ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
安楽椅子の魔術師たるトレーナーは、冷房の効いた室内でタブレット端末の画面を凝視したまま、微かに眉間を寄せていた。
画面に表示されているのは、ハイペリオン陣営に所属する現役メンバー――短距離、中距離、長距離をそれぞれ主戦場とする「三人娘」の、ここ数週間のトレーニングデータである。
心拍数の推移、血中乳酸濃度の回復速度、各関節の可動域、そしてターフを蹴る踏み込みの出力値。彼が構築した緻密な数式によって弾き出される『成長曲線』のグラフが、ここに来て極めて非論理的な、あり得ない角度の右肩上がりを示していたのだ。
(……機器のバグか? いや、センサーのキャリブレーションは昨日済ませたばかりだ。ならば、急激な過負荷による一時的な数値の跳ね上がりか。しかし、疲労度のパラメーターは完全に正常値の枠内に収まっている)
彼は無意識のうちに、デスクの上に置かれた深煎りのコーヒーカップへ手を伸ばし、一口含んだ。データは嘘をつかない。彼女たちの肉体は、明らかに一段階上のフェーズへと変異しつつある。
■
その日の午後。
グラウンドでの基礎練習を終えた三人を呼び止めたトレーナーは、クリップボードを片手に極めて冷静な口調で尋ねた。
「ここ最近の君たちのデータについてだ。基礎筋力および心肺機能の数値が、想定シミュレーションを大幅に上回る上昇を見せている。……何か、個人的に特殊なトレーニングでも追加したのかね?」
指導者の許可なく勝手なメニューを追加することは、彼の管理体制下では最大のタブーである。しかし、三人は揃って首を横に振った。
「いえ! メニューは先生が組んでくれた通り、一ミリも変えてません!」
「規定のセット数と、決められたタイム設定。それ以外は何もやってないし、何もやらせてないですよ」
代表して中距離ウマ娘が答える。事実、グラウンドでの彼女たちの動きを監視していたOGからの報告でも、指定されたメニュー以外の逸脱行為は確認されていなかった。
「では、食事の摂取タイミングか、睡眠深度の変化か……」
トレーナーがぶつぶつと仮説を立てようとした時、短距離ウマ娘が、太陽のように明るく、底抜けに純粋な笑顔で言った。
「あはは、そんな難しいことじゃないですよ、先生! ただ単に……『気合いが入って』、練習への向き合い方が変わっただけです!」
その極めて非科学的な回答に、トレーナーは目を瞬かせた。しかし、中距離ウマ娘も、長距離ウマ娘も、真剣な顔つきで深く頷いている。
「ネイチャの、あのダービーを見ちゃいましたから。アタシたちもオープン戦で満足してる場合じゃないって。……だから、今まで『こなすだけ』だった一歩一歩の踏み込みとか、重心の位置とか、呼吸のタイミングとか……そういうのを、一秒も気を抜かずに、全部本気でやるようにしたんです」
「限界まで追い込まれた時の、あと一歩。……そこで『ネイチャなら絶対に諦めない』って思うと、不思議と足が動くのよね」
それは、メニューの『量』ではなく『質』の劇的な変化だった。同じ十キロの走り込みでを行うにしても。
『漠然』と走るのと。
絶対的な目標、『ダービーウマ娘』の背中を『幻視しながら』一歩ごとにフォームを自己修正して走るのとでは。
筋肉への刺激も神経伝達の効率も全く違ってくる。
(……なるほど。プラシーボ効果やアドレナリンの分泌だけでは説明がつかない。精神的な『熱』が、物理的な肉体のリミッターを外したというわけか)
トレーナーは小さく息を吐き出し、ぽりぽりとボサボサの頭を掻いた。
「……ナイスネイチャの存在がもたらしたバフ効果か。全く、あの子のおかげで私の緻密なシミュレーションは狂いっぱなしだ」
やれやれと肩をすくめる彼に対し、三人娘は少しだけ期待を込めた眼差しを向けた。その真っ直ぐな瞳の奥にある「もっと上の景色が見たい」という渇望。かつてであれば「安全第一だ。余計な欲はかくべきではない」と一蹴していたであろうその無謀な欲求を前にして。
トレーナーは、自らのタブレットの画面に視線を落とし、ポツリと、本当に彼らしくない言葉を漏らした。
「……重賞も、狙えるか」
「「「えっ!?」」」
独り言のようにこぼれたその一言に、三人のウマ娘たちは顔を見合わせ、パーッと花が咲いたように表情を輝かせた。万年オープンクラス止まりでいいと宣言していた安楽椅子の魔術師が、自ら「重賞」という言葉を口にしたのだ。
「せ、先生っ! それってつまり……!」
身を乗り出してきた三人に、トレーナーはハッとして我に返り、慌てて咳払いを一つした。
「こほんっ。……勘違いはしないでくれたまえ。あくまで、現在の成長曲線の推移から弾き出された『可能性』の話だ。今の時点でお前たちが重賞の激流に飛び込んでも、木っ端微塵に粉砕されるのがオチだ」
彼はわざとらしく顔をしかめ、クリップボードで三人の頭を軽く小突くふりをした。
「だが……。このままの熱量で修練を積み、秋までに私の設定した過酷な閾値を完全に上回ることができたなら。……その時は、重賞挑戦のシミュレーションを組んでやらんでもない。という、ただの仮説だ」
ツンデレ気味に苦笑する指揮官の言葉に、三人の瞳にはこれまで以上の、烈火のような闘志が宿った。
「「「十分です!!」」」
三人は声を揃えて叫び、バシッと完璧な角度の敬礼をしてみせた。
「先生の要求値、絶対に超えてみせます!」
「秋にはアタシたちも、重賞の舞台で大暴れしてみせますからね!」
鼻息を荒くしてさらなる自主トレへと駆け出していく三人娘の後ろ姿を見送りながら、トレーナーは手元のストップウォッチを軽く弄んだ。
「……やれやれ。陣営全体が、完全に熱狂という名の感染症に冒されているな」
そうぼやきながらも、彼の口元には、かつての「安全な撤退戦」では決して見せることのなかった、極めて好戦的で、指揮官としての野心に満ちた深い笑みが刻まれていた。
■
一方その頃。
初夏の太陽がジリジリとターフを焦がす、トレセン学園のメイングラウンド。そこでは、ダービーの熱狂をそのまま持ち込んだかのような、息を呑むような極限の追い比べが繰り広げられていた。
「ハァッ……ハァッ……!」
「いっけぇぇぇぇっ!!」
大外を飛翔するように駆け抜ける、天才・トウカイテイオー。
最内をターフごと削り取るように突き進む、無敗の弩級戦艦・ナイスネイチャ。
そして二人の間に割って入り、獲物を狙う刺客のように鋭く牙を剥く、レオダーバン。
世代を代表する三人のウマ娘が、実戦さながらの猛烈なスプリント勝負を行っているのだ。
春先までは、やはりテイオーが頭一つ抜け出しており、ネイチャやレオダーバンがそれに必死に食らいつくという構図が多かった。しかし、青葉賞、そしてダービーという死闘を経て、彼女たちの実力は完全に「同等」の領域へと達していた。
仕掛けるタイミング、コース取りの僅かな差で、勝者が毎回入れ替わる。まさに三つ巴の乱打戦。同世代の最高峰同士が、互いの走りを間近で感じ、削り合い、その摩擦熱によってさらなる限界突破を引き起こしていく、理想的すぎる練習環境であった。
「――ゴールっ!!」
見学していた生徒のコールと共に、三つの影がほぼ同時に白線を駆け抜けた。
「はぁっ、はぁっ……! よっし……、今回はアタシの鼻差勝ち……っ!」
膝に手をつき、肩で激しく息をしながらも、ネイチャが誇らしげにVサインを掲げる。
「むーっ! 今のはボクが仕掛けるのがコンマ一秒遅かっただけだもん! 次は絶対にボクが勝つし!」
「いーや! 二人とも甘いぜ。最後の五メートルで一番伸びてたのはアタシだ。距離が長ければ完全に差し切ってたね」
テイオーが唇を尖らせ、レオダーバンが不敵に笑う。芝の上に大の字に寝転がり、ペットボトルの水を被りながら、三人は互いの健闘を称え合うようにカラカラと笑い声を上げた。
しかし。
その笑い合いの中にあっても、ナイスネイチャの瞳だけは、極めて冷静な、ある種の「戦慄」を帯びた光を宿して、隣に寝転がるテイオーの肉体を見つめていた。
(……テイオー。やっぱり、気のせいじゃない)
ネイチャは、先ほどの模擬レースの最終コーナー、そして直線でのテイオーの走りを脳内でリプレイしていた。
以前のトウカイテイオーの走りは、その天性の「バネ」による無重力のような飛翔が持ち味だった。しかしそれは裏を返せば、一歩一歩の接地時間が短く、空中にいる時間が長いため、外部からの接触や、コーナリングでの遠心力によって「重心がブレやすい」という僅かな弱点を内包していた。
ダービーの最終局面、大外を回らされたテイオーの行き脚が最後に鈍ったのも、そのブレを修正するために無意識にスタミナを消費していたからだ。
だが、今日のテイオーの走りは違った。
天性のバネの柔らかさはそのままに。コーナーを回る時の腰の沈み込みや、直線でトップスピードに乗った際の体幹のブレが、以前とは比較にならないほど『強固』になっていたのだ。
「……ねえ、テイオー」
ネイチャは、喉の渇きを水で潤しながら、努めて平坦な声で尋ねた。
「なんかさ……最近、走り方のブレ、無くなった?」
その問いかけに。テイオーは寝転がったまま、空に向けたペットボトルの底越しに太陽の光を透かして見ながら、あっけらかんと、しかし極めて恐ろしい事実を口にした。
「うん! ボクね、ダービーでネイチャに負けてから、インナーマッスルを重点的に鍛えるようにしてるんだ!」
「……えっ?」
「ネイチャのあの最終直線の走り、すっごく重たくて、絶対にブレなくて、カッコよかったでしょ? だからボクも、体幹のトレーニングを多めに取り入れたの。……カイチョー(シンボリルドルフ)にも相談して、バランスボールを使った体幹トレーニングとか、体の中の筋肉の連動を意識するメニューをめちゃくちゃやってるんだー!」
テイオーはニコッと無邪気な笑みを浮かべた。
「そしたらさ、なんだか今までよりも、地面を蹴る力がロスなく全部推進力に変わる感じがして! まだまだ完成じゃないけど、これなら秋には、もっともーっと速く走れる気がするんだ!」
「……っ」
その言葉を聞いた瞬間、初夏の強烈な日差しの中にいるというのに、ネイチャの背筋を、ゾクリと氷のような悪寒が駆け抜けた。
―――天才が、秀才の武器を取り込もうとしている。
トウカイテイオーという存在は、その天性のバネ、いわば才能だけで同世代の頂点に君臨していた怪物だ。その彼女が、ダービーで敗北という挫折を知ったことで、これまでは感覚だけで補っていた部分に『論理』と『泥臭い努力』を流し込み始めたのだ。
インナーマッスルによる強固な軸を手に入れた天才。
それは、ネイチャの絶対的な武器である「体幹」を、帝王の「バネ」に掛け合わせるという、文字通りの『完全無欠の怪物』の誕生を意味していた。
(……おっそろしい。これが、天才の、本当の底力かぁ)
少しでも油断すれば、秋には全く手の届かない次元へと置き去りにされる。本来であれば、その絶望的なまでの才能の進化を前にして、心が折れてもおかしくはない。
しかし、不思議なことに、ネイチャの胸の奥で暴れ回っていた感情は、恐怖や絶望ではなかった。
(……でも、アタシだって)
ネイチャは、自分の足元、スパイクの裏で削り取られたターフの芝を見つめた。
天才が強固な軸を手に入れようと進化している一方で、自分自身もまた、テイオーやレオダーバンという最高峰のスピードと削り合うことで、これまで眠っていた純粋な『最高速度の出力』を劇的に跳ね上げている。
事実、インナーマッスルを鍛え始めたテイオーの走りに、先ほどナイスネイチャは、完全に並んで、差し切ったのだ。
(先生が組んでくれた、あの地獄のようなルーティーン。それを一歩も違えずにこなし続ければ、天才がどれだけ進化しようと、アタシの分厚い体幹と脚力は、それに完全に追随し、打ち砕くことができる)
「……ふふっ」
ネイチャは、自然とこぼれそうになる笑みを噛み殺し、立ち上がってジャージの砂をパンパンと払い落とした。背筋を駆け抜けた悪寒は、いつの間にか、血を沸騰させるような『熱狂』へと変換されていた。
「なぁーんだ? テイオー。アタシの走り、こっそりパクってたわけ?」
「ぱ、パクってないもん! リスペクトと吸収だよ!」
「あはは! いいよ、いくらでも吸収しなよ。……でもね、秋にはアタシの走りも、今の倍は力強く、速くなってるから。せいぜい、振り落とされないように気をつけてよね!」
ネイチャは、テイオーに向かってビシッと指を突きつけ、不敵な、これ以上ないほど強気な笑みを浮かべた。
「むーっ! 言ったなー! 絶対にボクが勝ち越すんだから!」
むくれる天才と、笑い合う刺客。
同世代の頂点を巡る三人の追い比べは、限界という言葉を知らない。
まだまだ速く走れる。まだまだ、誰も見たことのない極限のスピードの向こう側へと辿り着ける。
ダービーという最高峰の祭典を終えてなお、いや、終えたからこそ。ナイスネイチャの全身は、これからの長く過酷な、そして最高に幸福な闘争の日々への『熱狂』に、完全に包み込まれていたのだった。