ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
赤提灯の明かりが夜の通りを温かく照らす頃。
ガラガラと引き戸を開けて、おねーさんは活気に満ちた居酒屋の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい! ……おっ、なんだ、ねーさんか。今日はお一人様かい?」
「女将、お疲れ様。はいこれ、うちの店からの差し入れ。新商品のメンチカツと、いつものヒレね。まかないにでもしてよ」
「おおっ、助かるねぇ! 旦那が喜ぶよ! ほら、カウンターの端っこ空いてるから座りな!」
店内は、仕事を終えたサラリーマンや地元の人々でごった返し、ジョッキがぶつかる音や笑い声、焼き鳥の煙と出汁の香りが入り混じる心地よい喧騒に包まれていた。
おねーさんは指定されたカウンターの隅に腰を下ろすと、おしぼりで手を拭きながら、女将に夕飯代わりの定食とウーロン茶を注文した。厨房の中を戦場のように駆け回りながら、手際よく料理を仕上げていくかつての戦友の背中を、おねーさんはしばらく黙って見つめていた。
やがて、客の注文の波が一段落し、女将がおねーさんの前に焼き魚と小鉢の並んだお盆をコトンと置いた。
「ほい、お待ち。……で? 今日は差し入れだけが目的じゃないだろ?」
お盆を拭きながら、女将がニヤリと笑う。その図星を突かれた言葉に、おねーさんは箸を持とうとした手を止め、周囲の喧騒に紛れさせるように、身を乗り出して小声で切り出した。
「ねー。いい加減教えてよー。私、あの祝勝会の夜、結局何したの?」
すがるような、そして恐る恐る探るような上目遣い。ネイチャに探りを入れてもはぐらかされ、グループLANEで他のOGたちに聞いても「伝説の夜だった」とスタンプで誤魔化される日々。記憶の空白というものは、時間が経てば経つほど、得体の知れない恐怖となっておねーさんの心を蝕んでいた。
その問いに。女将は手を拭いていたタオルを肩にかけ、先ほどまでの威勢の良さをスッと引っ込め、ひどく困ったような、それでいてどこか慈しむような、複雑な表情を浮かべた。
「……流石に言えないよ、ねーさん」
「ええっ!? なんでよ! アタシ自身のことでしょ!?」
「言えないもんは言えないの。アタシと編集長の胸の内にだけ、そっとしまっておくって決めたんだから」
女将のその頑なな態度は、単なるからかいや意地悪ではない。大人の女としての、ある種の『情け』と『気遣い』が入り混じった本気の拒絶だった。
だからこそ、おねーさんの背筋にツーッと冷たい汗が伝う。
「そーんなに、やばかった……? ねぇ、お願い! せめて、どれくらいのやばいレベルだったかだけでも教えて!」
両手を合わせて必死に頼み込むおねーさんに、女将はふうっと深いため息をつき、ゆっくりと首を縦に振った。
「まぁ、やばいかやばくないかで言えば……超弩級にやばかったね」
「うそぉ……」
「加えて言うなら」
女将は、カウンターに肘をつき、声をさらに一段階落として苦笑した。
「あれは、先生にも絶対に見せられないね」
冗談めかしてはいるが、女将の目は真剣だった。
才能の壁に絶望し、夢を諦めきれないまま大人になってしまったが故の、醜くも純粋な嫉妬と自己嫌悪の爆発。あの理詰めで防衛線を張る不器用な魔術師が、一番の理解者であるはずのおねーさんから発せられたあの『魂の絶唱』を真正面から浴びれば、己の指導方針そのものを根底から呪いかねない。女将はそう直感していたのだ。
「え……? アタシ、そんなになんかやばいこと……先生のことまで巻き込むようなこと、やらかしたんだ……」
「ま、1番ヤバかった時は私と編集長しか見てなかったのが幸いさね」
女将の言葉の端々から漂う、尋常ではない事態の深刻さに、おねーさんは完全に血の気を引かせた。自分が一体どんな怪物を酒の勢いで解き放ってしまったのか、想像するのすら恐ろしい。
「……お酒、もう、ほどほどにしとこ……」
箸を握りしめたまま、おねーさんはシュンと肩を落とし、消え入るような声で小さく呟いた。その、すっかり意気消沈してしまった様子が、あまりにも普段の快活な彼女とかけ離れていて。女将はたまらず、プッと吹き出した。
「あははっ! ねーさんのそんなしおらしい顔、現役の時以来じゃないか?」
「笑い事じゃないよぉ……」
おねーさんが恨めしそうに唇を尖らせた、その時だった。
トンッ、と。
おねーさんの目の前に、氷が敷き詰められ、牡丹海老、中トロ、カンパチ、真鯛といった、この店で出せる最高級の鮮魚たちが、まるで芸術品のように美しく盛り付けられた特上の『刺し盛り』が置かれたのだ。
「え?」
注文した覚えのない、しかも明らかに一人で食べるには豪華すぎる一品。
目を丸くするおねーさんに対し、女将はカウンター越しに真っ直ぐに向き直り、タオルで手を拭きながら、ひどく穏やかな、温かい笑みを向けた。
「我らがハイペリオンの、誇り高き1番艦」
それは、からかいでも同情でもない。かつて同じように夢破れ、同じようにあの不器用な男のロジックに救われた陣営の一人としての、心からの敬意を込めた呼びかけだった。
「先生の突拍子もない防衛戦の理念を、一番最初に受け入れて。自分が盾になって、アタシたち後輩の居場所を作ってくれた。……ねーさんが、誰よりも笑顔でその泥臭い兵站を支えてきてくれたから。私も今、こうして自分の店を持って、自分の包丁でメシを食えて旦那も持ててる。みんなが、怪我もなく、笑顔で生きていられるんだ」
女将の言葉に、周囲の喧騒が嘘のように遠のいていく。
大舞台のスポットライトを浴びることはなかった。歴史に名を刻むこともなかった。けれど、彼女が揚げ続けた油の温度と、底抜けの明るさがなければ、この陣営はとっくの昔に瓦解していたはずなのだ。
「あの夜のあんたの姿は……アタシたち全員の、本当の気持ちの代弁だったと思ってる。だから、気に病むことなんて一つもない」
女将は、刺し盛りをスッと彼女の方へ押し出し、極上の笑顔を弾けさせた。
「これは、私からの感謝の印さ。今日くらい、良い思いしな。……ダービーウマ娘を育て上げた、世界一の先輩なんだから」
その言葉に込められた、あまりにも深く、真っ直ぐな愛情と肯定。失態をイジられると思っていたおねーさんは、一瞬ポカンとした後、みるみるうちに顔を真っ赤に染め上げた。
「……もー。なによ、急に。ズルいよ、女将」
照れ隠しのように前髪をいじりながら、おねーさんは恥ずかしそうに、けれど最高に幸せそうな顔ではにかんだ。
大歓声もない、トロフィーもない、小さな居酒屋のカウンターの隅っこ。
しかしそこに置かれた鮮やかな刺身の盛り合わせは、彼女がこれまで不器用に、泥臭く積み上げてきた人生がもたらした、どんな金メダルよりも価値のある美しい勲章だった。
■
目の前に置かれた、宝石箱のように豪奢な刺身の盛り合わせ。
おねーさんは、その中から角の立った艶やかな中トロを一切れ箸でつまみ、そっと口へと運んだ。舌の上で上質な脂がふわりととろけ、濃厚な旨みと甘みが口いっぱいに広がっていく。それは間違いなく、この赤提灯の居酒屋が供することのできる最高級の味覚であったが、今の彼女にとって、その美味しさは単なる魚の鮮度や脂の乗りだけによるものではなかった。
女将が込めてくれた「感謝」という名のスパイス。自分が不器用に、泥臭く積み上げてきた日々が、決して無駄なものではなかったのだという強烈な肯定感。それが、冷たい刺身をこの上なく温かく、そして深く心に沁み入る極上のご馳走へと変えていた。
「……美味しい。すっごく、美味しいよ、女将」
「へへっ、そりゃあウチの看板背負って立つ特上のネタだからね。味わって食べな」
厨房の中で忙しく立ち働く女将へ向け、おねーさんは涙を堪えるように微笑んだ。
先ほどまでの自己嫌悪はすっかりなりを潜め、彼女の胸の内は、ただただ静かな充足感と、陣営への愛おしさで満たされていた。
そんな、心温まる二人のやり取りの最中。ガララッ、と。活気に満ちた居酒屋の引き戸が、小気味良い音を立てて開かれた。
「いらっしゃい! ……おっ」
新規の客へ向けて威勢の良い声を張り上げようとした女将が、その顔を見てパッと表情を明るくした。
「いらっしゃい、お久しぶりだね。今日はまた、随分と遅いお着きで」
「ええ、こんばんは。……ダービー後の各所への対応や書類整理など、狂騒のような一週間でしたが、ようやく業務がひと段落したもので。冷たいものが飲みたくて、つい寄らせていただきました」
カツカツ、と落ち着いたヒールの音を響かせて店内へと足を踏み入れたのは、トレセン学園で理事長秘書を務める、駿川たづなであった。
いつものカチッとした緑色の制服と帽子は身につけておらず、今日は上品なブラウスにスラックスという、仕事終わりの洗練された大人の私服姿である。とはいえ、その背筋の伸びた美しい所作と、柔和でありながらも隙のない微笑みは、誰が見ても学園の要職にある「たづなさん」そのものだった。
「お疲れ様。本当に、今年のダービーはとんでもない熱気でしたからねぇ。ほら、カウンターの端、空いてますよ」
「ありがとうございます。では、とりあえず生ビールを一つお願いできますか」
たづなは、女将に案内されるがままに、おねーさんが座る席のすぐ隣、カウンターの端の席へと優雅に腰を下ろした。女将が手際よくサーバーから注いだ、きめ細かい泡の乗った冷たい生ビールがコトンと置かれる。たづなはそれを受け取ると、「ふぅ」と一つ、学園の重責から解放された大人の女性としての小さな安堵の息を吐き、ジョッキに口をつけて喉を鳴らした。
「……はぁ。沁みますね」
「お疲れのところ悪いね。今日もうちの店、ちょっと騒がしいけど」
「いえ、この活気が心地よいのですよ。トレセン学園の静かな執務室とは違う、生きた熱量と言いますか」
たづなは朗らかに笑い、おしぼりで手を拭きながら、はたと隣の席へと視線を向けた。そこには、特上の刺し盛りを前にして、少しだけ緊張した面持ちで姿勢を正している、おねーさんが座っていた。
「あら」
たづなの目が、少しだけ驚いたように見開かれ、やがて優しく細められた。
「これは奇遇ですね。ハイペリオンの……揚げ物屋の『一番艦』さん」
「あっ、ど、どうも! ご無沙汰しております、たづなさん! いつもウチの先生と後輩たちが大変お世話になっております!」
学園のトップとも言える存在からの急な声かけに、おねーさんは慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
彼女自身、学園に在籍していた頃からたづなには世話になっていたし、卒業後も学園へ差し入れを持っていく際などに顔を合わせることはあるが、こうして仕事終わりの居酒屋で隣同士の席になるなど、かつてないイレギュラーな事態である。
「そんなに畏まらなくて結構ですよ。今日は私もただの酔客の一人ですから」
たづなはクスリと笑い、ジョッキを片手に、極めて真摯で、心のこもった声でおねーさんへと語りかけた。
「改めまして。ナイスネイチャさんの日本ダービー制覇、本当におめでとうございます。ハイペリオン陣営の皆様の長年の献身と、あの子の血の滲むような努力が結実した、本当に、本当に素晴らしいレースでした」
「……っ、ありがとうございます!」
学園の中枢にあって、数多のウマ娘たちの才能の開花も、そして残酷な挫折も、そのすべてを見届けてきた秘書からの直接の賛辞。おねーさんは、嬉しさと同時に、どこか信じられないような不思議な感覚を抱きながら、照れくさそうにはにかんだ。
「いやぁ……正直なところ、いまだに夢みたいなんです。まさか、ウチみたいな『怪我しないこと』だけが取り柄の、オープン戦が定位置の弱小陣営から、ダービーウマ娘が出るなんて……私自身、全く思ってなかったですから」
それは、おねーさんの偽らざる本音だった。
才能の壁にぶつかり、撤退戦を敷くしかなかった敗者たちの集まり。そんな自分たちが紡いだ防衛線の先から、世代の頂点を極める絶対者が誕生するだなんて、どんなお伽噺よりも現実離れしている。
自分を卑下するわけではないが、「まさか」という言葉が、陣営の誰もが抱く最も正確な感情だったのだ。
しかし。
そのおねーさんの謙遜を聞いて、たづなはジョッキを静かに置き、極めて穏やかな、しかし確信に満ちた瞳で、彼女を見つめ返した。
「確かに、世間やメディアにとっては、青天の霹靂とも言える驚きだったでしょう。無敗の天才・トウカイテイオーさんを、地道なデータ管理で鍛え上げられたナイスネイチャさんが真っ向から打ち破ったのですから」
たづなの視線が、厨房で腕を振るう女将の背中と、そして目の前で照れくさそうにしているおねーさんの顔を、交互に捉える。
「ですが……私は、いずれこうなるのではないかと、心のどこかでずっと思っていましたよ」
「えっ?」
「あのトレーナーさんの手腕は、本物ですから」
予想外の言葉に目を丸くするおねーさんへ向け、たづなは学園の秘書としての、冷徹なまでの観察眼と深い洞察を感じさせる声で語り続けた。
「彼の掲げる『一生の勝利』という理念。……レースでの着順よりも、六十年の人生を五体満足で生き抜くことを最優先とするその防衛線は、トレセン学園という勝利至上主義の過酷な競争社会において、ある意味ではひどく異端であり、周囲からは『敗北主義』と揶揄されることも少なくありませんでした」
「……はい」
「けれど、私たちは知っています。極限のスピードを追い求めるあまり、無理な力に耐えきれずに足を壊し、ターフを去っていくウマ娘たちの悲劇を。才能があるからこそ、その才能に肉体が追いつかず、絶望のままに学園を後にしていく無数の才能の残骸を」
たづなの表情に、一瞬だけ、過去の無数の悲しみを見つめてきた者特有の、深く暗い影が落ちる。しかし、それはすぐに、眼前の彼女たちを称える温かい光へと変わった。
「その狂気にも似た速度競争の中で、あのトレーナーさんだけは、決してウマ娘を壊さなかった。緻密なデータと冷徹なロジックを用いて、才能の有無に関わらず、所属するすべての教え子を『健康なまま、次の人生のステージへ送り出す』という、極めて困難な偉業を、ずっと、たった一人で成し遂げ続けてきたのです」
それは、学園側から見た、安楽椅子の魔術師の真の評価であった。
重賞を勝つトレーナーはいくらでもいる。しかし、所属ウマ娘の『重傷発生率ゼロ』を何年にもわたって継続し、引退後のセカンドキャリアまでを見据えた指導を徹底できる者は、あの不器用な男をおいて他に存在しなかった。
「確固たる安全圏さえ構築できれば。そして、その極限のデータ管理という過酷な要求に耐えうるだけの『規格外の器』を持ったウマ娘が、ただの一人でもあの陣営に現れさえすれば。……いつか必ず、歴史を変えるような大輪の花が咲く。私は、そう信じていました」
たづなの言葉は、静かでありながら、圧倒的な説得力を持っていた。
ネイチャのダービー制覇は、決してフロックなどではない。トレーナーが長年かけて築き上げてきた完璧な設計図と、それを出力できる少女の出会いが生み出した、必然の化学反応だったのだと。
「でも、たづなさん、私たちはただ、先生の言う通りに……」
「いいえ」
謙遜しようとしたおねーさんの言葉を、たづなは柔らかく、しかしはっきりと遮った。
「あのトレーナーさんのデータやロジックがどれほど完璧であろうと。それを支える『血肉の通った土壌』がなければ、ナイスネイチャさんのあの力強い走りは決して生まれなかったはずです」
たづなは、カウンターの上に置かれた、おねーさんの食べかけの刺し盛りと定食を優しく見やった。
「あなたを見れば、それがよくわかります」
「私、ですか……?」
「ええ」
たづなは、生ビールを一口飲み、これ以上ないほど優しい、慈愛に満ちた笑顔を咲かせた。
「トレセン学園での競争に敗れ、それでも誰一人として壊れることなく、引退後もこうして笑顔で、健康で、充実した人生を送っている。……あなたや、そこの女将さんのような『幸せな大人』の姿が常に身近にあったからこそ。ナイスネイチャさんは、怪我や失敗への恐怖に苛まれることなく、あの大歓声の中で、完全に安心して自らの力を限界まで引き出すことができたのだと思いますよ」
――あなたたち自身が、ナイスネイチャの勝利の最大の要因(土壌)なのだと。
学園のすべてを知る秘書から告げられた、そのあまりにも真っ直ぐで、温かい肯定の言葉。それは、先ほど女将から刺し盛りをもらった時に感じた温かさとはまた違う、自分たちの生きてきた道筋そのものを、社会的にも、歴史的にも完全に証明されたような、途方もない救済であった。
「……っ」
おねーさんは、言葉に詰まった。
目頭が熱くなり、鼻の奥がツンとする。これ以上喋れば、また醜い嗚咽を漏らしてしまいそうだった。
才能がなくて、大舞台には立てなくて、不甲斐ない自分だけれど。
それでも、自分が揚げ続けてきたコロッケと、無理して作ってきた底抜けの明るさが、あのダービーウマ娘の足元を支える『確かな土台』になっていたのだと、そう言ってくれる人がいる。
「……やだなぁ。たづなさんまで、なんで、そんな嬉しいこと言ってくれちゃうんですか」
おねーさんは、涙を誤魔化すように手で顔をパタパタと仰ぎながら、限界まで赤くなった顔を伏せた。
「アタシなんて、ただの揚げ物屋の、ただの騒がしいお姉さんですよぉ……。そんな、立派なもんじゃないです」
「ふふっ。その『ただの騒がしいお姉さん』の存在が、どれほど陣営の救いになっていたか。あの先生ご自身が、一番よくわかっていらっしゃると思いますよ」
たづなはクスクスと笑い、自らのジョッキを、おねーさんのウーロン茶のグラスへそっと傾けた。
「これからも、どうかあの陣営を……あの不器用なトレーナーさんと、素晴らしいウマ娘たちを、その温かい笑顔で支え続けてあげてくださいね」
「……はいっ。もちろんです!」
おねーさんは、照れくささを吹き飛ばすような、太陽のような極上の笑顔を弾けさせ、自らのグラスをカチンと軽やかに鳴らした。
ハイペリオン陣営の『一番艦』は、かつてないほどの清々しい心持ちで、再び艶やかな中トロへと箸を伸ばすのであった。
■
女将やたづなからの思いがけない肯定の言葉をもらい、心が晴れやかになった……はずだった。
しかし。その数日後、夕方の揚げ物ラッシュが始まる前。
自店舗である揚げ物屋の奥の事務スペースで、一人パイプ椅子に座って経理の計算をしていると、どうにもあの夜の『空白の記憶』が再び脳裏をよぎってしまう。
(女将が『先生には絶対見せられない』って言ってた、超弩級にヤバいこと……)
パチパチと電卓を叩く手を止め、おねーさんは小さくため息をついた。
記憶がないとはいえ、自分の性格と、胸の奥底にずっと燻っている感情を思えば、おのずと想像はついてしまう。
自分はきっと、あの宴会の場で、これまで誰にも言わずに隠してきた、ドロドロとした暗い感情――ネイチャへの嫉妬と、私が走りたかったという後悔を、酒の勢いに任せてぶちまけてしまったに違いないのだ。
ネイチャのことは心の底から大好きだし、彼女の勝利はこの上なく嬉しかった。それは絶対に嘘じゃない。
けれど、嫉妬してしまう自分も確かに存在している。その後ろめたさが、ひょっこりと顔を出し、経理の数字を追う彼女の心を再びチクリと刺した。
「お疲れさん。いつも細かい数字の作業、悪いな」
ふいに、事務スペースの引き戸が開き、油の染み付いたエプロン姿の店長が顔を出した。彼のお盆には、湯気を立てる熱い緑茶の入った湯呑みが二つ乗せられている。
「あ、店長。いえいえ、これくらい私の仕事ですから。お茶、ありがとうございます」
おねーさんは慌てて居住まいを正し、差し出された湯呑みを両手で受け取った。ズズッ、と熱いお茶を啜ると、香ばしい茶葉の香りと共に、ホッとするような温かさが胃の腑に落ちていく。
隣の丸椅子にドカッと腰を下ろし、「ふぅ」と一息つく気のいい初老の店長。
その、いつもと変わらない横顔を見ているうちに。おねーさんは、自分の中で持て余しているこの厄介な感情について、ふと、人生の先輩である彼に尋ねてみたくなった。
「……あの、店長」
「ん? なんだ?」
湯呑みを持ったまま、おねーさんは少しだけ視線を泳がせ、言葉を探すようにぽつりぽつりと口を開いた。
「なんというか、言葉にし辛いんですけど……。誰かのために、すっごく嬉しい気持ちと。その人のことが羨ましくて、妬んでしまう気持ち。……そういう、真逆の感情が自分の中に混在してる時って、どうやって折り合いをつければいいんですかねぇ……?」
抽象的で、答えのない問い。だが、店長はそれを茶化すこともなく、少しだけ不思議そうな顔でおねーさんを見た。
「なんだ、どうした? 何か悩み事か?」
「あ、ああ、いえ! 最近ちょっと、色々と考える機会がありまして……あはは」
誤魔化すように頭を掻くおねーさんに、店長は「ふむ」と短く唸り、もう一度ズズッとお茶を啜った。
「まぁ、それが『人生』ってもんだろうな」
「……え?」
店長は、湯呑みを机に置き、まるで今日揚げるコロッケの温度でも語るかのように、極めて平坦で、しかし深みのある声で告げた。
「生きてりゃあ、矛盾なんて普通よ。心の中に真逆の気持ちが同居してるなんて、当たり前のことだ。白か黒かで割り切れるほど、世の中も人の心も、ウマ娘の心も単純にはできてねぇからな」
そして、店長はニッと笑い、自らの胸を親指で指差した。
「あれだ。偉そうなこと言ってる俺なんかも、実はおまえさんに心の底から感謝しながら……同時に、すげぇ嫉妬してるぜ?」
「えっ!?」
予想外すぎる言葉に、おねーさんは目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。雇い主である店長が、雇われの身である自分に嫉妬している? そんな馬鹿な話があるだろうか、と。
「だってよ」
店長は、机の上に広げられた経理の帳簿や、発注書が完璧に整理されたファイル群を顎でしゃくった。
「おまえさん、頭も回転も速くて、すんげぇ仕事できるだろ? 売上の管理から、仕入れの原価計算、ウチの資産の運用まで、全部一人で完璧にこなしてくれてる。……俺には、そんな器用な真似は逆立ちしたってできねぇよ。俺はただ、昔からやってる『揚げ物を揚げる』ってことしか脳がない、不器用な親父だからな」
自嘲気味に笑い、言い切る店長。その言葉に、おねーさんは慌てて身を乗り出し、両手をブンブンと振って全力で否定した。
「い、いやいやいやっ! ちょっと待ってください、何言ってんですか店長! 『揚げるしか』なんて、そんなわけないじゃないですか!」
おねーさんは、本気で怒ったような、熱を帯びた声で反論する。
「店長の揚げ物、すっごいんですよ!? あの絶妙な油の温度管理も、衣のサクサク感も、肉の旨みを完全に閉じ込めるタイミングも……まさに神業の職人芸です! 毎日隣で見させてもらってますけど、まだまだ私なんか、店長の足元にも及びませんよ!?」
「――――ほらな。そういうことだ」
必死に自分を称賛するおねーさんの言葉を、店長は嬉しそうに、そして極めて真っ直ぐな瞳で遮った。
「……え?」
「そんなもんなんだよ、人生ってのは」
店長は、ポンと自分自身の膝を叩いた。
「他人から見りゃ、誰もが何かしらの『天才』に見えるもんさ。俺から見れば、おまえさんは事務処理と気配りの天才だ。おまえさんから見れば、俺は揚げ物の天才ってことになってるらしい。……でもな、自分自身のことはどうしても減点法で見ちまう。隣の芝生は、どうしたって青く見えるようにできてんだ」
店長の言葉が、おねーさんの胸の奥に、スッと、静かな波紋を広げていく。
「誰かの才能を羨ましいと思うのも、妬ましいと思うのも、自分が一生懸命に生きてる証拠だ。……だからな、折り合いなんかつける必要なんかねぇんだよ」
店長は立ち上がり、エプロンの紐をキュッと結び直した。そして、暗い感情に縛られていた『一番艦』へ向け、これ以上ないほど力強く、温かいエールを送った。
「嬉しい気持ちも、妬む気持ちも。どっちも自分の心から出た、嘘偽りのねぇ本物なんだ。無理にどっちかを消そうとしたり、誤魔化したりしなくていい。……両方大事に抱えたまま、まっすぐ前向いて生きりゃいいんだよ」
――両方持ったまま、まっすぐ生きればいい。
その言葉は、たづなや女将の肯定とはまた違う、彼女の中の『醜い感情』そのものを丸ごと許し、前へと進めるための言葉だった。
「……っ」
おねーさんの瞳から、ポロリと、一筋の涙がこぼれ落ちた。
ターフを駆け抜けたかったという嫉妬の念。
後輩の勝利への純粋な歓喜。
その矛盾した二つの感情は、どちらも「ウマ娘として、誰よりも真剣に生きてきた」からこそ生まれた、自分の大切な一部なのだ。折り合いなどつけなくていい。矛盾したまま、この両手で抱えていけばいいのだと。
「……あはは。店長には、敵わないなぁ」
おねーさんは、袖口で涙を乱暴に拭うと、先ほどまでのどんよりとした空気を完全に吹き飛ばすような、太陽のような満面の笑みを弾けさせた。
「ありがとうございます、店長。なんだか、すっごくスッキリしました!」
「おう。ウチの看板ウマ娘が暗い顔してちゃ、コロッケの味まで落ちちまうからな! さぁ、休憩終わりだ。夕方のピークが来るぞ!」
「はいっ! 私も揚げ場、手伝います!」
勢いよく立ち上がり、おねーさんはエプロンの埃をパンパンと払った。
■
心の中の矛盾は、もう恐れるものではない。
彼女は、己の中に宿る嫉妬も喜びもすべてひっくるめて自らの活力へと変え、いつもの威勢の良い、ハイペリオン陣営が誇る最強で最高の『一番艦』として。
香ばしい油の匂いが満ちる戦場へと、元気よく飛び出していくのであった。
もう少しだけ続くんじゃ。