ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話   作:灯火011

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歩み寄りの浸透戦術

 翌日。

 

「……あの、おはようございます」

 

 昨夜の決裂から一夜明け、ネイチャは恐る恐る、少し気まずそうにトレーナー室のドアを開けた。しかし、そこには気まずさなど微塵も感じさせない、いつも通りの男の姿があった。

 

「ああ、おはよう。今日の分のメニューはこれだ」

 

 彼はパーソナルチェアから立ち上がりもせず、タブレット端末をスッと差し出した。画面を受け取ったネイチャは、そこに書かれた文字を見て目をパチクリとさせた。

 

「……『坂路コースを駆け下りろ』? 駆け上がる、じゃなくてですか?」

 

「そうだ。後ろ向きの次は、駆け下りだ」

 

 トレーナーは本に視線を落としたまま、淡々と解説を始める。

 

「人間もウマ娘も、スピードを出すことにばかり意識が向きがちだが、戦術において最も重要なのは『いかに安全に止まるか』だ。下り坂を走ることで発生するエキセントリック収縮(伸張性収縮)は、脚部のブレーキ能力を劇的に高める。暴走するだけの機関車はいずれ脱線する。自分のトップスピードを完全に制御できる強靭な膝と大腿四頭筋を作らなければ、君の言う『未来』には辿り着けないからね」

 

「あ……」

 

 昨夜はあんなに冷たく突き放したくせに、用意されていたメニューは、昨日よりもさらに彼女の「その先」を見据えた、緻密で完璧なものだった。

 

「ほら、理屈が分かったら行きなさい。怪我だけはしないように」

「……はいっ!」

 

 彼なりの不器用な誠実さに触れ、ネイチャは少しだけ弾んだ声で返事をし、バ場へと向かった。

 

 

 そして放課後。夕暮れの商店街。揚げ物屋の軒先で、ネイチャは盛大に肩を落としていた。

 

「――というわけで、見事に平行線のまま帰されてきちゃいました……はぁ」

 

「よしよし、ネイチャちゃん。えらいえらい。頑張ったよぅ」

 

 すっかり意気消沈して突っ伏すネイチャの隣には、なぜか一緒に店へついてきたマチカネタンホイザが陣取り、ふんわりとした手つきで彼女の頭を優しく撫でていた。

 

「あーあ……あの変人先生、やっぱりそう簡単には頷かないかー。筋金入りの平穏好きだもんねぇ」

 

 エプロン姿のOGが、ネイチャのために揚げたてのアジフライを紙皿に乗せながら困ったように苦笑する。すると、厨房の奥から様子を聞いていた店主のおっさんが、ガハハと豪快に笑い声を上げた。

 

「はっはっは! そりゃあ傑作だ! 相手も相当な頑固もんだな、おい!」

 

「ちょっと店長! 笑い事じゃないですよ!」

 

 OGが柳眉を逆立てて、おっさんをキッと睨みつけた。

 

「トレーナーとの契約ってウマ娘の一生が決まる話なんですからね! ネイチャの才能をあのまま腐らせていいわけないでしょ!?」

 

 そのOGの剣幕に対し、おっさんは笑いをピタリと止め、油を切っていたトングをカンッ! と金属のバットに打ち付けた。

 

「バカ野郎!!」

 

 店中に響き渡るような一喝。ビクッとして肩をすくめるネイチャとタンホイザに向かって、おっさんは厨房から身を乗り出し、鋭い眼光を向けた。

 

「一生が決まるんなら、一筋縄で行くわけねぇだろうが!!」

「えっ……」

 

「いいか、お嬢ちゃん。一生が決まる大事な勝負なんだろ? だったら、今が一生で一番苦労する瞬間ってことだろうが! 相手が頑固なら、なおさら一度や二度断られたくらいでウダウダ言ってんじゃねぇ! 扉が開かねぇなら、開くまで体当たりしてぶっ壊すしかねぇんだよ!」

 

 おっさんの言葉は、油の熱気よりも熱く、真っ直ぐにネイチャの胸に突き刺さった。

 

「一生で一番、苦労する瞬間……」

 

「そうだ。楽して一生の面倒見てもらおうなんて甘い考え、捨てちまいな。自分の人生賭けるだけの価値がある男だって見込んだんだろ? じゃあ、何度でも当たっていくしかねぇ!」

 

「店長……」

 

 OGは毒気を抜かれたようにぽかんとし、タンホイザは。

 

「おおーっ、おじさんかっこいいーっ」

 

 と呑気に拍手をしている。ネイチャは紙皿の上で湯気を立てるアジフライを見つめながら、その言葉を何度も反芻した。

 

(そうだ。先生は逃げてるんじゃない。アタシの重さ(未来)を誰よりも理解しているからこそ、無責任に手を取れないんだ)

 

 ならば、自分にできることは一つしかない。何度突き放されても、絶対に安全な領域から彼を引きずり出してでも、その手を取る価値があると、彼自身の「計算」を上回るだけの覚悟を見せつけるしかないのだ。

 

「……確かに」

 

 ネイチャは顔を上げ、先ほどまでの落ち込みが嘘のように、力強い瞳で空を見据えた。

 

「一生が決まるんだから、ここで諦めたら一生後悔しますよね。……よしっ!」

 

 両手でパンッと頬を叩き、彼女は立ち上がった。

 

「ありがとう、おじさん! おねーさんも、タンホイザも! アタシ、明日も明後日も、先生が根負けするまで突撃します!」

 

「おう! その意気だ! ほら、オマケのメンチカツも食ってけ! そっちのお嬢さんは?」

「わーい! 私も食べますー!」

 

 落ち込んでいたのが嘘のように活気を取り戻したウマ娘たちの声が、夕暮れの空に響き渡る。平行線のままでは終わらせない。ナイスネイチャの本当の「戦い」は、ここから始まるのだった。

 

 

 その日の夜。再び寮長の許可を取り付けたナイスネイチャが、覚悟を決めてトレーナー室のドアを叩くと、そこには昨日と全く同じ光景が広がっていた。

 

 いや、一つだけ違う点があった。彼の手元には、すでに彼女のためのデカフェの珈琲が、湯気を立てて用意されていたのだ。

 

「……こんばんは、先生」

 

「やあ。律儀な侵攻軍の再来だね。君が二度目の突撃を敢行する確率は、過去のデータと君の性格から推測して、およそ九割五分といったところだと計算していたよ。さあ、冷めないうちに座りたまえ」

 

 トレーナーは本にしおりを挟み、悪びれる様子もなく肩をすくめた。まるで、あらかじめ包囲網を敷いて待っていた老獪な将軍のような出迎えに、ネイチャは毒気を抜かれながらも、勧められたソファーに腰を下ろした。

 

「……先生。私が今日ここに来た理由、分かってますよね?」

 

「当然だとも。君は昨日と同じ要求状を突きつけに来た。そして私は、昨日と同じくそれをテーブルの下に放り投げる。見事なまでの膠着状態、軍事用語で言えば『塹壕戦』というやつだね」

 

 彼は自分のブラックコーヒーを啜りながら、どこまでも冷静に、そしてのらりくらりと躱しにかかる。

 

「塹壕戦においては、両軍ともに決定的な打撃を与えられないまま、ただ徒らに時間と物資、すなわち兵站をすり減らしていくことになる。歴史上、この手の持久戦が有意義な結末を迎えた例は極めて少ないんだが……まぁいい。ひとまずは、互いの主張が完全に平行線であることを確認した上で、昨日の続きではなく、今日の話をしようじゃないか」

 

 彼は話題を鮮やかに切り替えた。

 

「今日のトレーニングはどうだったかな。あの『駆け下り』のメニューは」

 

 その問いに、ネイチャは顔をしかめ、自分の太ももを軽くさすった。

 

「……いや、本当に無茶苦茶ですよ、あれ。今はまだ平気ですけど、これ、明日は絶対に酷い筋肉痛になります」

 

 彼女の恨み言を聞いて、トレーナーは「ふむ」と満足げに頷き、再び講義を始める学者のような顔つきになった。

 

「筋肉痛。遅発性筋肉痛、というやつだね。実に興味深い生理現象だよ。過負荷の運動、特に下り坂のようなエキセントリック収縮によって、筋繊維には微細な損傷――つまり『破壊』が生じる。身体はそれを危機的状況と認識し、炎症反応を起こしながら、以前よりもさらに強固な組織として再構築しようとする。超回復と呼ばれるプロセスだ」

 

 彼は指先で宙に図形を描くようにしながら、悠然と言葉を紡ぐ。

 

「歴史を見れば明らかなことだがね、国家もまたこれと同じだ。一度も外敵の侵略や内乱といった『損傷』を経験したことのない国家は、一見平和で幸福に見えるが、その実、極めて脆弱だ。いざ想定外の衝撃を受けた時、容易く瓦解してしまう。逆に、適度な敗北や計算された損害を受け入れ、それを教訓として社会システムを再構築した国家は、したたかに生き残る」

 

「……」

 

「だがね、ナイスネイチャ」

 

 トレーナーの瞳が、急に温度を下げた。

 

「筋肉の超回復も、国家の再建も、すべては『適切な休息』と『十分な兵站(栄養)』が確保されているという大前提の上にのみ成り立つものだ。休む間もなく損傷を与え続ければ、筋繊維は再構築の暇を与えられず、最終的には断裂する。国家も、度重なる戦争による疲弊を放置すれば、やがては革命や滅亡の憂き目に遭う」

 

 彼は深く息を吐き、ネイチャを真っ直ぐに見据えた。

 

「私がG1や重賞という舞台を避ける理由は、まさにそこにあるんだ。あそこは、群衆の熱狂という麻薬によって、選手たちに休息を忘れさせ、限界を超えた『損傷』を強要する戦場だ。君が明日感じるであろうその筋肉痛が、もし回復不可能な致命傷へと変わってしまった時……私は、君の人生という長い歴史に対して、一体どう責任を取ればいいというんだい?」

 

 それは、ただ逃げているだけの男には決して言えない、教え子の「全人生」の重みを背負うことへの、強烈な恐怖と責任感の吐露だった。

 

 長ったらしく、理屈っぽく、そしてどこまでも誠実な彼の「平行線」の理由。ネイチャはデカフェのカップを両手で包み込みながら、彼のその長い長い演説を、一言も漏らさずに受け止めていた。

 

「……先生の言いたいことは、よくわかります」

 

 ネイチャは顔を上げ、静かな、しかし決して引かない声で応じた。

 

「確かに、重賞の舞台は厳しいし、怖いし、怪我をするかもしれない。先生がアタシのために、そこから遠ざけようとしてくれているのもわかります。でも」

 

 彼女はカップをテーブルに置き、真っ直ぐに男の目を射抜いた。

 

「今日の駆け下りのメニュー……先生は、私の筋肉が『壊れないギリギリのライン』を完璧に計算して、メニューを組んでくれましたよね?」

 

「……それは、まぁ。指導者としての最低限の……」

 

「重賞でも、それは同じじゃないですか」

 

 ネイチャの言葉に、トレーナーは言葉を詰まらせた。

 

「先生の完璧な兵站管理と戦術があれば、アタシは壊れずに、強くなれる。先生が限界を見極めて『ストップ』をかけてくれるなら、アタシはその線を超えません。先生は、自分の計算と采配を……そして、それに絶対に従うアタシのことを、もっと信用してくれてもいいんじゃないですか?」

 

「……君ねぇ」

 

 トレーナーは頭を抱え、天井を仰いだ。

 

「君は、私が最も恐れている『不確定要素』というやつを甘く見ている。戦場において、人間の感情や闘争本能ほど計算を狂わせるものはないんだ。君が私の指示に従うと言っても、極限の状況下でそれが守られる保証はどこにもない」

 

「保証なら、これからアタシが証明します」

 

 ネイチャはきっぱりと言い切った。

 

「明日も、明後日も。先生がアタシを信用して、その重い腰を上げてくれるまで、アタシは何度でもこの部屋に突撃します。これは先生が折れるか、アタシが諦めるかの、正当な持久戦です」

 

「……やれやれ。どうやら、君の辞書に『撤退』という文字は書き込まれていないらしい」

 

 トレーナーは降参したように両手を上げ、力なくソファーに背中を預けた。しかし、その口元には、ほんの僅かだが、困惑とは違う微かな笑みのようなものが浮かんでいたようにも見えた。

 

「いいだろう。この塹壕戦、どちらの兵站(根気)が先に尽きるか、せいぜい歴史の実験として付き合わせてもらうとしようか。……ただし、明日の筋肉痛のケアだけは、怠らないようにしたまえ。負傷兵を野ざらしにするような真似は、私の趣味ではないんでね」

 

「はいっ!」

 

 平行線は、まだ交わらない。しかし、互いの陣地の距離は、確実に、そしてわずかずつだが縮まり始めていた。深夜のトレーナー室には、冷めたコーヒーの苦味と、次の歴史が動く予感が静かに満ちていた。

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