防ぎ、引退後に居酒屋の女将や揚げ物屋の従業員、記者、自営業、トレーナーなど、様々な結果として充実した第二の人生を歩ませることに成功している。
彼は自分のやり方が正しいと信じていたし、彼女たちもそれに納得し、感謝してくれていると疑わなかった。
―――しかし。
先ほどの一番艦の、あの血を吐くような乾杯の挨拶を聞いて、そして今、狂ったように勝利の美酒に酔いしれる彼女たちの姿を見て。彼の冷たい脳内は、極めて残酷で、しかし抗いようのない一つの『真理』を導き出していた。
(……私の屁理屈で、彼女たちの『本能』まで完全に抑え込めるわけがなかったのだ)
トレーナーは、小さく自嘲の笑みを浮かべた。
ウマ娘とは、ターフを駆け抜け、誰よりも速く走り、一番前でゴール板を駆け抜けるために生まれてきた存在だ。
その魂の根底に刻まれた、闘争と勝利への純粋な渇望。
どれだけ怪我のリスクを説こうが、どれだけ引退後の人生の素晴らしさを語ろうが、彼女たちの細胞が叫ぶ「勝ちたい」という本能の炎を、完全に消し去ることなど不可能だったのだ。
私が彼女たちに強いてきたのは、ある種の残酷な『諦め』だったのではないか。
「お前たちには才能がないから、安全な道を行け」と。
残酷な現実をデータというオブラートに包んで突きつけ、彼女たちの夢を、私が自らの手でへし折ってきたのではないか。
その苦く、重たい感情が、彼の胸の奥にじわりと広がっていく。
彼は、己の不甲斐なさと、彼女たちに強いてきた残酷な防衛線の重さを飲み込むように、皿に乗っていた鶏の唐揚げを一つ口に放り込み、冷たいビールを一気に煽った。熱い油の暴力的なまでの旨みと甘さが口の中に広がり、それをビールの鋭い炭酸とホップの苦味が無理やり洗い流していく。油の甘みと、ビールの苦味。今の彼の複雑な心情を、そのまま体現したような味がした。
(だが……)
トレーナーは、ジョッキをドンとテーブルに置き、視線を再び狂乱の中心へと向けた。
彼の視線の先。
そこには、アルコールと感涙ですっかり出来上がってしまった揚げ物屋のおねーさんが、ナイスネイチャの首にすがりつき、子供のように泣きじゃくっている光景があった。
「ありがとぉ……っ。ほんとうに、ほんとうに、ありがとぉ……っ」
おねーさんは、ネイチャのジャージの背中をギュッと握りしめ、顔を埋めたまま、うわ言のように感謝の言葉を繰り返し続けている。
自分が立てなかった舞台。
自分が果たせなかった夢。
それをすべて背負い、自分のことのように喜ばせてくれた後輩への、底知れぬ感謝。
「おねーさん、泣きすぎですよぉ」
その号泣する先輩に対し。重装歩兵は、極めて穏やかで、慈愛に満ちた聖母のような笑みを浮かべていた。ネイチャは、自分より年上で、陣営の裏のまとめ役でもあるおねーさんの頭に優しく手を乗せ、まるで幼子をあやすように、ゆっくりと、ぽんぽんとその髪を撫でていたのである。
「アタシ一人じゃ、あそこまで行けませんでしたから。おねーさんがいつも美味しいご飯で支えてくれて、みんながアタシの足を守ってくれたから、勝てたんです。……だから、ありがとうはアタシのほうですよ」
「うわぁぁぁんっ! ネイチャぁぁぁぁっ!!」
さらに大声で泣き崩れるおねーさんの背中を、ネイチャは力強く、しかし優しくさすり続ける。
その光景は、あまりにも美しかった。
勝者が敗者を見下すのではなく。敗者が勝者を妬むのでもなく。
夢破れた者たちが泥臭く紡いだ防衛線が、最強の勝者を生み出し、そしてその勝者が、敗者たちが抱え続けてきた「重賞を獲りたかった」という未練の棘を、すべて優しく抜き去り、救済している。
(……ああ。私の計算は、間違っていなかった)
トレーナーは、目頭の奥が熱くなるのを感じながら、深く、静かに息を吐き出した。
私が強いてきた諦めも、彼女たちが押し殺してきた本能も。すべてを、あのナイスネイチャという『弩級戦艦』が、ターフの上で丸ごと肯定し、完璧な勝利という形で昇華させてくれたのだ。
この最高の祝祭の景色こそが、ハイペリオン陣営が長い年月をかけて辿り着いた、真の『一生の勝利』の形なのだと、彼は今、確信していた。
「……先生?」
ふいに、もみくちゃにされながらもおねーさんの頭を撫でていたネイチャが、視線をこちらへ向け、小首を傾げた。
少し離れた席で一人ビールを飲んでいる指揮官の様子が気になったのだろう。「こっちに来て一緒に騒ぎましょうよ」と、彼女の瞳が語りかけている。
トレーナーは、空になったジョッキを掲げて見せ、フッと、いつものような、しかしかつてないほどに穏やかで優しい笑みを返した。
(これだから、君という不確定要素の観測は、やめられない)
彼はゆっくりと立ち上がり、陣営の最高傑作が待つ、喧騒と涙と笑顔が渦巻く狂乱の中心へと、その歩みを進めていった。
油の甘みとビールの苦味は、いつの間にか、これ以上ないほど甘美な勝利の味へと変わっていた。夜はまだ始まったばかり。ダービーウマ娘とその陣営の終わらない宴は、初夏の夜空にいつまでも温かく、そして騒がしく響き続けていくのだった。