ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
時計の針が日付を越える頃、狂乱と歓喜に包まれていた祝勝会も、ついに大団円の時を迎えようとしていた。
貸し切られた店内は、さながら激戦を終えた後の野戦病院のような有様だった。
無数の金銀の紙テープが散乱する畳の上では、アルコールと感涙ですっかり限界を迎えたOGたちが、文字通り「ぐでんぐでん」になって折り重なるように眠りこけている。特製ヒレカツを山ほど揚げて大泣きしていたおねーさんも、今は空になったジョッキを抱き枕にして、幸せそうな寝息を立てていた。
「いやはや、見事な全滅っぷりだ。完全に補給線が崩壊しているな」
「あはは……。先輩たち、明日二日酔いで頭痛いって絶対に後悔しますよ、これ」
その惨状を見下ろし、トレーナーとナイスネイチャは顔を見合わせて苦笑をこぼした。厨房から出てきた居酒屋の女将(OG)が、腕まくりをしながら豪快に笑う。
「気にすんな! この酔っ払いのあとかたづけはアタシが全部引き受けるから、あんたたちはもう帰りな! 明日からまた、次の目標に向けての準備があるんだろ!」
「あ、私たちも残ります。女将さんだけに片付けさせるの悪いですから。先生とネイチャは先に戻ってて!」
「すまない、恩に着る。……女将さん、今夜は本当に最高の兵站(料理)だった。感謝する」
「へへっ、先生にそう言われると照れるさね。アタシたちこそ、最高の夢を見させてもらったよ。ま、現役三人衆は旦那に送らせるから……2人は気をつけて帰んな!」
女将に見送られ、二人は静かに居酒屋の引き戸を開けた。
外に出ると、火照った頬に初夏の夜風がひんやりと心地よく吹き付けてきた。油の匂いとアルコールの熱気に満ちていた店内から一転、街は深夜の静寂に包まれており、見上げれば雲ひとつない夜空に無数の星が瞬いている。
「ふぅ……。終わりましたね、先生」
「ああ。私たちの陣営にとって、歴史的な一夜になった」
心地よい疲労感とともに、二人がトレセン学園へと向かって歩き出そうとした、まさにその時だった。
「――おーっと、ちょっと待ったぁっ!!」
背後の引き戸が勢いよく開き、まだ辛うじて意識を保っていた編集長をはじめとする、数名の『生き残り組』のOGたちが、わらわらと通りへ飛び出してきたのである。
「せっかくのダービー祝勝会、これで終わりにするにはまだ早いってもんでしょ!」
「えっ? 先輩たち、まだ飲むんですか!?」
驚いて振り返るネイチャに対し、編集長はニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。そして、周囲のOGたちに目配せをする。
「飲むんじゃないわよ。主役を、空に飛ばすのよ! ほらみんな、いっくわよーっ!」
「えっ? ひゃあっ!?」
有無を言わさぬ勢いで、OGたちがネイチャの細くも強靭な手足に群がり、彼女の体をひょいと持ち上げた。
「せーのっ!」
ふわり、と。
かけ声とともに、ナイスネイチャの体が夜空に向かって高く放り投げられた。視界が反転し、初夏の夜風がポニーテールを揺らす。頂点に達した瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、静まり返った街の灯りと、手が届きそうなほど近くで瞬く星々の輝きだった。
「わぁっ……!」
「ダービーウマ娘、ばんざーいっ!!」
「ばんざーいっ!!」
三度、空を舞う。
かつては自分の才能を卑下し、誰かの引き立て役でいいと俯いてばかりいた自分が、今、一番星に届くほどの高さで、愛する先輩たちの手によって祝福の宙を舞っている。
恐怖など微塵もなかった。ただひたすらに嬉しくて、ネイチャは空の真ん中で、これ以上ないほどの極上の笑顔を弾けさせた。
「よし、ネイチャはOK! ……次は、ウチの最高司令官だっ!!」
「なっ、なんだと!?」
ネイチャを無事に着地させたOGたちの凶悪な視線が、今度は呆然と立ち尽くしていた安楽椅子の魔術師へと向けられた。
「ま、待て! 私の現在の質量と重心バランスを考慮すれば、極めて非合理かつ危険な物理的挙動――うわぁぁぁぁっ!?」
冷徹なロジックなど、狂乱の生き残りたちに通用するはずもない。悲鳴を上げる間もなく、ヨレヨレのシャツを着たトレーナーもまた、容赦なく夜空へと放り投げられた。
「ダービートレーナー、ばんざーいっ!!」
「データ主義の引きこもり、ばんざーいっ!!」
「おい、後半のは悪口ではないかっ……うおぉぉぉっ!?」
手足をばたつかせながら宙を舞う男の姿に、ネイチャもOGたちも、腹を抱えて大爆笑した。彼が見上げた夜空もまた、教え子が見たものと同じ、限りなく澄み切った美しい星空だった。自らの足で走ることはなくとも、彼女たちと歩んできた道の先で、こんな景色を見ることになるとは。
彼の中で構築されていたあらゆるシミュレーションの壁が、心地よい夜風と共に完全に吹き飛んでいくのを感じていた。
「……ふぅ。全く、君たちはどこまで私の計算を狂わせれば気が済むんだ」
無事に地面へと降ろされたトレーナーは、さらにシワくちゃになったシャツの襟を正しながら、どうしようもなく嬉しそうに、覇気のない笑顔をこぼした。
「じゃあな、二人とも! 最高の夜をありがとーっ!」
「気をつけて帰るんだぞー!」
OGたちの温かい見送りを受けながら、トレーナーとナイスネイチャは、今度こそ二人並んで、学園へと続く深夜の道を踏み出した。
舗装されたアスファルトの上。等間隔に並ぶ街灯が、二人の影を長く伸ばしては重ならせ、また引き離していく。夜の静寂の中、二人の足音だけが規則正しく、心地よいリズムを刻んでいた。
「……本当に、終わっちゃいましたね」
しばらく無言で歩いた後、ネイチャが夜空を見上げたまま、ポツリと呟いた。その声には、巨大な祭典を終えた後のほんの少しの寂しさと、それを遥かに上回る深い充足感が入り混じっていた。
「ダービーっていう、ウマ娘にとっての世界のすべてみたいな目標が、一区切りついた。……なんだか、明日からどうやって走ればいいのか、わからなくなりそうです」
彼女の率直な本音に。
トレーナーは足を止めることなく、極めて淡々と、いつもの指揮官としての冷徹な、しかし絶対的な安心感を伴う声で返した。
「案ずるな。私の頭脳は、すでに次なる盤面の演算を完了している」
「え?」
「夏は避暑地での徹底した疲労抜きと、さらなる体幹の強化。秋には、二四〇〇メートル以上の未知の距離を制圧するためのスタミナ構築。……ダービーは最高峰の頂だが、終着点ではない。君という弩級戦艦のスペックを極限まで引き出すための次なる航海図は、すでに私の手の中にある」
彼は横を歩く教え子を見下ろし、ニヤリと不敵に口角を上げた。
「無敗のダービーウマ娘。その称号は、君の周囲の環境を劇的に変えるだろう。新たな強敵も現れる。だが、私たちがやることは何も変わらない。データを信じ、日常の兵站を整え、完璧にエンジンを回す。……それだけだ」
「……ふふっ」
その、変わらない『いつも通り』のロジック。
ネイチャは小さく吹き出し、それから、弾むような足取りで彼の一歩前へと飛び出し、くるりと振り返って満面の笑みを向けた。
「そうですね。アタシたちは、アタシたちのやり方で、これからも一つずつ『一番前』を獲りにいきましょう」
「ああ。頼んだぞ、私の重装歩兵」
「はいっ! ……あっ、でも先生。明日からはまた、ちゃんとシワのないシャツ着てくださいね? ダービートレーナーがそんなヨレヨレじゃ、アタシのイメージまで下がっちゃいますから」
「……善処しよう」
軽口を叩き合いながら、二人は再び前を向いて歩き出す。
『――ばんざぁぁぁぁぁぁぁいっ!!!』
ふいに。
二人の背中越し、遥か後方の居酒屋の方角から、夜の静寂を切り裂くような、OGたちの大音声が響き渡った。
『ナイスネイチャ、ばんざぁぁぁぁぁぁぁいっ!!!』
『ハイペリオン、ばんざぁぁぁぁぁぁぁいっ!!!』
それは、遠く離れた彼らの背中を力強く押し出すような、あるいは、これから先の果てしない戦いの旅路を永遠に守り続けると誓うような、熱く、不器用で、愛に満ちた後方支援部隊からの祈りの声だった。
幾重にも重なり合うその万歳三唱は、初夏の夜空にいつまでもいつまでも、温かいこだまとなって響き続けていた。
ナイスネイチャは、振り返ることなく、その声を背中全体でしっかりと受け止める。
彼女の瞳に迷いはない。才能という壁を壊し、運命を自らの足で切り拓いた少女は、隣を歩く不器用な魔術師と共に、歓声の余韻を背に受けながら、まだ見ぬ次なる勝利の光へと向かって、堂々たる足取りで進んでいくのだった。
■
深夜二時。
狂乱の嵐が吹き荒れた居酒屋の店内は、嘘のような静寂に包まれていた。
主役であったナイスネイチャとトレーナーを空へ放り投げ、満足気に見送ったOGたちの多くは、そこからさらに飲み直そうとして見事に自滅。中距離、短距離、長距離の現役ウマ娘達は、ある程度の片付けを手伝ってもらってから、寮に帰している。
今や広々とした座敷のあちこちで、ОG達は座布団を枕にしたり、互いの背中にもたれかかったりしながら、幸せそうな寝息を立てる屍と化している。
そんな惨状をカウンター席から見下ろしながら、生き残った二人の大人の女性が、静かにグラスを傾けていた。この店の主である女将と、スーツのジャケットを脱ぎ捨てた編集長である。
「……それにしても、あんたお酒強いわね、相変わらず」
女将が、呆れたような、けれどどこか感心したような声で笑いかける。
彼女自身、自分の店で散々立ち立ち働き、自らもかなりの量の酒を煽ってきたが、隣に座るかつての戦友は、狂乱のピークを越えてなお、涼しい顔で琥珀色の液体を喉に流し込んでいた。
「まーね。出版業界の、しかも編集長なんてポジション、肝臓がチタン製でもなきゃ無理よ無理。これくらいで潰れてちゃ、修羅場はくぐり抜けられないわ」
カラン、と。編集長はグラスの中で氷を揺らし、自嘲気味に笑って見せた。
女将は手元のボトルから自身のグラスにウィスキーを注ぎ、炭酸水で割って濃いめのハイボールを作る。そして、そっと編集長のグラスへと自身のそれを掲げた。
「そいつはご苦労なこった。……じゃあ、改めて。私たちの、長かった撤退戦の終わりに」
「ええ。……乾杯」
チンッ、と。深夜の店内に、分厚いガラスが触れ合う低く静かな音が響いた。誰も見ていない、誰の耳にも届かない、酸いも甘いも噛み分けた大人たちだけの、ひっそりとした祝杯。
女将はハイボールを一口飲み、カウンターの隅に置かれていた大皿――先ほどまで宴の中心にあった、おねーさん特製の揚げ物の盛り合わせに手を伸ばした。
すっかり冷めてしまった唐揚げを一つ口に放り込み、ゆっくりと咀嚼する。冷めてなお、肉の旨みと下味がしっかりと染み出している。それを、強い炭酸とアルコールで一気に胃の腑へと流し込んだ。
「……沁みるねぇ」
女将が、ふうっと深い溜息とともに呟く。油の甘みと、酒の苦味。そして、胸の奥底でずっと燻っていた感情が、アルコールと共にゆっくりと溶けていくような感覚。
「ええ。……本当に、沁みますね」
編集長もまた、目を細めて静かに同意した。
二人の視線の先、座敷の一番奥では、今日誰よりも泣き、誰よりも叫び、誰よりも笑っていた「おねーさん」が、空になったピッチャーを抱きしめるようにして、丸くなって眠っていた。時折「ねいちゃぁ……えらいぞぉ……」と、幸せそうな寝言をこぼしている。
「……にしても」
女将は、そのおねーさんの無防備な寝顔を愛おしそうに見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「おねーさんさ……やっぱり、誰よりも一番悔しかったんだな。今日、ずーっとネイチャに絡み酒してたろ。あんなに子供みたいに泣きじゃくってさ」
「……ええ」
編集長は、グラスの縁を指でなぞりながら、静かに頷いた。
「一番気を使ってましたしね、ねーさんが。……ウチの陣営で、先生との付き合いも一番長い。誰よりも近くで、あの人の弾き出すデータがどれだけ完璧で、どれだけウマ娘の限界を押し上げてくれるロジックなのかを、骨の髄まで知っていた」
編集長の言葉には、かつて同じようにターフで夢を追い、そして諦めざるを得なかった者特有の、生々しい痛みが混じっていた。
「先生の力を、本物を誰よりも知っているのに。……自分には、それを体現するための『フィジカル』も『才能』もなかった。どれだけ完璧な設計図があっても、それを出力する才能が自分には決定的に足りていないという現実。……それは、もどかしくて、残酷なまでの絶望だったはずです」
だからこそ、トレーナーが掲げた「一生の勝利」という名目を、彼女は誰よりも明るく、誰よりも強く肯定して見せたのだ。自分の中にある走ることへの未練を、揚げ物の油の音と、底抜けに明るい笑顔の裏に隠して。
「そこに現れたのが、ナイスネイチャという『器』だった」
女将が、編集長の言葉を引き継ぐように言う。
「先生のロジックに耐えうるだけの、恐ろしいほどの吸収力と、泥臭い努力を苦にしない才能を持った重装歩兵。……そりゃあ、感情が渦巻くってもんでしょ」
自分がどうしても立てなかった場所に、いとも簡単に(少なくとも彼女たちの目にはそう見えた瞬間もあっただろう)到達していく後輩の背中。
応援したいという純粋な愛情と、自分がそうありたかったという捨てきれない渇望。
「そうだねぇ……」
女将は、手元のハイボールを見つめたまま、自らの胸の奥にある、決して綺麗なだけではない感情の澱を、ポロリと吐き出した。
「ネイチャに嫉妬しないって言えば、嘘になるよ」
それは、大人の女性同士だからこそ言える、極めて残酷で、等身大の本音だった。
「私たちだって、ウマ娘だからね。ターフを走るために生まれてきて、誰よりも速く駆け抜けたいって本能が、細胞の隅々にまで刻み込まれてる。……だから、あの子の走りを見て、『もし私に、あの子ぐらいの才能があれば』って。先生の言う通りに走れるだけの脚があれば、あのど真ん中で歓声を浴びていたのは私だったかもしれないって……」
女将は自嘲気味に笑い、グラスを傾けた。
「心のどこかで、ほんのちょっとだけ思っちゃうんだよ。……それが、ウマ娘っていう生き物の、どうしようもない悲しい性なのかな」
走ることを辞めて、居酒屋の女将として充実した人生を送っている今でさえ。
天才たちが鎬を削るレースを見れば、血が騒ぐ。羨望と、嫉妬と、己の限界への諦念が入り混じった、ドロドロとした感情が顔を出す。
その女将の独白を、編集長は黙って聞いていた。否定はしない。なぜなら、彼女自身の中にも、そして座敷で眠るすべてのOGたちの中にも、全く同じ「悲しい性」が存在していることを知っているからだ。
「……でも」
編集長は、顔を上げ、きっぱりとした、誇り高い声で言った。
「ネイチャは、アタシたちのそのドロドロとした未練ごと、全部背負って、夢を叶えてくれたじゃないですか」
彼女の瞳の奥に、昨日の東京レース場、あの残酷なまでに長い五二五メートルの直線の光景が蘇る。
「ただの重賞ウマ娘じゃない。ジーワン……しかも、すべてのウマ娘が憧れる最高峰の舞台、日本ダービー。そこで、並み居る天才たちを、アタシたちが信じてきた『先生のロジック』と『泥臭い努力』の結晶で、真っ向から捻じ伏せてみせた」
編集長は、言葉を切った。胸の奥から込み上げてくる熱いものを、グッと飲み込む。
「あの子が一番前でゴール板を駆け抜けた瞬間。アタシの中の『嫉妬』とか『もしも』なんていう醜い感情は、全部吹き飛びました。……あの子の勝利は、紛れもなく、アタシたちハイペリオン全員の勝利だったんですから」
自分たちが裏方に回り、データを集め、生活を支えてきた。そのすべての兵站線が繋がったからこそ、あの弩級戦艦は、大外から飛翔する天才の末脚を内側から叩き割ることができたのだ。
嫉妬など、とうの昔に凌駕している。あそこに立っていたのは、自分たちの人生の結晶そのものだったのだから。
その編集長の言葉に。女将は、目を丸くした後、フフッ、と心の底からの、柔らかく美しい笑みをこぼした。
「ふふ……。そうだね。本当に、その通りだ」
女将は、座敷で眠る仲間たちを、そして、とうの昔に店を後にして、今は静かな夜道を歩いているであろう二人の後ろ姿を想像するように、目を細めた。
「私たちの、叶えられなかったちっぽけなユメを。全部あの背中に背負って、誰よりも力強く駆けてくれた子。……あんな最高な後輩、他にいないよね」
才能の壁に絶望した自分たちを救ってくれた男のロジックを、世界で一番美しく証明してくれた、一人の少女。
編集長もまた、手元のグラスを高く掲げ、一切の曇りのない、晴れやかな大人の笑顔を咲かせた。
「ええ。……間違いないわ」
チンッ、と。
本日二度目の、静かなグラスの音が響く。
嫉妬も未練も、すべてを飲み込んで昇華させた大人たちの、穏やかな夜の語らい。
かつてターフで涙を飲んだウマ娘たちは、今、確かな誇りを胸に抱きながら、冷めた唐揚げをツマミに、最高に美味しい勝利の美酒を、静かに、ゆっくりと味わい続けるのであった。
■
二人の大人の女性がグラスを傾け合い、静かに過去の未練を昇華させていた、まさにその時だった。
「……ふえ、あええ……ねいえちゃぁ……」
深夜の静寂に包まれた店内の奥。
座布団を枕にし、空になったビールのピッチャーを抱きしめるようにして丸まっていた『おねーさん』が、なんとも間抜けで、呂律の全く回っていない呻き声を上げた。
彼女はむにゃむにゃと口を動かした後、糸の切れた操り人形のように、ぐにゃりと上体を起こした。寝癖で髪は爆発し、目元は泣きはらしたせいでパンパンに腫れ上がり、視線は虚空を彷徨っている。
その惨状をカウンターから見下ろしながら、編集長は手にしていたハイボールのグラスを置き、呆れたような、しかしどこか面白がるような声をかけた。
「お、アタシたちの防衛線の要。一番艦の起床だ。……おい、大丈夫かー?」
遠くから投げかけられた声に、おねーさんは首をカクンカクンと揺らしながら、焦点の合わない目を必死に向ける。
「うー……らいひょーふ……」
「ダメだこりゃ。完全に言語中枢がシャットダウンしてるわね。何言ってんのか意味がわからない」
首をすくめる編集長の横で、居酒屋の女将は慣れた手つきで氷をたっぷり入れた特大のジョッキに冷たいチェイサーを並々と注ぎ込んだ。そして、カウンターを出て座敷へと上がり、フラフラと前後左右に揺れているおねーさんの元へと向かう。
「はいはい、お寝覚めの特製ウォーターだよ。ほら、飲みな」
「あーう……」
女将からジョッキを手渡されると、おねーさんはまるで砂漠でオアシスを見つけた旅人のように、両手でジョッキにしがみつき、ゴクゴクゴクッ! と勢いよく喉を鳴らして水を煽った。
半分ほどを一気に飲み干し、「ぷはぁっ!」と大きな息を吐き出す。
「……あたま、ふっらふらするー……」
冷たい水が胃の腑に落ちたことで、アルコール漬けになっていた脳細胞がわずかに覚醒したらしい。おねーさんの瞳に、うっすらと理性の光が戻ってきた。しかし、その光は決して「スッキリと目が覚めた」という類のものではなかった。
「おいおい、本当に大丈夫かよ。あんた、今日一人でピッチャー三つは空けてたぞ」
「大丈夫……」
編集長の問いかけに、おねーさんはボソリと呟いて顔を上げた。しかし、言いかけたその直後、彼女の顔が急激に歪み、今にも泣き出しそうな、ひどく情けなく、痛々しい表情へと変わった。
「……なわけない」
「ん?」
「ああもう、私最悪。最悪、本当……最悪の先輩だよ……」
おねーさんは、両手で自らの顔を覆い、膝に顔をうずめるようにして深く沈み込んだ。
その唐突な自己嫌悪の底なし沼へのダイブに、編集長はため息をつき、女将と顔を見合わせた。
「ありゃだめだ。完全に酔っ払ってるわ。一番めんどくさい『自己嫌悪モード』に入っちゃった」
「まぁまぁ。酒の抜け始めが一番感情のコントロールが効かないからね。……ほら、一気に飲むと胃がびっくりするから、もうちょっと水、ちびちび飲みな」
女将が背中を優しくさすりながら声をかけると、おねーさんは顔を覆っていた手を離し、再びジョッキを口に運んだ。こくり、こくりと、今度は小鳥のようにちびちびと水を飲む。
そして、コトン、とジョッキを畳に置いた瞬間。
「もうさーっ!!」
深夜の居酒屋に、おねーさんの悲痛な、酔っ払い独特の突拍子もない勢いを持った大声が響き渡った。ビクッと肩を揺らす編集長をよそに、おねーさんは両手で畳をバンバンと叩きながら、自分の中にあるドロドロとした醜い感情を、自らを切り裂くように吐き出し始めた。
「ネイチャに嫉妬してる自分が、すっごく、すっごく嫌なのですっ!!」
「……」
「あの子、すっごい良い子じゃん! わたしが揚げたコロッケもトンカツも、いつもいつも『美味しいですおねーさん!』って、世界で一番幸せそうな顔して食べてくれてさ!」
おねーさんの瞳から、再び大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。彼女は、まるで自分自身を糾弾するかのように、可愛い後輩の長所を次々と大声で並べ立てた。
「先生の生活だって、わたしたちがやるよりずっと完璧に見てくれてるし! 練習だって文句一つ言わないし! わたしたちOGの面倒くさい絡みにも、いっつも笑顔で付き合ってくれて! 性格も良くて、努力家で、もう、サイコウの後輩じゃんっ!」
そこまで一気にまくし立てると、おねーさんは天井の蛍光灯を仰ぎ見た。
その顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃで。普段の、誰よりも頼りになり、誰よりも明るく陣営を照らしてきた「ひまわりのような一番艦」の面影はどこにもなかった。
あるのはただ、才能という絶対的な壁の前にひれ伏し、夢を諦めきれないまま大人になってしまった、一人のみすぼらしい敗者の姿だけ。
「でもぉ……っ」
天井を見つめたまま、おねーさんの声が、ひどく掠れた、子供のような嗚咽へと変わる。
「ダービーは、ずるいよぉ……っ」
「……ねーさん」
「わたしだって……わたしだってぇ! だあびい……走りたかったぁ……っ!」
それは、普段の彼女であれば、絶対に口にしない言葉だった。
陣営の一番艦として、先生の「一生の勝利」という理念に誰よりも賛同し、後輩たちを安全な道へと導いてきた自負がある。レースで勝てなくても、美味しいご飯を作ってみんなを笑顔にできればそれで幸せだと、自分自身に言い聞かせ、周囲にもそう振る舞ってきた。
その強固な武装が、大量のアルコールと、後輩が成し遂げた偉大すぎる「最高峰の栄光」によって、完全に粉砕されてしまったのだ。
「羨ましい……羨ましい、羨ましい羨ましいぃーーーっ!!」
おねーさんは、畳に突っ伏し、拳を固く握りしめて号泣し始めた。
「なんでわたしには、あの脚がなかったのぉ……! なんでわたしの体は、重賞の風圧に耐えられなかったのぉ……っ!」
才能への渇望。自分がどうしても欲しかったものを、最も身近にいる後輩が手に入れてしまったことへの、どうしようもない絶望。
「あんなに頑張ったネイチャに、世界で一番『おめでとう』って言ってあげたいのに! 誰よりもわたしが、あの子の一番のファンでいたいのに……っ!」
おねーさんは、自らの胸をドンドンと力強く叩いた。
そこに渦巻く、後輩への純粋な愛情と、捨てきれない自身の夢への執着。相反する二つの感情――二律背反が、彼女の心を容赦なく引き裂いていた。
「心の奥の奥のどこかで……『わたしがあそこに立ちたかった』って、嫉妬しちゃうんだよぉ……! ネイチャの栄光を、100パーセント純粋な気持ちで喜んであげられない……こんな、大人気なくて、醜くて、最低なわたしが……!」
肺の中の空気をすべて絞り出すように、おねーさんは魂の底からの叫びを上げた。
「こうやって嫉妬する私が、きらあぁあああいっ!!!」
後輩を愛している。陣営を愛している。先生に感謝している。
けれど、ウマ娘としてターフを走り抜けたかったという呪いのような本能だけが、どうしても成仏してくれない。自分を犠牲にしてでも後輩を支えようと決めたはずなのに、いざその後輩が世界の頂点に立った時、拍手を送る自分の手のひらの奥で、冷たい嫉妬の炎がチロチロと燃えているのを感じてしまう。
それが、彼女には耐えられないほど恐ろしく、そして何よりも情けなかった。
「うわぁぁぁぁんっ! ごめんなさい、ネイチャぁぁ……ごめんなさい、先生ぇぇ……っ!」
泣き叫び、畳に爪を立てて嗚咽を漏らすおねーさん。
その、普段の明るく包容力のある彼女らしからぬ、あまりにも泥臭く、みっともない魂の絶唱を。
編集長と女将は、一切否定することなく、ただ静かに聞いていた。
「……」
「……」
慰めの言葉は、かけない。
「そんなことないよ」
「誰もあんたを責めないよ」
などといった安っぽい言葉で、この神聖なまでの痛みを濁したくはなかった。
なぜなら、編集長にも、女将にも、痛いほどに分かっていたからだ。おねーさんの口から溢れ出たその醜悪な自己嫌悪の正体が。後輩への祝福と、自身への絶望が入り混じった、その行き場のない苦しみが。
自分たちの中にも、全く同じ怪物が住んでいる。
ターフを走るために生まれてきたウマ娘である以上、誰かの勝利を完全に、一滴の濁りもなく祝福することなど、本当は不可能なのだ。
才能の壁にぶつかり、撤退を選択したあの日から。自分たちは常に、他者の栄光の影で、自分自身の不甲斐なさと折り合いをつけながら生きてきた。
裏方として支えることに幸せを見出した。
というのは事実だが、それは「ターフで勝つこと」の代替品でしかないという残酷な真実を、おねーさんの叫びは白日の下に晒していた。
編集長は、手元のハイボールのグラスを見つめた。
氷が溶け、琥珀色の液体が薄まっている。
(……ええ。嫌になりますよね。ねーさん。アタシも、アタシ自身が嫌いです)
心の中で、静かに同意する。
ネイチャのダービー制覇を見た瞬間、確かにすべてが報われた気がした。未練は昇華されたと、先ほど女将と語り合ったばかりだった。
だが、それはあくまで「陣営としての誇り」というオブラートで包んだ結果だ。
個人の、一人のウマ娘としての我欲を剥き出しにすれば、やはり行き着く先は「アタシが走りたかった」という、どうしようもなく虚しい後悔なのだ。
女将は、泣き伏すおねーさんの背中に、そっと、温かい大きな手を置いた。
「……泣きな。今日は、全部吐き出しちまいなよ」
ポン、ポン、と。
一定のリズムで、その震える背中を優しく叩く。それは、母親が子供をあやすような手つきであり、戦友の痛みを分け合うための静かな儀式でもあった。
「う、ううっ……ずるいよぉ……だあびい……羨ましいよぉ……っ」
おねーさんの泣き声は、徐々に勢いを失い、やがて力尽きたように小さく、途切れ途切れの嗚咽へと変わっていった。
■
おそらく、明日彼女が目を覚ました時、この深夜の魂の叫びのことは、アルコールの彼方へと消え去り、一切覚えていないだろう。
またいつものように、底抜けに明るい「ハイペリオン陣営のおねーさん」として、コロッケを揚げ、ネイチャの頭を撫でて、
「あんたは私たちの誇りだよ!」
と笑顔で言い放つはずだ。
それでいい。
この虚しくて、情けなくて、どうしようもなく苦しい本音は、今夜、この薄暗い居酒屋の奥底にだけ置いていけばいい。
「……本当に、難儀な生き物ですよね。アタシたちウマ娘って」
編集長が、氷の溶けた薄いハイボールを喉に流し込みながら、ポツリと呟いた。その言葉の響きは、深夜の静寂に溶け込むように、ひどく虚しく、そして切なく響いた。
「そうだねぇ。……でも、だからこそ、美しい夢を見られるんじゃないか」
女将は、すっかり泣き疲れて再び座布団の上でスースーと寝息を立て始めたおねーさんの頭を優しく撫でながら、静かに笑った。
嫉妬するほど欲しかった夢。
手が届かなかった栄光。
それを、自分たちの手で育て上げた最高の後輩が、見事に叶えてくれた。
その事実の前では、この醜い嫉妬の痛みさえも、陣営が辿ってきた軌跡の『勲章』の一つに過ぎない。
――深夜三時。
二律背反の感情に引き裂かれた戦友の寝顔を見守りながら、二人の大人の女性は、言葉を交わすことなく、残ったグラスの酒を静かに、そして愛おしむように飲み干した。
歓喜の裏側に潜む、敗者たちの切なくも美しい夜は、こうしてひっそりと更けていくのであった。