ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
閉店間際の訪問者
夏の終わりを告げるような、少しだけ冷たい風が商店街を吹き抜けていく。空はすでに深い茜色に染まり、家路を急ぐ人々の影が石畳のアーケードに長く伸びていた。
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パチパチ、と一日中心地よい音を立てていた油の温度が下がり、換気扇の回る重低音だけが響く揚げ物屋の店先。
『ハイペリオン』陣営の要であり、この店の優秀な経理担当兼看板娘である『おねーさん』は、店先に並べていた空のバットやトングを手際よく片付けながら、小さく息を吐いた。
「ふぅーっ。今日もよく揚げて、よく売った!」
エプロンについた細かなパン粉をパンパンと払い落とし、彼女は充実感に満ちた背伸びをする。店内からは、すでに厨房の掃除を始めている店長が、
「おう、表の片付けが終わったらシャッター半分下ろしといてくれ!」
と声をかけてきた。
「はーい!」
と元気よく返事をしながら、おねーさんは店先のテントの端に手をかける。
あの大熱狂の日本ダービーからしばらく。
陣営の最高傑作であるナイスネイチャは、今もターフの最前線で名だたる怪物たちと鎬を削り、後輩たちも次々と重賞戦線へと名乗りを上げている。そして何より、あのウインバリアシオンという規格外の才能までが陣営に加わり、トレーナーの構築する防衛線はかつてないほどの熱を帯びていた。
しかし、そんな華やかな最前線の喧騒とは対照的に、おねーさんの日常は極めて穏やかで、そして確かな幸福に包まれていた。
(……私の居場所は、やっぱりここなんだよね)
ガラガラガラ、と。重たいシャッターを半分ほど下ろしながら、彼女は夕暮れの空を見上げて微笑む。
あの祝勝会の夜、居酒屋で泥酔して泣き叫んだ醜い嫉妬。たづなさんや女将、そして店長にもらった数々の温かい肯定の言葉。自分はG1の舞台には立てなかった。才能もない、脇役のウマ娘だった。けれど、自分が揚げ続けたコロッケの温度と、無理して作ってきた明るさが、確かにあの陣営の土台の一部になっている。
その誇りさえあれば、六十年の人生は、胸を張って生きていける。
「よしっ、と。それじゃあ残りの売上計算して、今日は上がりに――」
おねーさんがシャッターの鍵に手を伸ばした、まさにその時だった。
「す、すみませんっ……!!」
アーケードの角を曲がって、一人の男が猛烈な勢いで店へと駆け込んで来た。
年齢はおねーさんと同じか、少し上くらいだろうか。仕立ては悪くないがすっかりヨレヨレになったスーツに身を包み、ネクタイは少し緩められている。
手には分厚いビジネスバッグ。その息の上がり方と、額に滲む汗、そして何より目の下に濃く落ちた隈が、彼が今日一日、過酷な社会という名のレース、営業回りか何かだろうか、を死に物狂いで走り抜いてきたことを物語っていた。
「はぁっ、はぁっ……! あ、あの……! もう、終わりですよね……っ」
半分閉まったシャッターと、空になったショーケースを見て。男は膝に手をつき、この世の終わりのような、ひどく絶望した顔でうなだれた。その姿が、かつて過酷なトレーニングの末に足が動かなくなり、ターフに崩れ落ちた現役時代の自分たちとどこか重なって見えて、おねーさんは思わずクスリと笑みをこぼした。
「あはは、そんなに絶望しないでくださいよ。お兄さん、運がいいですね」
おねーさんは、半分下ろしたシャッターを再びガラッと上に押し上げ、店の奥の保温ケースから、白い紙袋を一つ取り出した。
「ちょうど、私の今日のまかない用に残しておいた特製のメンチカツが一つだけあるんです。……お仕事、すっごく大変だったみたいだし。今日は特別に、これ、お譲りしますよ!」
「えっ……! い、いいんですか!?」
「もちろん! その代わり、冷める前に思いっきりかぶりついてくださいね。ウチのメンチカツは、疲れた体に一番効く魔法の薬ですから!」
おねーさんは、持ち前の底抜けに明るい笑顔を弾けさせ、油がうっすらと染みた温かい紙袋を男の目の前へと差し出した。男は、まるで神様からの施しでも受けるかのように、両手で恭しくその紙袋を受け取る。
「あ、ありがとうございます……っ! 本当に、助かります……。今日、朝から何も食べてなくて……どうしても、ここのメンチカツの匂いが頭から離れなくて……」
「ふふっ、それは嬉しい褒め言葉ですね。はい、お代は二百円! オマケで大盛りキャベツの千切りもつけときますね!」
財布から小銭を取り出し、おねーさんの手のひらへと落とす。その硬貨の確かな重みを受け取りながら、おねーさんは「毎度あり!」と元気よく声をかけた。これで本当に今日の営業は終了だ。
しかし。
メンチカツを受け取った男は、すぐにはその場を立ち去ろうとしなかった。彼は、紙袋の温もりを両手で確かめながら、おねーさんの顔を——正確には、おねーさんが向けているその『屈託のない笑顔』を、じっと、穴のあくほど見つめていたのだ。
「……あの、お兄さん?」
あまりにも真っ直ぐな視線に、おねーさんは少しだけ戸惑い、首を傾げた。男の瞳の奥にあるのは、ただ空腹を満たせた安堵だけではない。何か、遠い昔の記憶の糸を必死に手繰り寄せているような、ひどく切実で、熱を帯びた光だった。
「……やっぱり」
やがて、男の口から、掠れたような小さな声がこぼれ落ちた。
「あの時の、笑顔のままだ」
「……え?」
突然の言葉に、おねーさんは目を瞬かせる。男は少しだけ姿勢を正し、ビジネスバッグを脇に抱え直すと、ひどく緊張した面持ちで、恐る恐る口を開いた。
「突然、おかしなことを聞いてしまって申し訳ありません。……あなた、もしかして、トレセン学園の『ハイペリオン』陣営の……その、関係者の方ではありませんか?」
その問いかけに、おねーさんは「ああ、なるほど」と心の中で合点がいった。
最近のスポーツ誌やレース雑誌では、日本ダービーを制したナイスネイチャの特集が組まれるのと同時に、「彼女を育て上げた異端の陣営」として、ハイペリオン陣営の歴史や撤退戦の理念、そしてOGたちが商店街で働いていることなどが、度々記事として取り上げられていた。(主に、編集長をしているOGの仕業である)
「あー、はい! そうですよ。私はウチのトレーナーの、一番最初の教え子で……今はここで、陣営の胃袋を支える『一番艦』をやらせてもらってます」
おねーさんは、自慢の後輩たちのことを思い浮かべながら、誇らしげに胸を張った。
きっとこの男も、雑誌の記事か何かを読んで、話題のダービーウマ娘のルーツに興味を持って店を訪ねてきたのだろう。ネイチャのサインでも頼まれるかもしれないな、と、彼女は少しだけ身構えながら笑いかけた。
「ネイチャのダービー、凄かったでしょう? 私たち陣営の自慢の後輩なんです。……あの子のファンの方ですか?」
そう言って、得意げに笑いかけたおねーさんに対し。
しかし、男は静かに、けれど明確な意志を持って首を横に振った。
「……いいえ」
「えっ?」
「ナイスネイチャさんのレースも、拝見しました。本当に、素晴らしい走りでした。……でも、僕がずっと探していたのは、彼女じゃないんです」
男は、ギュッとメンチカツの紙袋を握りしめ、まるで長年胸に秘めていた大切な宝物を打ち明けるかのように、真っ直ぐにおねーさんの目を見つめ返した。
「僕は……地方のダート戦や、雨の日のオープン戦で。どんなに泥だらけになっても、決して諦めずに最後まで走り抜いていた……あなたの、ファンでした」
秋の冷たい風が、二人の間をサァッと吹き抜けていく。
商店街の喧騒が、遠くへと退いていくような感覚が、おねーさんをどこか夢見心地にさせる。
「……え……?」
おねーさんの口から、間の抜けた声が漏れた。
大舞台のスポットライトを一度も浴びることなく、重賞のファンファーレを聞くこともなく、ひっそりとターフを去った自分。
引退して何年も経った今、わざわざ自分を「探していた」と、目の前の男はそう言ったのだ。
夕焼けの光が、戸惑いで固まるおねーさんの顔を赤く染め上げる。
男は、おねーさんの驚きを優しく受け止めるように微笑むと、ビジネスバッグの留め具にゆっくりと手を伸ばした。