ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
夜の帳が下りた、トレーナー寮の一室。
キッチンからは、食欲をそそる出汁の香りと、トントンと小気味良く響く包丁の音が絶え間なく聞こえてくる。
「よしっ。お味噌汁もこれでオッケー、と」
手慣れた様子でエプロンを身につけ、IHヒーターの火を止めたナイスネイチャが、満足げに小さく息をつく。
かつてのように、作り置きのおかずをタッパーに詰めて玄関先で手渡すだけの「補給線」の時代は、とうの昔に終わっていた。
―――今や、当たり前のように合鍵を使い、彼女が直接この部屋のキッチンに立って温かい夕飯を作るという『半同棲』のような距離感が、二人の新たな日常として完全に定着しているのだ。
「先生ー、できましたよ」
「ああ、恩に着る」
お盆に並べられた熱々の料理をテーブルへと運ぶネイチャ。それを安楽椅子……ではなく、ダイニングチェアに深く腰掛けて待っていたトレーナーは、タブレット端末を置いて目を細めた。そのリラックスしきった姿は、仕事から帰って妻の手料理を待つ、ひどく所帯染みた『夫』のようでもあった。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
向かい合って座り、箸を割る。
ふっくらと炊き上がった白米に、バランスよく栄養が計算されたメインの肉料理と、数種類の副菜。それを一口食べたトレーナーが、無言で、しかしこれ以上ないほど深い充足感とともに小さく頷くのを確認し、ネイチャは嬉しそうに微笑んだ。
「それにしても」
自らも箸を進めながら、ネイチャは今日グラウンドで出会った、あの凄まじい才能の原石を思い返して口を開いた。
「良い子が入りましたねー、先生」
「……やれやれ。市場のセリじゃないんだから」
すっかり「強者の先輩」の顔になっている教え子に、トレーナーは呆れたように苦笑した。
「だが、これで陣営の層はさらに厚くなる。防衛線の中で才能を育て上げるための、次なる盤面の構築が必要だな」
「大丈夫ですよ。アタシたち先輩が、ビシバシ鍛えてあげますからね」
頼もしい重装歩兵の言葉に目を細めつつ、トレーナーは味噌汁で喉を潤し、指揮官としての真剣なトーンへと声色を切り替えた。
「さて、彼女の育成計画もそうだが。……君の、次のルーティーンの話だ」
「はい」
「今年の年末、総決算たる『有馬記念』に打って出ようと思う」
有馬記念。中山レース場、二五〇〇メートル。
ファン投票によって選ばれた、世代を超えた真の強者たちだけが集う、一年を締めくくる夢の祭典。
「シニア級のトップ層はもちろんのこと、下の世代……現クラシック級の覇者たちも、おそらく顔を出してくるだろう」
トレーナーは、箸を置き、不敵な笑みを浮かべて教え子を見据えた。かつて合同練習で泥臭く削り合ったライスシャワーや、圧倒的な逃げでターフを支配するサイボーグのような後輩たち。そして、それに続く新たな怪物たちが、頂点を目指して次々と名乗りを上げている。
「どうだい? 新たな挑戦者たちに、いっちょ先輩の威厳を見せるというのは」
その、挑発的で、己の最高傑作に対する絶対的な信頼に満ちた問いかけ。
それを聞いたナイスネイチャは、一切の気負いも、かつての卑屈さも微塵も感じさせない、堂々たる『絶対王者』の顔つきで、艶やかに口角を上げた。
「いいですね、それ」
カチン、と。
「いっちょやってやりましょう」
「そう言うと思っていたよ」
食卓の上で、二人の持つお茶の入った湯呑みが、静かに、しかし熱い闘志を込めてぶつかり合う。
強者たちを迎え撃つ弩級戦艦と魔術師の、終わらない熱狂の日々は、こうして穏やかな夕餉の匂いと共に続いていくのだった。
■
夜の帳が降り、すっかり静まり返った、トレセン学園の中枢――理事長室。
「うむっ!」
重厚な革張りの椅子に深く腰掛けた秋川やよい理事長は、誰もいない執務室の中で、ただ一人、これ以上ないほど満足げな笑みを浮かべながら、バサリと勢いよく扇子を広げた。
学園のトップとして、あらゆる才能の芽吹きと、敗者の悲哀を見つめ続けてきた彼女の目に映る、現在のハイペリオン陣営の躍進。
勝利至上主義のトレセン学園において、「撤退」と「安全」を掲げた異端の男のロジックが、世代の頂点を極めるダービーウマ娘を生み出し、さらには新たな超大物をも惹きつけた。
全く予想もつかなかった、痛快で、規格外の化学反応。
「愉快! 痛快! 人間万事、塞翁がウマ娘! はーっはっはっはっは!!!」
扇子をパタパタと揺らしながら、理事長は上機嫌にその格言を響かせる。
一見すれば遠回りで、不格好で、敗北のように見えた撤退戦が、やがて誰よりも強固な土台となり、誰も届かないほどの高い頂へと直結していたのだ。
「運命とは、そしてウマ娘の可能性とは、本当にわからないからこそ面白い!」
理事長は、扇子を持っていないもう片方の手へ視線を落とした。
その小さな手に大事そうに握られていたのは、あの商店街にある『ハイペリオンの揚げ物屋』で、今日揚げたてを買ってきたばかりの、衣がサクサクの特製コロッケであった。
彼女はそれを大きく一口齧り、サクッという心地よい音を部屋に響かせながら、幸せそうに頬を緩める。
「うむ、絶品だ!」
敗者たちが紡いだ泥臭い兵站の味は、今日もトレセン学園の頂点から、最前線で戦う者たちまで、温かく、そして力強く繋がっていた。
次話から数話。おねーさんが主人公になる話。