ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
狂乱の祝勝会から一夜明けた、翌朝。
トレセン学園の空気は、初夏の爽やかな日差しに満ちていた。
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ナイスネイチャは、アイロンがけを済ませた完璧なシャツが入れられたハンガーカバーと、栄養バランスを緻密に計算した朝食入りのタッパーを抱え、いつものようにトレーナー寮へと足を運んだ。
無敗のダービーウマ娘になろうと、世代の頂点に立とうと、彼女のやるべき『兵站』の業務は何一つ変わらない。不器用で生活能力皆無な指揮官の命綱を握っているのは自分であるという事実は、昨日の大歓声よりも遥かに彼女の心を落ち着かせてくれた。
やがて、身支度を終えたトレーナーと共に冷暖房の効いたトレーナー室へと移動し、ネイチャは朝一のルーティーンであるコーヒーの準備に取り掛かった。
コポコポとお湯が沸く心地よい音と、深煎り豆の芳醇な香りが部屋に満ちる中、定位置の安楽椅子に腰を下ろしたトレーナーが、デスクの上に広げた書類の山を捌き始めた。
「さて、スポンサー契約やメディア出演のオファーだが。昨日までにあらかた目を通し、私の基準で取捨選択を済ませておいた」
彼は、綺麗に分類されたいくつかのクリアファイルをネイチャの方へと押しやった。
「まず、スポーツブランドと飲料メーカーのCM契約。この二件は例の編集長案件だ。彼女の息がかかっている以上、理不尽なスケジュールや変な切り取り方をされるリスクは皆無だから、まず問題ない」
「おぉ、さすが編集長。仕事早いですね」
「次に、テレビのスポーツ特番とドキュメンタリー密着のオファーだが。これもディレクターがウチのOGだ。君が疲労を感じた瞬間にカメラを止めさせる権利を確約させている。それから、こっちのアパレルコラボとグッズ化の話だが……これも担当窓口がハイペリオンの卒業生だ」
次から次へと出てくる「チームOG」のコネクション。
引退後、様々な業界へと散っていった先輩たちが、出版、テレビ、企画とあらゆる方面からメディアの最前線を牛耳り、後輩の防衛線を完璧に構築しているのだ。
「……えっと、つまり?」
「つまり、君が受ける仕事の現場には、常に必ず『身内』がいるということだ。外部のノイズから君を守る城壁としては、これ以上ないほど強固だろう」
事もなげに言うトレーナーに、ネイチャはドリッパーにお湯を注ぐ手を止めかけ、呆気に取られた顔で瞬きをした。
レースでの撤退戦を余儀なくされた彼女たちは、その分、社会という別の盤面で恐ろしいほどの有能さを発揮し、巨大なネットワークを築き上げていたのだ。
「いやはや……ウチの先輩たち、本当に只者じゃないですね」
「私の指導方針の賜物と言ってほしいところだがね」
冗談めかして笑うトレーナーに、ネイチャはクスリと笑い、淹れたてのコーヒーをカップに注いだ。
「じゃあ、全部受けます。先輩たちがアタシのために整えてくれた舞台なら、断る理由なんて一つもないですから」
「よろしい。では、そのように各所へ返答しておこう」
ビジネスの話があっさりとまとまり、二人はそれぞれカップを手に取って、ゆっくりと朝の一口を味わった。
完璧な苦味と深いコク。その変わらない味に小さく息をつき、トレーナーはタブレット端末の画面を切り替えた。
「さて。メディア対応の防衛線が構築できたところで……本業たる『次の盤面』の話に移ろうか」
その声のトーンが、マネージャーから最高司令官のそれへと切り替わる。ネイチャも背筋を伸ばし、コーヒーカップをデスクに置いて彼の目を見つめた。
「今の私の計画では、次なる目標は秋の『菊花賞』だ」
「菊花賞……三千メートルの、長距離戦ですね」
「ああ。青葉賞、そしてダービーで君が見せたイン突きのコーナリングと、遠心力を推進力に変える極限の体幹。さらに、ライスシャワーとの合同練習で培った無尽蔵のスタミナ。……現在の君の成長曲線を見れば、ステイヤーとしての脚質も十分に開花する可能性がある」
トレーナーは画面に表示されたネイチャの筋肉量や心拍数のデータを指差しながら、理路整然と語る。
「夏は避暑地で完全に体を緩め、疲労を抜く。そして秋から再びネジを巻き直し、三千メートルを走り切るための燃料タンクを増設する。……これが第一プランだ」
ネイチャは真剣な顔で頷いた。同世代のウマ娘たちが己の限界に挑む最後の一冠。そこへ向かうための青写真としては、極めて理にかなっている。
だが。トレーナーはそこで言葉を区切り、ニヤリと、極めて好戦的な、勝負師としての笑みを浮かべた。
「だが、だ。ま、もし夏を過ぎてみて、君のステイヤーとしての適性が私の要求値に届かなかった場合、あるいは、もっと別の『熱』を君が求めた場合。……目標を『天皇賞(秋)』へとスライドさせる」
「え?」
その言葉に、ネイチャは素っ頓狂な声を上げた。
天皇賞(秋)。距離は東京二〇〇〇メートル。
しかし問題は距離ではない。そのレースは、世代の枠を越え、現役最強を誇る「シニア」たちが集う、真の怪物決定戦なのだ。
「本気ですか……? それって、シンボリルドルフ会長とか、マルゼンスキーさんみたいな、上の世代のバケモノたちとやり合うってことですよね?」
「ああ」
トレーナーは、悪びれる様子もなく、力強く頷いた。
「ダービーの最終直線。天才・トウカイテイオーを真っ向からねじ伏せた君のあの『追い比べ』を見て、私は確信した。今の君の圧倒的な体幹と出力なら、上の連中とも十分にやり合える、と」
彼は立ち上がり、窓の外、初夏の陽光に照らされるトレセン学園のターフを指差した。
「長距離の持久戦で世代を完全制圧するか。それとも、中距離で歴戦の怪物たちの首を獲りにいくか。どちらに転んでも、君の足なら頂点に届く。……中距離の乱打戦ならば、或いは、上の連中ごとすべて薙ぎ払えるかもしれないからな」
安全第一、無事是名馬を掲げていたかつての安楽椅子の魔術師の姿は、そこにはない。
あるのは、己が手塩にかけて育て上げた弩級戦艦の性能を完全に信じ切り、次なる主戦場へと進水させようとする、野心に満ちた提督の顔だった。
「……ふふっ」
その底知れぬ信頼と期待に。
ネイチャは、かつてのように卑屈に身をよじることなく、拳をギュッと握りしめて、不敵な笑みを返した。
「オッケーです。三〇〇〇メートルでも、先輩バケモノ相手の二〇〇〇メートルでも、どこへだって行ってやりますよ」
彼女は、ドンドンと自らの胸を叩いた。
「これからは主戦場で、アタシの主砲、ドカンドカンとやったりますから! 覚悟しててくださいね先生!」
「ああ。頼もしい限りだ」
コーヒーの香りが漂う司令室で。
魔術師と重装歩兵は、秋の新たな戦場へ向けて、早くも闘志の炎を静かに、そして熱く燃やし始めていた。
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一方その頃。
トレセン学園のグラウンドでは、ハイペリオンが管轄する現役のメンバー、三人のウマ娘――それぞれ短距離、中距離、長距離を主戦場とする彼女たちが、朝の合同トレーニングで汗を流していた。
「ぷはぁーっ! 疲れたぁ!」
「お疲れ様。タイム、少し縮んだわよ」
「よーっし、この調子なら次のオープン戦もいけそう!」
芝の上に座り込み、スポーツドリンクを回し飲みしながら、三人は荒い息を整えていた。彼女たちもまた、トレーナーの「怪我をしないこと」を至上命題とするデータ管理の下で走っている。
オープン戦を堅実に勝ち上がり、着実に人気と賞金を稼いでいる彼女たちの日常は、非常に安定していて、充実したものだった。
しかし。
今朝の彼女たちの話題の中心は、どうしても『あのこと』に行き着いてしまう。
「……それにしてもさ」
短距離ウマ娘が、空を仰ぎ見ながら、ぽつりとこぼした。
「ネイチャ、すんげーですよねー……」
その純粋な感嘆の言葉に、中距離ウマ娘も長距離ウマ娘も、深く、静かに頷いた。
「ほんと。ダービーウマ娘、かぁ。……あの最終コーナーの迫力、同じチームの子とは思えなかったわ」
「うん。テイオーを差し切った時のあの足音……今でも耳に焼き付いてる」
同じグラウンドで汗を流し、同じ指揮官のメニューをこなし、同じOGたちに差し入れを作ってもらっている仲間。いつも自分たちと一緒に笑い合っているあの優しくて少し卑屈な女の子が、十万人の歓声を浴び、無敗の天才を打ち破って、世代の頂点に立ったのだ。
「いやはや、同じチームでこんな子と一緒に走れるなんてね。鼻が高いっていうか、アタシたちまでちょっと偉くなった気分になっちゃうよね」
短距離ウマ娘が冗談めかして笑うと、他の二人もクスリと笑い合った。
しかし、その笑い声が風に溶けて消えた後。三人の間に、ほんの少しだけ、真剣で熱を帯びた沈黙が降りた。
「……でもさ」
中距離ウマ娘が、膝を抱え、グラウンドの彼方に広がる広大なターフを見つめながら口を開いた。
「ネイチャのあんな凄い走り見せられちゃったら……なんか、ウズウズしてこない?」
その言葉に、短距離ウマ娘も、長距離ウマ娘も、ビクッと肩を揺らした。
彼女たちもまた、ウマ娘だ。怪我をしないための撤退戦は正しい。安全圏で着実に勝利を重ねることは、素晴らしいことだ。その防衛線のありがたさは、誰よりも理解している。
けれど。
あの府中の長い直線を、日本ダービーの熱狂の中で。
ターフをめくり上げて突き進むナイスネイチャの……。
『ダービーウマ娘』の姿を、見てしまった。
その、頼もしくも誇り高い、蹄鉄の音を聞いてしまった。
「うん」
長距離ウマ娘が、静かに、けれど確かな決意を込めて頷いた。
「アタシも……オープン戦で満足してちゃダメだなって、思っちゃった」
「だよねっ!」
短距離ウマ娘が勢いよく立ち上がり、パンッ! と両手で自分の頬を叩いた。
「安全第一もいいけど! せっかくなら、アタシたちもあんな風に、大歓声のど真ん中を走ってみたいじゃん!」
「ええ。……自分の限界の、その先へ」
示し合わせたかのように、三人の瞳に、かつてないほどの鋭い闘志の光が宿った。
ナイスネイチャが打ち立てた『ダービー制覇』という巨大な金字塔は、先輩たちの未練を昇華させただけでなく、後に続く現役メンバーたちの心に眠っていた「本能」をも、完全に呼び覚ましていたのだ。
「よーし! じゃあ目標修正! アタシたちも、絶対に重賞に打って出る!」
「ええ! ネイチャだけに、良い顔はさせないわよ!」
「秋に向けて、もっともっと鍛え直さなきゃね!」
三人のウマ娘たちは、顔を見合わせ、眩しいほどの極上の笑顔で頷き合った。
――ハイペリオン。
かつては敗北を前提とした撤退戦を敷いていたその場所は、一隻の弩級戦艦の圧倒的な勝利によって、今や全員が勝利の頂を目指して牙を研ぐ、最も熱く、最も危険な、最強の艦隊へと変貌を遂げようとしていた。