ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話   作:灯火011

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ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話
ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話


 紫煙と、アルコールと、抑制の効いたジャズの調べ。

 

 薄暗い照明が落ちるカウンターの片隅で、グラスの中で溶けゆく球形の氷が、カラン、と心地よい音を立てた。琥珀色の液体を喉に流し込みながら、隣に座る男が微かに、しかし明らかな嘲笑の気配を含んだ息を吐き出す。

 

「何度考えても、人生というやつは質の悪い喜劇だと思う」

 

 男は、均整のとれた長身をスツールに預け、手元のグラスを弄びながら言った。実戦をくぐり抜けてきた野戦指揮官のような精悍な骨格を持ちながら、その立ち振る舞いには、退廃的な貴族のような優雅さと、世の中のすべてを斜めから見透かすような冷笑的な気配が同居している。

 

 学生時代からの悪友であるこの男は、女と酒をこよなく愛し、同時に人間という生物の矛盾を誰よりも正確に観察する、生来の皮肉屋であった。

 

「……何の話だい?」

 

『安楽椅子の魔術師』と世間で呼ばれるようになったトレーナーは、自身のグラスに視線を落としたまま、気乗りしない声で応じた。

 

「お前のことさ。大学時代は研究室に引きこもってデータと睨み合うしか能のなかった偏屈な書物狂いが、今や押しも押されもせぬトレセン学園のトップトレーナーだ。それも、無敗の天才を打ち破って日本ダービーを制した、常勝軍団の総帥ときている。……まったく、運命の女神というのは、どれほど酔っ払えばこんな采配を振るうのだろうな」

 

 悪友は、肩をすくめて芝居がかったため息をついた。彼の言う通り、魔術師がウマ娘の指導者という道に足を踏み入れたのは、ほんの偶然――いや、隣でグラスを傾けているこの男の気まぐれが発端だった。

 

 大学時代。この悪友から、「親戚のウマ娘が伸び悩んでいる。お前のその無駄に高いデータ解析能力で、少し助言をしてやってくれないか」と頼まれたのが、すべての始まりだったのだ。

 

 魔術師は、持ち前の冷徹なロジックでそのウマ娘の肉体的限界と適性を算出し、無理なトレーニングによる破滅を未然に防いだ。それがきっかけとなり、彼は「才能なき者が生き残るための撤退戦」という独自の防衛線を構築し、やがてトレセン学園へと招聘されるに至ったのである。

 

「私をこの道に引きずり込んだのは君だろう? それに、私はただ、情熱や精神論という名の非合理的な数式を排除し、極めて論理的な生存戦略を敷いただけだ。そこに喜劇が介入する余地はない」

 

「出た出た、安楽椅子の詭弁が」

 

 悪友は楽しげに喉の奥で笑い、残っていた酒を飲み干してバーテンダーに同じものを要求した。

 

「論理、合理、生存戦略。結構なことだろうよ。お前のその身も蓋もない撤退戦が、結果的に誰一人としてウマ娘を壊さず、あまつさえ世代の頂点を極めるという大番狂わせを演じたのだからな。……だが、私が喜劇だと言っているのは、ターフの上での話ではないよ」

 

 バーテンダーが新たなグラスを静かに置くと、悪友はそれを片手に持ち、面白くてたまらないといった風に魔術師の顔を覗き込んだ。

 

「あの『ハイペリオン陣営』の絶対的な重装歩兵。……ナイスネイチャくんの話だ」

 

 その名が出た瞬間、魔術師のグラスを持つ指が、ほんの僅かに、コンマ数ミリだけ硬直した。悪友の鋭い観察眼が、その微細な変化を見逃すはずもなかった。彼の口角が、さらに意地悪く、そして深く吊り上がる。

 

「風の噂に聞いたぞ。あの見目麗しく、家庭的で、しかもダービーを制覇するほどのポテンシャルを秘めたお前さんの最高の傑作が、今や半ばお前の寮に住み着き、甲斐甲斐しく三食の世話まで焼いているそうじゃないか」

 

 悪友は、わざとらしく呆れたような表情を作った。

 

「お前のような、理屈っぽくて仏頂面で、愛想の欠片もない男がモテる? それも、あんな最高峰のウマ娘に? ……可笑しいな。宇宙の物理法則がどこかで狂っているとしか思えん。滑稽なほどだ」

 

「……彼女は、陣営の筆頭として私の健康管理を補佐しているに過ぎない。合理的な生活基盤の維持は、指揮官のパフォーマンスに直結するからな。君の脳内にあるような、通俗的な恋愛感情とは――」

 

「よせよ。言い訳は」

 

 悪友は、呆れ半分といった様子で魔術師の言葉を遮った。

 

「戦術面でなら、お前のその鉄壁の詭弁に付き合ってやってもいいさ。だが、男女の機微という戦略次元において、俺の目を誤魔化せるなどと思い上がるなよ。……彼女の献身を『合理的な補佐』などという言葉で片付けるのは、言葉への冒涜であり、何より彼女の心への無礼だ」

 

 そこには、いつもの皮肉めいた響きの中にも、長年の友に対する確かな忠告の色が混じっていた。魔術師は、反論を飲み込み、ただ無言でグラスを見つめた。

 

「お前は、ターフの上ではどんな不確定要素も計算し尽くす稀代の軍師かもしれない。だが、己の足元にある感情という地雷原に対しては、まるで臆病な新兵だ」

 

 悪友は、シガーケースから葉巻を取り出し、火を点けた。紫煙が、二人の間に薄いベールのように立ち上る。

 

「女の愛情というものは、無限に湧き出る補給物資ではない。時間という有限の資源の中で、いつかは必ず決断を迫られる時が来る。お前がその安楽椅子に深く腰掛けたまま、彼女の献身という名の要塞に甘え続けるつもりなら……いつか、決定的なタイミングを失うぞ」

 

 それは、数多の女性との浮き名を流し、同時に数多の別れを経験してきた男だからこそ言える、極めて実践的で重みのある忠告であった。

 

「……君に恋愛論を説かれる日が来るとはな」

「優秀な参謀の助言は、素直に聞いておくものだぜ。指揮官殿?」

 

 悪友はニヤリと笑い、魔術師の肩をポンと叩いた。

 

「さっさと決めてしまえよ。……お前のその、堅苦しい防衛線を彼女に明け渡す覚悟をな」

 

 突きつけられた言葉に対し、魔術師はしばらくの間、静寂を保った。

 

 グラスの氷が完全に溶け、水面が静かに揺れる。やがて彼は、ふっと、これまで見せたことのないような、ひどく人間臭い、自嘲と諦念の入り交じった微苦笑を漏らした。

 

「……わかっているさ」

 

 たった一言。

 

 しかし、その短い言葉の中に込められた意味を正確に悟った悪友は、満足げに喉を鳴らして笑い、自らのグラスを高く掲げた。

 

「ならば、明日の勝者に祝杯を」

 

 

 悪友と別れ、冷え込みの厳しくなった夜の街を一人歩く。

 

 トレーナー寮への帰路。吐く息は白く、冬の気配が色濃く漂う舗道には、街灯の光が規則的に落ちていた。

 

 外套の襟を立てながら、魔術師は自らの内面へと深く沈潜していた。わかっている。悪友に指摘されるまでもなく、事の重大さは彼自身が一番よく理解していた。

 

 彼はこれまで、ウマ娘たちを過酷な競争社会の中で「壊さない」ために、徹底した安全圏の構築――撤退戦を指揮してきた。それは、感情や精神論といった不確定要素を極限まで排除し、データと論理のみで盤面を支配する防衛戦術であった。

 

 だが。

 

 ナイスネイチャというウマ娘は、彼が構築したその堅牢な防衛線を、力技で破壊するのではなく、極めて静かに、そして圧倒的な熱量をもって内側から溶かしてしまったのである。

 

 手作りのタッパーから始まった補給線は、いつしか彼の生活そのものを包み込む巨大な要塞へと変貌していた。

 

 彼女の存在は、今や彼の日常における最大の「前提条件」となっていた。

 

 彼女が淹れるコーヒーの温度。

 

 彼女が作る夕餉の匂い。

 

 彼女が、「先生」と呼ぶ時の、あの微かに甘えるような声の響き。

 

 それらが欠けた生活など、もはやシミュレーションすることすら不可能だった。

 

 論理では割り切れない。データでは測れない。それは、安楽椅子の魔術師にとって、最も忌避すべき『不合理』な事象のはずだった。しかし、その不合理がもたらす温もりに、彼は完全に降伏していたのである。

 

(まったく……私は、気づく間もなく。とてつもない包囲網を敷かれていたというわけか)

 

 魔術師は、足を止め、夜空を見上げた。星々が冷たく瞬いている。しかし、彼の胸の内には、確かな熱が宿っていた。

 

(いや……気づいてはいたな。言い訳に過ぎない)

 

 彼は、外套の右ポケットに手を差し入れた。指先が、硬く、小さなベルベットの箱に触れる。

 

 それを購入したのは、もう数ヶ月も前のことだった。

 

 いくつかの大舞台を制し、彼女が絶対王者としての地位を確立した後。彼は、自らの人生というレースにおける戦術的次の一手として、この小さな箱を用意した。

 しかし、いつ渡すべきかという「論理的かつ合理的なタイミング」を計算し続けているうちに、時間だけが過ぎ去ってしまったのだ。

 

 悪友の言葉が脳裏に蘇る。

 

 

 ――()()()()()()()()()()

 

 

(そうだ。感情という盤面に、完全なタイミングなど存在しない。あるのは、決断という名の前進だけだ)

 

 ポケットの中の小箱をしっかりと握りしめ、魔術師は再び歩き出した。その足取りは、いつになく力強く、迷いがなかった。

 

 

 トレーナー寮の自室の前に立ち、鍵穴にキーを差し込む。ガチャリ、という硬質な音と共に扉を開けると、そこには、冷え切った冬の夜気とは無縁の、圧倒的なまでに温かく、そして愛おしい空間が広がっていた。

 

 換気扇の回る音。出汁の香りと、ほんのりとした醤油の匂い。玄関の明かりが点き、キッチンの奥から、パタパタというスリッパの音が近づいてくる。

 

「あ、せんせー。おかえりなさーい。遅かったですね」

 

 そこには、エプロン姿のナイスネイチャが立っていた。ターフの上で十万人の大歓声を浴びる、あの威風堂々たる重装歩兵の姿はない。

 

 あるのは、ただ一人の男の帰りを待ちわび、夕飯の支度をしながら微かに頬を紅潮させている、一人の年相応の少女の――いや、一人の美しい女性の姿だった。

 

 彼女の背後には、湯気を立てる味噌汁と、色鮮やかに盛り付けられたおかずが並ぶ食卓が見える。それは、世界中のどんな権力者が集う晩餐会よりも、彼にとって価値のある、何物にも代えがたい日常の風景であった。

 

 魔術師は、扉を閉め、ゆっくりと靴を脱いだ。そして、いつもと同じように、極めて平坦で、しかし確かな熱を帯びた声で応じた。

 

「……ああ。ただいま」

 

「ご飯、ちょうど出来たとこですよ。お風呂が先ですか? それとも――」

 

「ネイチャ」

 

 名前を呼ばれ、彼女は小首を傾げた。魔術師は、外套を脱ぐこともせず、そのまま彼女の目の前へと歩み寄った。そして、右手のポケットから、ずっと温め続けていたあの小さなベルベットの箱を取り出した。

 

「――遅くなったが。土産だ」

 

 そう言って、彼はその小箱の蓋を、パチン、と静かに弾き開けた。

 

 室内の暖色の明かりを乱反射し、箱の中で白銀の光が瞬いた。プラチナの台座に鎮座する、小ぶりだが混じり気のない、完璧なカットを施された一粒の石。それは、いかなる言葉よりも雄弁に、彼が下した『最終決断』の意味を物語っていた。

 

「……えっ?」

 

 ナイスネイチャの動きが、完全に停止した。彼女の大きく見開かれた瞳に、白銀の指輪の輝きが映り込む。それは、彼女が何年もかけて築き上げてきた献身という名の包囲網が、ついにこの堅物な魔術師の最強の防衛線を陥落させた、歴史的な瞬間であった。

 

「せ、先生……これ、って……」

 

「先行投資だ」

 

 震える声で問いかける彼女を見下ろし。安楽椅子の魔術師は、いつものシニカルなそれとは違う、これ以上ないほど不器用で、しかし誠実な笑みを浮かべて告げた。

 

 

「私の残りの人生という盤面を……君に、完全に明け渡そうと思ってね」

 

 

 

 ―――かくして。

 

 

 才なき者たちの撤退戦を指揮し続けた男は、生涯でたった一度の、そして最も幸福な『無条件降伏』を受け入れたのである。

 

 

 ………後世の歴史には記されることのない、しかし、二人の歴史において最も偉大な、静かなる夜のことであった。




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明くる陽の皐月賞
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