ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
翌日の午後。こぢんまりとしたトレーナー室は、甘い焼き菓子の香りと、華やいだ女性たちの笑い声に包まれていた。
休日を利用して遊びに来た数人の卒業生(OG)たちの中には、あの商店街で揚げ物屋を営む「おねーさん」の姿もあった。彼女たちが持ち込んだ有名店のケーキを切り分け、極上のダージリンティーを淹れるのは、当然のようにこの部屋の主であるトレーナーの役目である。
彼がそれぞれのカップに紅茶を注ぎ終え、自らの定位置であるパーソナルチェアに深く腰を下ろして一息ついた、まさにその時だった。
「そういえば先生」
揚げ物屋のOGが、フォークを片手にいたずらっぽい笑みを浮かべて口を開いた。
「最近、熱烈なトレーナーファン……もとい、先生が日頃から一番避けたがっているタイプの、あの『厄介な才能』を持つウマ娘が、連日押し掛けてきているそうですねぇ?」
その言葉に、トレーナーは紅茶のカップを口に運ぼうとしていた手をピタリと止め、ゆっくりとソーサーに戻した。そして、微かに痛み出したこめかみを指先で揉みほぐしながら、細めた目で彼女を見遣る。
「……軍事機密というものは、得てして後方から漏洩するものだがね。一体どこでその情報を仕入れてきたんだい?」
「ふふっ。うちの商店街、ひいては私の店の常連客なんですよ、あの子。昨日の夕方も、随分と悲壮な顔をしてコロッケを齧りに来ましてね。まぁ、店長の檄で立ち直って帰りましたけど」
その答えに、トレーナーは「やれやれ」と本日最初の深いため息を吐き出した。情報網が完全に包囲されている。民衆の支持(この場合は商店街のネットワーク)を得たゲリラ部隊ほど、正規軍にとって手を焼く存在はない。
二人のやり取りを聞いていた他のOGたちは、目を丸くして身を乗り出してきた。
「えっ、ちょっと待って! 先生からのスカウトじゃなくて、あっちから直談判に来てるんですか!?」
「うわー、珍しい! 先生、正式に契約したんですか!?」
興味津々で詰め寄る教え子たちに対し、彼は隠すことでもないため、あっさりと事実を口にした。
「いや、今のところは『仮契約』という名目での局地的な戦術指導に留めている。……だが、毎夜毎夜、門限破りスレスレの時間に私の部屋へ直談判にやって来るものでね。塹壕戦を仕掛けられている気分だよ。全く、最近の最大の頭痛の種だ」
肩をすくめて面倒くさそうにぼやく彼に対し、OGの一人が小首を傾げて尋ねた。
「へえ……先生がそこまで頑なに契約を渋るなんて。そのナイスネイチャちゃんって、そんなに凄い子なんですか?」
「そうだな」
トレーナーは深く息を吸い込み、天井の染みを少しの間見つめた。そして、学者としての、あるいは冷徹な戦術家としてのスイッチが入ってしまったかのように、その口は滑らかに動き始めた。
「才能は、間違いなく一級品だろう。いや、一級品という単語では、彼女の持つ特異な戦術的価値を正確に表しきれていないな。大半の人間は、彼女を『平均的で地味なウマ娘』だと誤認している。それは彼女自身が過剰なまでの謙遜というバイアスを自己にかけているからに過ぎない」
彼は身を乗り出し、テーブルの上で両手の指を組んだ。
「彼女の真の恐ろしさは、その絶望的なまでの『客観性』と『肉体的な耐久性(レジリエンス)』の同居にある。いいかい、突出したスピードや天性のバネを持つウマ娘は、往々にしてその才能に振り回され、自らをコントロールできずに自壊していくリスクを抱えている。だが、彼女は違う。自分の限界点をミリ単位で把握し、私が指示したペース配分やブレーキのタイミングを、どんな過酷な状況下でも寸分違わず実行できる知性と制動力を有しているんだ。坂路の逆走や駆け下りといったイレギュラーな負荷に対しても、彼女の筋肉組織は驚異的な適応を見せた。これは、戦史において例えるなら、どんな地形や悪天候下であっても、指揮官の意図通りに完璧な陣形転換を行い、決して崩壊しない最精鋭の重装歩兵部隊を意味する」
熱を帯びた言葉は、もはや止まらなかった。
「加えて言えば、彼女の精神力(メンタリティ)だ。天才に囲まれ、己を凡人と卑下しながらも、決してターフを去ろうとはしないあの粘り強さ。戦場において最も重要なのは、一時的な突破力ではなく、泥沼の消耗戦に耐えうる継戦能力だ。彼女を適切な戦場に投入し、完璧な兵站線を構築してやれば、G1という熱狂の魔窟であろうと、相手の自滅を誘いながら確実に上位へ食い込むことができる。まさに、勝利を計算できる無比の戦力――」
「なんだ、先生」
呆れたような、それでいてどこか温かい声が、彼の長広舌を断ち切った。
「もう、ナイスネイチャにゾッコンじゃないですか」
「……は?」
トレーナーは虚を突かれたように口を半開きにし、瞬きを繰り返した。目の前では、揚げ物屋のOGが頬杖をつきながら、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべている。
「本当本当! 今まで私たちのことを分析する時だって、そんなに熱っぽく語ったことなんて一度もなかったじゃないですか!」
「先生、言葉では『頭痛の種』とか言ってますけど、本当は彼女の才能を見せつけられて、ワクワクしちゃってるんでしょう?」
他のOGたちも手を叩いて笑い合い、完全に彼を包囲していた。
「あ、いや。そういうわけでは……私はただ、純粋に客観的なデータに基づいた戦術的評価を述べたに過ぎない。指導者として、対象の能力を正確に把握するのは当然の――」
「先生」
言い訳を重ねようとする彼を制したのは、先ほどまで笑っていた揚げ物屋のOGの、静かで、どこまでも真摯な声だった。
彼女は姿勢を正し、かつての恩師へ真っ直ぐに視線を向けた。
「……私たちウマ娘の、引退した『その後』の長い未来を最優先に考え、絶対に怪我をさせないように指導してくれる。先生のその生存主義が、どれほどありがたいものか……社会に出た今なら、痛いほどよくわかります」
彼女たちの言葉には、嘘偽りのない感謝の念が込められていた。無理をせず、実績と資金を蓄え、五体満足で次のキャリアへ進む。その恩恵を誰よりも受けているのが、他ならぬ彼女たち自身なのだから。
「でもね、先生」
OGは、祈るように両手を胸の前で組んだ。
「そのナイスネイチャという子は、先生自身がそれほどまでに語り尽くしてしまうほど、先生が認めた『本物の才能』なんでしょう? 先生のその完璧な戦術眼と、彼女の能力が合わされば、私たちが届かなかったあの『高み』の景色だって、怪我なく見られるかもしれないじゃないですか」
「……それは、歴史における危険な賭けだ。不確定要素が多すぎる」
「ええ、賭けかもしれません。でも、彼女は先生の力を必要として、毎晩その扉を叩いているんですよね? もし、彼女が他の無謀なトレーナーの下について、無理な特訓で脚を壊してしまったら……先生は一生、後悔しませんか?」
その問いは、トレーナーの急所を的確に貫いた。
「指導者(指揮官)の最大の責任は、部下を生きて帰すこと。先生はいつもそう言っていました。でも、本当に優秀な指揮官なら……戦う覚悟を決めた兵士に、生き残る術と、そして『勝利の栄光』の両方を与えてあげるべきなんじゃないですか?」
静寂が、部屋を包み込んだ。OGたちの真剣な眼差しが、一斉に彼に注がれている。
「どうか、見捨てないであげてください。先生の『ハイペリオン』の理想を、あの子なら、きっと……」
トレーナーは、返す言葉を見つけられなかった。
紅茶はすっかり冷めきっている。彼はただ、目を閉じて深く、重い息を吐き出すことしかできなかった。彼の頭の中では、論理と感情という、決して相容れないはずの二つの大軍が、己の生存戦略という名の城壁を内側から激しく打ち据え始めていた。
■
その日の夜。
教え子たちが帰り、再び静寂を取り戻したトレセン学園の片隅で、トレーナーはたった一人、思考の海へと深く潜行していた。
デスクの上には、開かれたままの『近世ヨーロッパ兵站史』と、すっかり冷めきったブラックコーヒー。彼はパーソナルチェアに深く背中を預け、両手の指を組んで目を閉じていた。
「……二律背反(アンチノミー)だな」
静かな部屋に、独り言がぽつりと落ちる。
彼の教義は「生存第一」であり、「優雅な配当生活のための安全な資金稼ぎ」である。G1や重賞といった、怪我のリスクが跳ね上がる激戦区には決して近づかない。それが彼の築き上げた、完璧で不可侵な絶対防衛線だった。
しかし、昼間に教え子たちから突きつけられた言葉が、城壁の内部で燻り続けている。
『彼女が他の無謀なトレーナーの下について、無理な特訓で脚を壊してしまったら……先生は一生、後悔しませんか?』
「……歴史上、最も愚かな指揮官というのは、自らの教条(ドグマ)に固執するあまり、目の前の現実と変化に対応できない者のことを指す」
彼は組んだ指に顎を乗せ、面倒くさそうに顔をしかめた。
「私の目的は、平穏無事な老後を迎えることだ。そのためには、精神衛生を良好に保つ必要がある。もし仮に、私がナイスネイチャの要求を完全に退け、彼女が別の熱血指導者の下へ行き、結果としてG1の激戦の中でその脚を壊したとする。……間違いなく、私はひどい自己嫌悪に陥るだろう。毎晩ベッドに入るたびに『あの時、私が手綱を握っていれば』という後悔に苛まれることになる。それは私の睡眠の質を著しく低下させ、健康寿命を縮め、結果として『平穏な老後』という最終目的を致命的に脅かす要因となる」
詭弁だ。自分が一番よく分かっている。
だが、そうやって理屈をこね回さなければ、己の信条を曲げることへの折り合いがつかないのだ。
「そもそも、だ。指導者というのは、才能を見出してしまうと、それを最も美しく、かつ完璧な形で開花させてみたくなるという、極めて厄介で業の深い生き物らしい。……ああ、本当に忌々しい。あの時、図書室で彼女の知的好奇心に関心を持たなければ。いや、あの無謀な坂路の逆走メニューを完璧にこなす肉体的な制動力(ブレーキ)を見せつけられなければ、私とてここまで頭を悩ませることはなかったのだ」
才能がないウマ娘なら、いくらでも諦めさせられた。
だが、彼女にはある。それも、ただ速いだけではない、自分の指示をミリ単位で実行できる「最強の重装歩兵」としての稀有な才能が。
「……G1という名の総力戦。そこで、一切の負傷者を出さずに、完璧な兵站管理と戦術行動のみをもって完全勝利を収める。それは、我が『ハイペリオン』の生存教義が、最高難易度の戦場においても通用するという、歴史的証明になるのではないか? だとすれば、彼女の才能を借りてその実験を行うことは、強ち無駄なこととは言えない……いや、待て待て」
彼は自分で自分の思考を遮り、両手で頭を抱えてガシガシと乱暴に掻きむしった。
「ダメだ、思考が完全に現場の熱狂に引きずられている。そんな名誉欲や自己顕示欲は、私の人生には一ミリも必要ないもののはずだ。なぜ私が、自ら泥沼の最前線へ赴くような真似をしなければならない? 面倒だ。あまりにも面倒すぎる。私はただ、美味しいコーヒーを飲みながら、インデックスファンドの利回りを眺めていたいだけなのに……!」
頭を抱えながら、彼はうめき声を上げた。
逃げたい。
だが、逃げれば後悔する。
戦いたくない。
だが、戦わなければ彼女の才能は誰かに消費され、壊されてしまうかもしれない。
「……やれやれ。どうやら、結論はすでに出ているらしい。私は、自分の良心の呵責から逃れるために、最も困難で割に合わない戦場を選ぶという、歴史上よくある愚か者の轍を踏むことになりそうだ」
彼は深く、本当に底の底から絞り出すような深いため息を吐いた。そして、重い腰を上げて立ち上がり、デスクの上の冷めたコーヒーをシンクへ流しに行こうとした、まさにその時だった。
コンコン。
深夜の静寂を破る、控えめで、しかし確かな意志を持ったノックの音。
「こんばんは、先生。……今日も、寮長に許可をもらってきました」
扉の向こうから聞こえてきたのは、毎晩のように塹壕戦を仕掛けてくる、あの厄介で、ひたむきで、自身の怠惰な防衛線を内側から打ち崩した「不確定要素」の声だった。