ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
顔を両手で覆い、肩を震わせてボロボロと泣き崩れるおねーさんの姿に、男はひどく慌てふためいた。
まさか、自分の言葉が彼女をここまで泣かせてしまうとは思ってもみなかったのだ。彼は抱えていたビジネスバッグを足元に置き、ヨレヨレになったスーツのポケットから、アイロンの当てられた清潔なハンカチを引っ張り出した。
「す、すみませんっ! 決して、その! 困らせるつもりじゃなかったんです……! ただ、どうしても今日、あなたに直接お礼が言いたくて……っ」
おろおろと宙を泳ぐ彼の手から、おねーさんはそのハンカチをそっと受け取った。
目元を拭うと、布越しにふわりと、柔軟剤の清潔で温かい香りがした。それは、彼が今日という日まで、どれほど誠実に、そして懸命に社会というレースを走り続けてきたかを物語るような、優しい匂いだった。
「ううん……っ、ううんっ」
おねーさんは、涙で潤んだ目を赤く腫らしながらも、力強く首を横に振った。
「謝らないで。……ありがとう。伝えてくれて、本当にありがとう」
深く息を吸い込み、夜の冷たい空気を胸いっぱいに満たす。あの大熱狂の祝勝会からずっと、心の奥底で燻っていた黒い炭火のような感情が、秋の風に攫われて完全に消え去っていくのを感じた。もう、過去の自分を「ただの脇役だった」と卑下することはない。
「私……ウマ娘に生まれてきて。あの時、泥だらけになって走っていて……本当に、良かった……っ!」
ハンカチを握りしめ、おねーさんは顔を上げた。
そこにあったのは、後輩たちの前でどこか無理をして作っていた「頼れる先輩」の仮面でもなければ、自分の不甲斐なさを誤魔化すための空元気でもない。
かつて、雨の日のパドックで彼に向けていたのと同じ。―――いや、憑き物が落ち、己の人生を完全に肯定できた今の彼女が咲かせるそれは、現役時代の何倍も美しく、眩しい『一番の笑顔』だった。
街灯に照らされたその太陽のような笑顔を真正面から浴びて。
………男は、まるで魔法にでもかけられたかのように言葉を失い、ただ呆然と彼女を見つめた。
商店街の喧騒はとうに落ち着き、遠くで踏切の鳴る音が微かに聞こえるだけの、静かな夕暮れ時。
二人の間に、ほんの少しの沈黙が降りた。
■
―――やがて。
男はギュッと両手を握り込み、何か途方もなく大きな決断を下すように、一つ深く深呼吸をした。そして、目の下に隈を作った大人の顔を、耳の先まで真っ赤に染め上げながら、ひどく緊張した声で尋ねた。
「あの……っ! もし、もしよかったらなんですけど」
「うん?」
「これからも……ここに、メンチカツを買いに来てもいいですか?」
男の真っ直ぐな瞳が、おねーさんを射抜く。
「その……昔、スタンドの端っこにいた『ただのファン』としてじゃなくて。……近所の会社で働く、一人の男として」
それは、遠回りで、不器用で、けれどこれ以上ないほど誠実な、彼なりの『告白』だった。過去の幻想を追いかけてきたわけじゃない。目の前で笑う、揚げ物屋のエプロンをつけた今の彼女の横顔に惹かれたのだと。
その言葉の意味を理解した瞬間、おねーさんはパチクリと大きく目を丸くした。
まさか、自分の一番の理解者になってくれた相手から、一人の女性としての矢印まで向けられるなんて、全く想像もしていなかったからだ。ほんの数秒、驚きで固まっていた彼女だったが――やがて、我慢しきれないというように優しく吹き出し、肩を揺らして笑い始めた。
「あははっ! なぁんだ、そんなこと!」
おねーさんは、エプロンの紐をキュッと結び直し、最高に魅力的な、とびきりの笑顔で力強く頷いた。
「もちろん、大歓迎! 私、こう見えてもウチの陣営の台所を任されてる、最強の胃袋の守護神だからさ」
そして、男の手の中にある、すっかり冷めてしまった白い紙袋を指差して、悪戯っぽくウインクをした。
「次はそんな売れ残りの冷めたヤツじゃなくて。私が、世界一美味しい『揚げたて』を作って待ってるから! ……絶対、明日も来てくださいね?」
「……っ! はいっ!! 必ず、伺います!」
男の顔に、今日一番の、まるで少年のように無邪気で嬉しそうな笑顔が弾けた。
秋の夜風が、再び心地よく二人の間を吹き抜ける。
才能の壁に敗れ、撤退戦を敷いた名もなきウマ娘。彼女がずっと抱えていた敗者の未練は、たった一人の観客の手によって完全に昇華され、温かい思い出へと変わった。
G1のファンファーレは鳴らない。
実況の声も、十万人の大歓声もない。
けれど、確かにここから。彼女自身が間違いなく『主人公』となる、新しいレースが静かに、そして熱く走り出すのであった。
■
不器用な看板娘にようやく訪れた、春風の予感。
「……青春だねぇ」
店の奥、ピカピカに磨き上げられた厨房の中から。
半分下ろされたシャッターの隙間からこっそりとその様子を窺っていた店長が、洗い立てのボウルをタオルで拭きながら、目を細めてぽつりと呟いた。
次回 ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話