ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
夜のトレセン学園。大半の生徒が寮に戻り、静まり返った敷地内において、一つだけ明かりが漏れている窓があった。
あのこぢんまりとしたトレーナー室だ。
ネイチャは扉の前に立つと、きゅっと唇を結び、一つ大きく深呼吸をした。揚げ物屋のおっさんに背中を叩かれた勢いのまま、彼女は単身、決戦の地へと乗り込んだ。
■
「……こんばんは」
コンコン、というノックの直後に扉を開けると、そこにはいつもと変わらない光景があった。パーソナルチェアに深く腰掛け、デスクのスタンドライトの明かりを頼りに分厚い歴史書を読み耽っていたトレーナーが、不意の来客に目をパチクリとさせている。
「おや、どうしたんだいこんな時間に」
彼は本にしおりを挟み、机の上の時計へ視線を向けた。
「門限はとうに過ぎているはずだが? ウマ娘にとって睡眠不足は兵站の破綻に直結する。感心しないな」
静かな咎め言葉に対し、ネイチャは真っ直ぐに彼の目を見返して答えた。
「寮長に、特別に許可してもらってます。どうしても今夜、先生と話がしたくて」
「…………」
――特別に許可をもらっている。
その言葉を聞いた瞬間、トレーナーの表情がピクリと、一瞬だけ不自然に固まった。
(わざわざ寮長に頭を下げてまで、夜間に単身で乗り込んでくるウマ娘。……これは間違いなく、私の平穏な配当生活を脅かす『極めて厄介な面倒ごと』だ)
彼の脳内に蓄積された膨大な歴史的経験則と生存本能が、激しい警鐘を鳴らしたに違いない。しかし、彼はすぐにいつもの飄々とした、まるで何も動じていないかのような学者の仮面を被り直した。
「……そうか。まぁ、入り給え」
彼は立ち上がると、やれやれと小さく息を吐きながら、部屋の片隅にある小さなソファーを手で示した。
「立ち話もなんだ、落ち着いて座るといい。まずは珈琲を一杯淹れよう。君は夜だから……カフェインレスのデカフェにしておこうか。少し待っていなさい」
動揺を悟られまいとするように、彼は背を向け、手慣れた動作でミルに豆をセットし始めた。豆を挽くガリガリという低い音が、静かな部屋に響き渡る。
それは明らかに、彼がこれから訪れるであろう「面倒な要求」に対する防衛線を構築するための、時間稼ぎのルーティーンだった。ネイチャは勧められたソファーにちょこんと座りながら、その少しだけぎこちない背中を見つめ、自分の胸の内でトクトクと鳴る心臓の音を必死に抑え込んでいた。
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コトリ、と。
ソーサーごとデカフェのカップがテーブルに置かれた。芳醇な香りがふわりと立ち上るが、部屋の空気はピンと張り詰めたままだ。
トレーナーは自分の分のブラックコーヒーを手に取り、ソファーの対面に腰を下ろした。
「で、ナイスネイチャ。おおよそ、君の言いたいことは理解している。その上でハッキリと言わせてもらうが」
そして、一口だけ喉を潤すと、静かに、しかし決定的な拒絶の意思を込めて口を開いた。
「お断りす」
「『断る』、んですよね」
彼の言葉を遮るように、ネイチャは静かに告げた。その言葉に、トレーナーは目を丸くして言葉を詰まらせる。
「……わかっているのなら、なぜ今、君はここに来ているんだい?」
ネイチャは膝の上で両手をぎゅっと握り締め、息を深く吸い込んだ。カフェインレスの穏やかな香りが肺を満たす。そして、真っ直ぐに、男の黒い瞳を見つめ返した。
「あなたと、担当契約を結びたいからです」
その直球の言葉に、トレーナーは「やれやれ」と本日何度目かわからないため息を吐き、ガシガシと寝癖のついた頭を掻いた。
「だが、私は断る以外の選択肢を持っていない。さっきも言ったはずだ。君は間違いなく重賞ウマ娘、ひいては有馬や宝塚といったグランプリですら優勝を競えるウマ娘だと、私はそう思っているんでね」
「そこを曲げて、お願いしたいと思っています」
一歩も引かないネイチャに対し、彼は呆れたように肩をすくめた。
「……君ね、無茶を言いすぎている自覚はあるのかい? 私は断る。君は契約したい。互いの目的が完全に相反している以上、議論はどこまでいっても平行線だ。
歴史が証明している通り、外交交渉における平行線の行き着く先は、戦争という名の断絶にしかならないんだよ」
理屈と歴史を盾にした、冷徹なまでの突き放し。だが、ネイチャの瞳から光は消えなかった。かつて「私なんて」と自嘲していた彼女の面影は、そこには微塵もない。
「……いいえ。トレーナーさんなら、私の手を取ってくれると信じています」
「なぜだね? 私の生存第一主義という国是は、そう簡単に覆るものではないよ」
「だって……この二週間、ずっと私を見てくれましたから」
ネイチャの声は、静かだが確かな熱を帯びていた。
「現場に顔を出さなくたってわかります。アタシの筋肉の付き方、走りの癖、足りない体幹。全部完璧に見抜いて、あの坂路の逆走メニューみたいに、的確にトレーニングを組んでいただけた。アタシの中では、もう……トレーナーは、あなた以外にいないと確信しているんです」
ただの仮契約の生徒に、あれほど緻密で、怪我のリスクを完全に排除した上で実力を底上げするメニューを組める人間が他にいるだろうか。言葉では「手に余る」「面倒だ」と言いながらも、彼の紡ぎ出す戦術と兵站管理は、どこまでも教え子に対する深い観察と愛情に満ちていた。
ネイチャの確信に満ちた言葉が、静かなトレーナー室に響き渡る。
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トレーナーは深くため息をつき、冷めかけたブラックコーヒーを一口含んだ。喉を通る苦味が、今の彼の心境を正確に代弁していた。
「……ナイスネイチャ。君は少し、言葉の定義を混同しているようだ」
カップを置き、彼はいつものように淡々とした、しかし先ほどよりも一段階温度の低い声で紡ぎ始めた。
「私がこの二週間、君のデータを取り、適切な訓練を行ったのは、あくまで『仮契約』という局地的な同盟関係において、指導者としての最低限の義務を果たしたに過ぎない。安全な後方陣地から地図上に作戦線を引く作業を、運命だの確信だのというロマンチックな言葉で装飾するのは、戦史において大抵の場合、致命的な破滅への第一歩となる」
「破滅、ですか」
「そうだ。いいかい、契約という名の『条約』は、双方にメリットがあって初めて成立する。私の最大の目的は、自身の平穏な生活と、ウマ娘の無傷でのキャリア完遂だ。そのために、オープンやリステッドという『安全圏』を主戦場としている」
彼は指を組み、ネイチャを真っ直ぐに見据えた。
「だが、君の実力はすでにその安全圏のキャパシティを超えようとしている。重賞、ひいてはG1という舞台は、観客の熱狂と莫大な金が渦巻く巨大な祭壇だ。そこでは、ウマ娘もトレーナーも、極限の消耗を強いられる。君は私に『一緒にその祭壇へ登ってくれ』と要求しているんだ。私の戦略的見地から言えば、それは利益のない防衛線を無駄に拡大する、愚の骨頂でしかない」
流れるような、それでいて一切の隙を与えない理詰めの防壁。普通なら、これだけ言われれば心が折れるか、腹を立てて部屋を出ていくかのどちらかだろう。しかし、ネイチャの瞳は揺らがなかった。
「……なら、アタシが先生の戦略に合わせます」
「何?」
「重賞でも、G1でも。先生が『ここから先はリスクが高すぎる』と判断するなら、そこで足を止めます。勝てる戦場だけで勝つというなら、それに従います。だから……」
「――君ね」
珍しく、トレーナーが相手の言葉を遮った。その声には、普段の飄々とした響きにはない、微かな、しかし確かな刺々しさがあった。
「群衆の熱狂というものを甘く見すぎている。いざ大舞台のターフに立ち、ライバルたちの息遣いを感じ、数万の観客の地鳴りのような歓声を浴びた時。それでも君は『トレーナーが定めた安全なペース』を絶対に守り切れると、そう断言できるのかい?」
「それは……」
「出来るわけがない。ウマ娘の闘争本能は、理屈ではないからだ。君は間違いなく、私の指示を無視してでも限界を超えようとする。自身の肉体という国家予算を借金してでも、目の前の勝利をもぎ取ろうとするはずだ」
彼は静かに首を横に振った。
「私は、そんな暴走の責任を持てるほど立派な人間ではないし、教え子が目の前で壊れていく可能性を許容できるほど冷酷でもない。……強大すぎる武力は、時に持ち主の身を滅ぼす。私にとって、重賞クラスのウマ娘を抱えるというのは、そういうことなんだよ」
理屈の奥底に隠された、彼の臆病さ。あるいは、強すぎる責任感。ネイチャはそれを感じ取りながらも、決して引かなかった。
「……先生は、アタシの『未来の暴走』を勝手に予測して、逃げているだけです」
「未来予測は参謀の必須スキルだと言ったはずだがね」
「アタシのことは、私が一番よくわかってます!」
ネイチャはソファーから立ち上がり、身を乗り出した。
「アタシは、テイオーみたいにキラキラした絶対的な天才じゃない。でも、自分が凡人だからこそ、自分の限界も、壊れやすさも、誰よりも理解しているつもりです。……先生の指示なら、アタシは絶対に守ります。アタシの未来の可能性を、先生の『計算』だけで勝手に終わらせないでください!」
張り詰めた声が、こぢんまりとした部屋に響き渡る。二人の視線が交錯し、火花を散らす。のらりくらりと躱そうとする知の防壁と、それを真っ向から打ち砕こうとする愚直なまでの感情の槍。
「……」
「……」
長い、長い沈黙が落ちた。トレーナーは深く息を吸い込み、そして、ゆっくりと吐き出した。
「……どうやら、今日のところは外交交渉の余地はないようだね」
彼はカップに残った冷たいコーヒーを飲み干し、静かに目を閉じた。
「互いの前提がこれほど乖離している以上、これ以上の議論はただの意地比べだ。君の熱意は理解したが、私の結論は変わらない。……夜も遅い。今日はもう、寮に帰りなさい。頭を冷やす時間が必要だ」
「……っ」
ネイチャは何かを言い返そうと口を開いたが、彼がすでに『これ以上の対話は無意味である』という壁を作ってしまったことを悟り、きゅっと唇を噛み締めた。
「……失礼します」
彼女は深く一礼し、踵を返して部屋を出て行った。扉が閉まる重い音が、深夜の廊下に響く。
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一人残されたトレーナー室で、彼は自分の髪をガシガシと乱暴に掻きむしった。
「……やれやれ。これだから、熱狂……ロマンに取り憑かれた人間を相手にするのは骨が折れる」
独りごちた彼の声は、いつものような余裕に満ちたものではなかった。完全な平行線。まだ、どちらも歩み寄ってはいない。しかし、彼の構築した完璧な「生存戦略」という名の城壁に、ごく僅かながら、しかし確実にヒビが入ったことだけは間違いなかった。