ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
夕暮れの商店街。すっかり冷たくなった秋の風が吹き抜ける中、おねーさんはただ呆然と、目の前に立つくたびれたスーツ姿の男を見つめていた。
「私の、ファン……?」
大舞台のスポットライトなど一度も浴びたことのない自分に。オープン戦で着実に人気と付随する金を稼ぎ、怪我をする前にひっそりとターフを去った自分に、あれから暫く経っているにもかかわらず、追いかけてくるような熱心なファンがいた。
その事実をすぐには飲み込めず、戸惑うおねーさんの前で、男は脇に抱えていたビジネスバッグの金具をカチャリと開けた。
中から丁寧に取り出されたのは、ページが折れ曲がるほど何度も読み込まれた形跡のある、一冊のスポーツ誌だった。
それはつい先日発売されたばかりの号で、巻頭特集には『ダービーウマ娘を支えた陣営の軌跡』という見出しが大きく踊っている。執筆者の欄には、見慣れたOG――あの酒飲みな『編集長』のペンネームが記されていた。
男は、その雑誌を大事そうに胸に抱えたまま、少しだけ照れくさそうに、ぽつりぽつりと身分を明かし始めた。
「昔……あなたがまだ、現役のウマ娘として走っていた頃の話です」
男の視線が、ふっと宙を彷徨う。まるで、何年も前の鮮やかな記憶を、今この場に呼び起こすかのように。
「地方遠征の、砂埃が舞う小さなダート戦。それから、お客さんもまばらな、凍えるような雨の日のオープン戦。覚えておられないかもしれません。……僕はいつも、パドックの一番端っこで、手書きの横断幕を出していた者です」
「――っ」
その言葉を聞いた瞬間。おねーさんの脳裏に、忘れかけていた現役時代の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって押し寄せてきた。
それは、ナイスネイチャが走った日本ダービーのような、十万人の大歓声が響き渡る華やかな舞台ではない。
重馬場で泥濘んだ、重く冷たいダートコース。
降りしきる雨の中、少しでも安全に、怪我をせずにゴール板を駆け抜けることだけを考えて、泥だらけになって必死に走っていた日々。
先生の言う『撤退戦』は正しかったけれど、決して華々しいものではなく。着順掲示板に名前を載せたとしても、息を弾ませながら引き上げてくる自分に向けられる拍手は、いつもパラパラとまばらで。
けれど。
薄暗い雨空の下、いつも閑散としていたパドックの最前列の端っこに。安物のレインコートをすっぽりと被り、寒さに震えながら、一つだけ横断幕を掲げてくれている『一人のファン』がいた。
不格好な、ひどく素人くさい極太のマジックペンで、レース名と、そしておねーさんの名前が力強く書かれた、小さな小さな手作りの横断幕。
――いつも、見てた。私の出走するレースには、必ずあの横断幕があった。
どんなに遠い地方のレース場でも。どんなに天気の悪い日でも。
華やかな重賞レースの裏側でひっそりと行われるオープン戦のパドックには、決まってあの不格好な横断幕が、おねーさんの名前を高々に、風に揺れていたのだ。
■
「ああっ……! あの時の……!?」
記憶の中の、雨に濡れたファンの姿と。目の前に立つ、目の下に隈を作ったくたびれたサラリーマンの顔が、ピタリと重なり合う。
驚きのあまり両手で口元を覆うおねーさんを見て、男は。
「覚えていてくれましたか」
と、ひどく安堵したような、優しく温かい微笑みを浮かべた。
「あなたが引退した時……引退式も何もなく、ただ登録が抹消されただけだったので、僕はあなたがどこへ行ってしまったのか、ずっとわからなかったんです」
男は、抱えていたスポーツ誌の表紙を、愛おしそうに撫でた。
「でも、数日前にこの記事を読んで。……『怪我をせずに引退した一番最初の教え子は、今も陣営の裏方として、最高の揚げ物で後輩たちの胃袋を支えている』。そう書かれた一文と、記事の隅っこに載っていた小さな写真のあなたの笑顔を見て……確信しました」
男は、少しだけ潤んだ目を細め、おねーさんを真っ直ぐに見つめた。
「ずっと探していた人が、こんな近くの商店街で笑っていたんだってわかって。……居ても立っても居られなくて、仕事の合間を縫って、ここまで駆けつけてしまったんです」
シャッターの半分閉まった、油の匂いが漂う薄暗い店先。
男が発したその言葉の熱量に、おねーさんは胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
探してくれていた。
何年も前にターフを去った、才能のない脇役のウマ娘のことを。
華やかなG1の記憶などではなく、泥と雨に塗れた名もなきレースを走る自分の姿を、この男は、ずっと忘れずに探し続けてくれていたのだ。
「……どうして」
おねーさんの声は、微かに震えていた。あの日、居酒屋で「私だって走りたかった」と泣き叫んだ、心の奥底にしまい込んでいた己の消えないコンプレックスが、静かに波立ち始める。
「どうして、私なんかを……?」
その問いかけに答えるように、男はゆっくりと息を吸い込んだ。
彼が胸に秘め続けてきた、たった一つの想い。
不甲斐ない自分自身を呪い続けてきた『一番艦』へと伝えるために。
■
秋の夕暮れが、商店街を少しずつ深い青に沈めていく。
半分下ろされたシャッターの奥、油の匂いが微かに残る薄暗い店先で。男はビジネスバッグを抱え直し、静かな、けれど確かな熱を帯びた声で語り始めた。
「ナイスネイチャさんの日本ダービー……僕も、テレビで見ました。本当に、鳥肌が立つような凄いレースでしたね」
「あ……うん。そうだね」
可愛い後輩の偉業を褒められ、おねーさんは反射的に嬉しそうに頷いた。男は、あの日のターフの熱狂を思い出すように少しだけ目を細める。
「あの無敗の天才を、真っ向から差し切るなんて。……あなたが裏方として、陣営の土台となって、後輩のあの子をあそこまで立派に育て上げたこと。ずっとあなたを応援してきたファンの一人として、僕も心の底から誇らしかったんです」
それは、一点の曇りもない、純度百パーセントの真っ直ぐな称賛だった。この男は本当に、自分の教え子が大舞台で活躍したことを自分のことのように喜んでくれているのだ。
しかし。
その温かい言葉を受けた瞬間。おねーさんの顔に、無意識のうちに、ひどく曖昧で自嘲気味な笑みが浮かび上がってしまった。
「あはは……ありがとう。でもね、お兄さん。凄いのは私じゃなくて、ネイチャなんだよ」
それは、あの大熱狂の祝勝会の夜。居酒屋のカウンターで女将を相手に泥酔し、涙と鼻水に塗れながら吐き出した『私だって走りたかった』という、あの醜い嫉妬の呪い。
店長の言葉で折り合いをつけ、完全に消化したはずのあの劣等感が、心の奥底でチクリと小さな痛みを放ったのだ。
「私なんてさ……なんの才能もなかったから」
おねーさんは、エプロンの裾をギュッと握りしめ、自らの足元へと視線を落とした。
「先生の言う通りに、怪我をしない安全なレースにだけ逃げて。重賞の華やかなファンファーレを聞くことも、大歓声の真ん中を走ることもなく……オープン戦をウロウロしたまま、ひっそりと引退した。……ただの、脇役だからさ」
ハイペリオン陣営の『一番艦』。
それは聞こえのいい言葉だが、裏を返せば、自分は後輩たちのための安全圏(防衛線)を作るための実験台であり、天才を輝かせるためのただの土台でしかなかった。
歴史に名を残したのはナイスネイチャであって、自分ではない。
数少ないファンが誇りに思ってくれるのはありがたいが、それはあくまで『ダービーウマ娘を育てた裏方』としての自分に対する称賛なのだと、そう思ってしまった。
「だから、私の現役時代なんて、褒められたもんじゃ……」
おねーさんが、顔を伏せたままそう言いかけた、その時だった。
「――違います」
少しだけ強めの、ピシャリと遮るような声。驚いて顔を上げると、そこには、いつの間にか目の前の男が、一歩だけ距離を詰め、ひどく真剣な……それこそ、怒っているようにも、泣き出しそうにも見える切実な眼差しで、おねーさんを真っ直ぐに見据えていた。
「貴女は脇役じゃない」
男は、強く、はっきりと首を横に振った。
「え……?」
くたびれたスーツ姿の、隈を作った平凡なサラリーマン。しかしその瞳に宿る熱量は、あの日、雨の降るパドックの最前列で、凍えながら横断幕を握りしめていたそれと全く同じだった。
「決して、決して貴女は、脇役なんかじゃない」
男の言葉が、夕暮れの冷たい空気を震わせる。
「僕にとっての主人公は……、ずっと、あなたです」
ドクン、と。
おねーさんの胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。
大歓声の真ん中を走れなかった自分。
歴史に名を残せなかった自分。
そんな、ちっぽけな自分のウマ娘としての軌跡を、世界の誰よりも重く、誰よりも眩しいものとして見つめ続けていた『たった一人の観客』が、今、目の前に立っていた。