ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
新たな風、続く物語
―――季節は巡り、熱狂のダービーから幾つもの死闘を経て。
ハイペリオンが誇る弩級戦艦は、大海原の荒波の中であっても、決して沈むことは無かった。
ナイスネイチャが『シニア級』へと足を踏み入れた頃、ハイペリオン陣営はトレセン学園において、ある種の確固たる『伝説』と化していた。
進化を止めない帝王・トウカイテイオー、研ぎ澄まされた刺客・レオダーバン、さらには長距離の絶対王者たる名優・メジロマックイーン。レース史に燦然と輝く同世代、あるいは上の世代の極限の怪物たちを相手に、ナイスネイチャは一歩も引くことなく、王道の中長距離戦線で堂々たる名勝負を繰り広げ続けていた。
天才たちと真っ向から殴り合い、時に破れ、時に執念でねじ伏せる。その強固なシャーシは一切の故障を許さず、彼女は陣営の最高傑作として、ターフの最前線に君臨し続けていたのである。
そして、その最強の重装歩兵が放つ強烈な『熱狂』は、陣営の現役メンバーたちをも完全に変異させていた。
「アタシたちも続くぞ」と気炎を吐いていた短距離、中距離、長距離の三人娘たち。彼女たちは安楽椅子の魔術師が設定した過酷な閾値を見事に突破し、見事、それぞれが主戦場とする『重賞』のタイトルを奪取することに成功したのだ。
「ハイペリオン陣営のウマ娘は、絶対に壊れない。その上で、圧倒的に強い」
かつては「敗北主義者の集まり」と揶揄されたこともあった防衛線の砦は、今や、すべてのウマ娘が憧れる羨望の的となっていた。
■
春。新入生や移籍希望者が行き交う、新たな始まりの季節。
ハイペリオン陣営のトレーナー室の扉は、連日、入部を希望するウマ娘たちのノックの音で鳴り止むことがなかった。
「……ふむ。君の骨格と筋肉の弾力なら、私の管理下において、オープン戦で安定して勝ち星を挙げることは十分に可能だ。歓迎しよう」
グラウンドでの実技選考を終え、トレーナーはタブレット端末に視線を落としたまま、極めて淡々とした声で合格を告げた。G1ウマ娘を輩出し、重賞ウマ娘を多数抱える名門陣営となった今でも。彼の根底にある「一生の勝利(撤退戦)」という防衛線の理念は、一ミリたりともブレてはいなかった。
G1で、重賞で勝てる才能など、そう滅多にいるものではない。彼が最優先でスカウトするのは、あくまで「オープン戦で安全に勝ち上がり、無事に引退して六十年の人生を生き抜ける実力と素質」を持ったウマ娘たちであった。
「あ、ありがとうございます……っ!」
「まぁ、気負わずにやっていこう。君は十分に才能を持っているからね」
「はいっ!」
「おー、先生のお眼鏡にかなうかぁ。よしよし、あとでうちの揚げ物屋に来なー。奢ったげる」
「おいおい。うちの居酒屋も忘れるんじゃないよ。腹いっぱい食わせてやるとも」
「あ、ありがとうございます!」
相変わらず入り浸っているОGたちが新入部員を大騒ぎで歓迎する中、トレーナーはボサボサの頭を掻きながら、次の選考者のデータへとスワイプした。
世間がどれだけ彼を「天才軍師」と持ち上げようと、彼の中の冷徹なスーパーコンピュータは、ただひたすらに現実的な数字だけを弾き出し続けている。ナイスネイチャという存在は、あの完璧な努力と執念があったからこそ成立した、奇跡的な『バグ』なのだ。そう簡単に、あの子のような器が現れるはずが――。
トレーナーがそう考えた時だった。
「――次、お願いします」
グラウンドのスタートラインに、一人のウマ娘が立った。まだあどけなさの残る、しかしどこか底知れぬ静謐さを纏った少女だった。
「では、選考を開始する……走ってみてくれ」
トレーナーの合図とともに、少女がターフを蹴る。
ダァンッ、という踏み込みの音が響いた瞬間。
安楽椅子の魔術師の手に握られていたストップウォッチが、ピタリと止まった。いや、止まったのではない。彼の指が、無意識のうちに硬直したのだ。
(……なんだ、今の初速の重心移動は)
彼の脳内スーパーコンピュータが、突如としてけたたましいエラー音を鳴らし始めた。
少女が目の前を駆け抜けていく。
ストライドの広さ、滞空時間、着地の瞬間に足首から膝、そして腰へと伝わる衝撃の吸収率。
タブレットのカメラを通してリアルタイムで数値化されていく彼女の生体データが、彼がこれまで構築してきた「安全圏のシミュレーション」のグラフを、いとも容易く、そして暴力的なまでに突き破っていく。
(骨格のバランス、筋肉の連動性……なんだこれは。一切のロスがない。いや、それどころか……)
トレーナーは、息をするのも忘れ、目を見開いたままその少女の走り(データ)に完全に釘付けになっていた。
彼がこれまでの指導者人生で出会った、最も分厚く、最も強固で、最も理想的な体幹(シャーシ)の持ち主。それは言うまでもなく、ハイペリオン陣営の最高傑作であるナイスネイチャだ。
だが。
今、目の前を極めて涼しい顔で駆け抜けているこの少女のポテンシャルは。
(……ネイチャに匹敵する……いや。純粋な『才』という一点においては、ネイチャのそれを……完全に上回っている、だと?)
初夏の風が吹き抜けるグラウンドで。
決して自らの感情をデータに介入させないはずの男の背筋に、底知れぬ歓喜と、そして絶対的な『畏怖』が、雷のように突き抜けたのであった。
■
その日の午後。安楽椅子の魔術師は、自らの直感を裏付けるため、すぐさま陣営が誇る最強の『情報網(ネットワーク)』を稼働させた。
出版業界の中枢にいる編集長のOGや、地方トレセンで幅広いコネクションを持つOGたちに極秘で調査を依頼し、その新入生の過去のレース映像、血統背景、メディカルチェックの数値まで、あらゆる資料をかき集めさせたのである。
数日後、彼のタブレット端末に送られてきた膨大なデータファイル。それを徹夜で解析したトレーナーは、薄暗い司令室の中で一人、深い、深すぎる溜息を吐き出した。
「……私の見立ては、完全に合っていたというわけか。なるほど、これは……恐ろしい」
画面に表示された彼女の『成長曲線』の予測グラフは、彼が構築してきた緻密なシミュレーションの枠組みを、あまりにも軽々と、暴力的なまでに突き破っていた。
筋繊維のバネ、心肺機能の上限値、そして何より、あのグラウンドで見せた一切のブレを許さない天性の体幹バランス。ナイスネイチャが血を吐くような努力とロジックの積み重ねでようやく辿り着いた『弩級戦艦』の領域に、その少女は生まれながらにして片足を突っ込んでいるのだ。
「超弩級戦艦………、と言っても差し支えないスペックだ」
だからこそ。
翌日、トレーナー室にその少女を呼び出した彼は、極めて冷徹な、自らを律するような厳しい声で宣告した。
「――結論から言おう。君の入部希望は、却下だ」
「……えっ?」
希望に満ちていた少女の顔が、一瞬にして凍りつく。
「私の陣営は、才能のない者たちが怪我をせずに生き残るための、泥臭い撤退戦を敷くための場所だ。……君のように、最初から空を飛べるような規格外の才能を、私が構築した窮屈な防衛線の中に閉じ込めるわけにはいかない」
トレーナーは、タブレット端末をデスクの端へと押しやり、ボサボサの頭を掻きながら目を伏せた。
「君ほどの才能は、私のような理屈屋には扱いきれない。もっと自由で、もっと華やかな、王道を往く陣営の門を叩き給え。君なら、どこの名門でも即座にエース待遇で迎え入れられるはずだ」
それは、ウマ娘を愛し、才能を愛するが故の、彼なりの誠実な『拒絶』だった。自分のロジックは、弱者を救うためのもの。こんな純粋で圧倒的な原石を、自分の手で型にはめて潰してしまうことが何よりも恐ろしかったのだ。
しかし。
その突き放すような言葉を受けてなお、少女は一歩も引かなかった。それどころか、彼女はデスクに両手をつき、食ってかかるような勢いで身を乗り出してきたのである。
「嫌です!! あたしは、トレーナーさんの指導の元で! 絶対にこのチームで走りたいんです!」
「おい、話を聞いていたのか。君にはもっと相応しい場所が――」
「ここがいいんです! どうしてもっ!! ナイスネイチャさんのように走りたいんです!!!」
少女の瞳には、一切の迷いがない。その圧倒的な熱意と、己の意志を絶対に曲げないという強烈な我の強さ。それは、彼女の秘めた才能と同じくらい、ひどく熱く、そして純粋なものだった。
トレーナーがその気迫に気圧され、言葉に詰まった、その時。
「あはは。先生、なーんで断るんですか?」
ガチャリ、と。
トレーナー室の扉が開き、芳醇な深煎りコーヒーの香りと共に、見慣れたジャージ姿の重装歩兵――ナイスネイチャが、お盆を持って悠然と姿を現した。彼女は、驚いて振り返る少女に軽くウインクをして見せると、いつも通り、トレーナーのデスクに熱いコーヒーの入ったマグカップをコトリと置いた。
「いいじゃないですか、入れてあげれば」
「ネイチャ。君ね、彼女のデータを見ていないからそんな呑気なことが言えるんだ。彼女の才能は……」
「才能があるから、先生のロジックじゃ扱えない? それとも、型に嵌めて潰しちゃうのが怖い?」
ネイチャは、呆れたように肩をすくめ、安楽椅子に深く腰掛ける男を見下ろして、不敵に笑った。
「らしくないですねぇ。世界で一番の『ダービートレーナー』さんが、新入生一人のデータにビビって逃げ出すんですか?」
「っ……」
「それに、アタシたちハイペリオンは、もう『敗者の集まり』じゃないですよ。才能があろうとなかろうと、一番前を獲るために牙を研ぐ場所になったんです。
文字どおり、『高みを往く者』になったんです。……だったら、どんなバケモノみたいな才能が来たって、先生のデータとアタシたちの背中で、真っ向から受け止めてやればいいじゃないですか」
それは、かつて卑屈だった少女からは想像もつかない、世代の頂点を極めた『絶対強者』としての頼もしい言葉だった。
そのネイチャの、底抜けに明るく、そして絶対的な信頼に満ちた笑顔を見て。トレーナーは、呆気にとられた後……やがて、肩を揺らしてクックックッと笑い始めた。
「……ふっ、くくっ。全く、これだから君という規格外の観測は面白い」
トレーナーは、両手で顔を覆いながら、自らの敗北を認めるように天を仰いだ。思い返せば。あの夜、ナイスネイチャをスカウトした時もそうだった。理屈をこね回す自分に対し、彼女の方が「アタシが先生の理論を証明します」と、逆スカウトのような形で強引にこの陣営の扉をこじ開けてきたのだ。
熱狂は、常に理屈の壁を強引に飛び越えてくる。
「……あー、わかった。降参だ」
トレーナーは、再びボサボサの頭をガシガシと掻き乱し、ついに白旗を揚げた。そして、未だに緊張で身を強張らせている新入生の少女へ向けて、いつものような、どこか覇気のない、けれどこれ以上なく頼もしい指揮官の笑みを向けた。
「仕方ないな。君の熱意と、ウチの最強の重装歩兵の推薦だ。……歓迎しよう、ハイペリオン陣営へ」
「……っ!!」
少女の顔に、パッと眩しい花が咲いたような歓喜の色が広がる。しかし、彼女はすぐにハッとして、信じられないというように、おずおずと問いかけた。
「ほ、ほんとに……? う、嬉しいんですけど、ほんとに、あたしなんかで、いいんですか……?」
その、少しだけ自信なさげに揺れた声に。安楽椅子の魔術師は、かつてナイスネイチャに掛けた時と同じ、いや、それ以上の絶対的な確信を込めて力強く告げた。
「何をいまさら不安になっているんだい? 君から飛び込んできたんだ。いいも何もないだろう」
トレーナーは言葉を区切り、彼女の瞳の奥にある、まだ誰も知らない果てしない才能の深淵を真っ直ぐに射抜いた。
「それに君は重賞の器……いや、間違いなくG1ウマ娘の器だ。もっと言えば、三冠ウマ娘すら狙えるだろう」
「お、先生やる気になった」
ナイスネイチャが面白そうにカラカラと笑う。対照的に、入部を許可されたばかりの少女は、あまりにもスケールの大きすぎる評価を唐突に突きつけられ、目を白黒させて戸惑っていた。
「安心していい、ウインバリアシオン」
初夏の風が窓から吹き込み、新たな伝説の始まりを祝福するように部屋の中を駆け抜ける。安楽椅子の魔術師は、コーヒーカップを片手に、不敵で、そしてどこか誇り高い笑みを浮かべた。
「私の見立ては、外れないよ」