ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
薄暗くなった店先で、男はゆっくりと、しかし心の奥底から絞り出すような声で、自身の過去を語り始めた。
「あの頃の僕は……就職活動に行き詰まり、周りの優秀な連中と自分を比べては、現実の壁に完全に心を折られていました」
男の目が、ふっと遠くを見るように細められる。
「何十社受けても祈られ続けて、自分には何の才能もない、社会のどこにも居場所なんてないんだって……毎日、下ばかり向いて歩いていました。そんな時です。逃げるように立ち寄った、雨の日の東京レース場で……偶然、あなたの走りを見たのは」
おねーさんは、息を呑んで彼の言葉に聞き入った。男は、まるで昨日のことのように熱を込めて語る。
「どんなに泥まみれになっても、フォーム一つ崩さず、絶対に途中で諦めたりしなかった。前を向いて、トレーナーの教えを守って、怪我一つせずに、自分の全力を出し切って無事にゴール板を駆け抜けて……そして、勝っても負けても最後には必ず、パドックの端っこにいる僕らに向かって、あの太陽みたいな『底抜けの笑顔』を見せてくれた」
それは、トレーナーが徹底して叩き込んだ『撤退戦』の走りだった。無理な出力でエンジンを壊さず、無事に六十年の人生を生き抜くための、徹底した安全管理。華やかさには欠けるかもしれないが、絶対に折れない、強固で泥臭い、ハイペリオンのウマ娘の結晶だ。
「それを見て、気づいたんです」
男の声が、微かに震えていた。
「天才じゃなくてもいい。どんなに不格好で泥臭くても、途中で壊れることなく、最後まで走り切って……そして笑っていられれば、それが一番すごいことなんだって」
男は、ギュッと唇を噛み締め、おねーさんを真っ直ぐに見つめた。
「あなたのあの走りと笑顔が、僕の人生を救ってくれたんです」
「……っ」
おねーさんの瞳が、大きく揺れた。
自分がコンプレックスに感じていた『才能のない脇役の走り』。それは、誰の記憶にも残らない、ただの防衛線だと思っていた。
しかし、その泥だらけの撤退戦は、見知らぬ一人の青年にとって、過酷な現実を生き抜くための強烈な希望の光になっていたのだ。
(先生が掲げた『一生の勝利』という理念は、ターフの上だけでなく、ファンの人生をも救っていたんですね)
男は、スーツの内ポケットから使い込まれた古びた手帳を取り出すと、そのページにずっと大切に挟んでいたという『一枚の品』を、そっと取り出した。
「これ……画質も荒くて、恥ずかしいんですけど。あなたが最後に走ったレースの時、僕がスタンドの端っこから必死に撮った写真です。お守り代わりに、ずっと持ち歩いていました」
彼の手のひらに乗せられていたのは、少し端が擦り切れ、色褪せた一枚のスナップ写真だった。
そこには、泥だらけの体操服を着て、着順掲示板のてっぺんに名前を載せながら、カメラの向こう側のファンに向かって、最高に輝く笑顔でピースサインを向けている現役時代のおねーさんの姿が写っていた。
大歓声もない。
重賞のレイもない。
けれど、その写真の中の自分は、間違いなく。
『誰かのヒーロー』としての顔をしていた。
男は、大切そうにその写真を両手で包み込み、これ以上ないほどの敬意と、深い愛着を込めて告げた。
「あなたは僕にとって……世界で一番かっこいい、永遠の絶対王者です」
秋の冷たい夜風が、二人の間を優しく吹き抜ける。その言葉は、あの大熱狂のダービーの夜からずっと、いや、現役時代からずっとおねーさんの心を縛り付けていた暗い呪いを、跡形もなく完全に打ち砕く、究極の『肯定』であった。
――永遠の絶対王者。
その言葉が、耳の奥で、そして胸の一番深いところで静かに反響した。次の瞬間。おねーさんの大きな瞳から、堰を切ったように大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「あ……、れ……?」
慌てて手の甲で目元を拭うが、後から後からとめどなく熱い雫が込み上げてくる。
あの祝勝会の夜、居酒屋で女将を相手に泣き喚いた、泥酔と自己嫌悪の涙とは全く違っていた。
それは、自分が『ウマ娘』として生まれてきて、ターフを駆け抜けた日々のすべてを――この世界でたった一人でも、こんなにも完璧に肯定してくれたことに対する、心底からの救済の涙だった。
(私は……嫉妬なんて、する必要なかったんだ)
ナイスネイチャの浴びた大歓声に、胸を焦がす必要なんて最初からなかったのだ。
才能のなさを嘆き、ひたすらに安全圏を這いずり回った不器用な撤退戦。それは、最高の後輩が限界を超えるための強固な土台となっただけではなかった。
あの泥だらけの走りは、スタンドの端っこで絶望に打ちひしがれていた一人の青年の、人生という過酷なレースの『防衛線』をも支え、確かな希望の光を与えていた。
誰かの人生を救う走りができていたのなら。
それのどこが、『脇役』だというのだろうか。
安楽椅子の魔術師が、あの日から陣営に掲げ続けていた『一生の勝利』。
(先生……。私、もうとっくに貰ってたんですね)
それは、ただ単に無傷でターフを降りるという物理的な意味だけではない。ターフを降りた後の長い六十年の人生を、誰かの記憶の中で、そして自分自身の絶対的な誇りとして、胸を張って生き抜くこと。
G1の栄誉なんてものがなくても。
――私は現役時代に、その最高の『勝利』を、ちゃんとこの手で掴み取っていたのだと、ようやく心の底から理解することができた。
「あぁっ……、う、うぅぅっ……!」
おねーさんは、両手で顔を覆い、子供のようにしゃくり上げながら泣き崩れた。
冷たい秋の夜風が吹く商店街。シャッターの半分閉まった薄暗い店先で。
長年彼女の心を縛り付けていた、凡人としての劣等感という名の暗い呪縛は、彼がずっと大切に持っていてくれた一枚の色褪せた写真と共に、跡形もなく、完全に溶けて消え去っていった。