ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話   作:灯火011

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ナイスネイチャとトレーナーの契約

「……入りたまえ」

 

 扉越しに声をかけると、カチャリと静かな音を立ててドアが開いた。

 

 現れたナイスネイチャは、昨夜までのどこか悲壮感や緊張感を漂わせた面持ちとは少し違い、静かな、しかし確固たる覚悟を秘めた瞳をしていた。彼女は迷うことなく部屋の中へ足を踏み入れると、もはや「指定席」となりつつあるソファーの定位置へと堂々と腰を下ろした。

 

 トレーナーは無言のまま立ち上がり、コーヒーメーカーへと向かう。やがて、コトリと彼女の目の前に置かれたカップからは、いつものようなデカフェの穏やかな香りではなく、深くローストされた豆特有の、力強く鋭い香りが立ち上っていた。

 

「あの、先生……これ」

「今日は、私の手ずから淹れた特製のブラックコーヒーだ」

 

 彼は対面のパーソナルチェアに深く腰を沈め、自分の分のカップを手に取った。

 

「戦場へ赴く前夜に、兵士に白湯やデカフェを振る舞う指揮官はいない。カフェインという劇薬は、これから始まる泥沼の長期戦において、君の脳を極限までクリアに保つための最低限の兵站物資だからね」

 

「戦場……それって」

 

 ネイチャがハッと顔を上げたのを手で制し、彼は静かに、しかしどこまでも理詰めの演説を開始した。

 

 

「ナイスネイチャ。まずは、客観的な事実から述べさせてもらおう」

 

 彼はカップを口へ運び、その苦味を舌の上で転がすように味わってから言葉を繋いだ。

 

「私はこれまで、才能あるウマ娘を意図的に避けてきた。それは事実だ。なぜなら、突出した才能というものは、得てして自らを制御できず、周囲の熱狂に飲まれて自壊していくという歴史的必然性を孕んでいるからだ。だが、この数日間のデータ収集と分析の結果、私は自分の認識を一部改めざるを得なくなった」

 

 彼は指先を組み、真っ直ぐにネイチャの目を見据えた。

 

「君の才能は、観衆を一瞬だけ熱狂させて燃え尽きるような、浅薄で危険なものではない。己の限界を冷徹なまでに客観視し、指揮官の意図した作戦行動をミリ単位の精度で実行できる知性。そして、イレギュラーな負荷に対しても即座に適応し、決して崩壊しない肉体的な耐久性(レジリエンス)。……いいかい、これは戦史において、どんな名将であろうとも喉から手が出るほど渇望する、完璧にして無比なる『重装歩兵』の素質に他ならない」

 

「あ、う……そ、それは……」

 

 あまりにも直球で、しかも歴史的スケールで語られる自身の評価に、ネイチャは顔を真っ赤にして視線を泳がせた。いつもの「私なんか」という謙遜を挟む隙も与えないほどの、徹底した論理による大絶賛である。彼女はソファーの上で身を縮こまらせ、居心地の悪さに尻尾をパタパタと揺らした。

 

「客観的なデータに基づいた事実だよ、謙遜は不要だ」

 

 彼は淡々とそう切り捨てると、ふっと自嘲するように口角を上げた。

 

「……だが、それゆえに問題が生じた。非常に厄介で、私の平穏な配当生活を根底から覆しかねない、致命的な二律背反(アンチノミー)だ」

 

 彼は天井を仰ぎ見ながら、長ったらしい自己問答の結論を吐露し始めた。

 

「君のその類稀なる能力は、間違いなく重賞、あるいはG1という狂気の祭壇にふさわしい。だが、私が君の要求を拒絶し、この部屋から追い出せばどうなるか。君はきっと、別の指導者の下へ行くだろう。そして、多くの熱血指導者たちは、君のその『決して文句を言わず、壊れないように見える耐久性』に甘え、際限のない消耗戦へと君を駆り立てることになる」

 

 歴史上、どれほどの精鋭部隊が、無能な指揮官の精神論と無謀な突撃命令によって消費され、泥の中に消えていったか。彼にはそれが、手に取るように予測できてしまったのだ。

 

「私は面倒ごとが嫌いだ。リスクを冒すことはもっと嫌いだし、できれば一生、安全な後方陣地で歴史書を読んでいたいと心の底から思っている」

 

 そこで彼は一度言葉を切り、組んでいた指を解いて、ネイチャへと身を乗り出した。その黒い瞳に宿っていたのは、怠惰な昼行燈のそれではなく、教え子の全人生を背負う覚悟を決めた、ただ一人の「指揮官」の光だった。

 

「だが……その才能を、どこかの愚か者に消費され、潰されるのを見過ごすわけにはいかない。……そう、思い直してね」

 

「先生……っ!」

 

 ネイチャの瞳が、大きく見開かれた。カップを持つ手が震え、水面が小さく波立つ。

 

「全く、とんだ貧乏くじを引かされた気分だよ。私がこの先、君の足が壊れるんじゃないかと胃を痛めながら、夜も眠れずに完璧なローテーションと兵站管理に頭を悩ませることになるのだからね。私の健康寿命の低下に対する責任は、君の今後の獲得賞金からたっぷりと補填させてもらうとしよう」

 

 彼はやれやれと大袈裟に肩をすくめ、わざとらしくため息をついてみせた。

 

「……それでも、もし君が、この面倒くさがりで、臆病な男の戦術(やりかた)を信じ、共に『高み』を目指すというのなら」

 

 彼はデスクの引き出しから、あらかじめ用意してあった一枚の書類――正式な『専属トレーナー契約書』を滑り出させ、テーブルの上に置いた。

 

「私の指示には絶対に従うこと。少しでも体に異常を感じたら、直ちに申告すること。そして何より……ターフを降りた後も、五体満足で幸福な人生を送ること。この条件を呑めるのなら、サインをしたまえ」

 

 ネイチャは、テーブルの上に置かれた契約書と、照れ隠しのようにそっぽを向いているトレーナーの横顔を交互に見つめた。そして、今にもこぼれ落ちそうになる涙を必死に堪えながら、弾かれたように立ち上がった。

 

「……はいっ!!」

 

 静かな夜のトレーナー室に、これ以上ないほど力強く、晴れやかなウマ娘の返事が響き渡った。

 

 

 翌朝。

 

 抜けるような青空が広がるトレセン学園。爽やかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、ナイスネイチャは真新しい決意とともに、昨日までとは違う「正式な教え子」としての第一歩を踏み出していた。

 

(いよいよ、今日から本格的な特訓が始まるんだ。……きっと、私の弱点をピンポイントで突くような、緻密で過酷なメニューが用意されているに違いない!)

 

 気合十分に、あのこぢんまりとしたトレーナー室のドアを元気よくノックする。

 

「おはようございます、先生! 本日からよろしくお願いします!」

 

 勢いよく扉を開けると、そこにはいつも通り、パーソナルチェアに深々と腰を沈め、読みかけの歴史書を片手に気怠げなあくびを噛み殺しているトレーナーの姿があった。

 

「ああ、おはよう。ナイスネイチャ。初日から時間通りとは感心だ」

 

 彼はパタンと本を閉じると、デスクの端に置かれたアンティーク調のコーヒーミルと、保存瓶に入った深煎りのコーヒー豆を指差した。

 

「さっそくだが、今日の第一ミッションを与えよう。そこにある豆を挽いて、私のために最高の一杯を淹れたまえ」

 

「…………はい?」

 

 予想外すぎる指示に、ネイチャは間の抜けた声を漏らし、そのまま入り口で硬直した。

 

「え、いや、あの。その……なんでアタシが、先生のコーヒーを淹れるんですか?」

 

「おや、疑問を持つのは良いことだが、今回はいささか不毛だね」

 

 トレーナーはやれやれと首を振り、まるで歴史の真理を説くような口調で滔々と語り始めた。

 

「いいかい、ナイスネイチャ。我がハイペリオン陣営における最大の兵器は、私のこの頭脳だ。そして、この頭脳を十全に稼働させるための唯一にして最大の燃料が、朝一番のカフェインなんだよ。つまり、私のコーヒーを淹れるという行為は、我がチームの生命線である兵站の最重要課題を担うに等しい。……それに」

 

 彼はそこで言葉を区切り、悪戯っぽく片目をすがめた。

 

「昨夜、君は自ら私の懐に飛び込んできた。そして『私の指示には絶対に従うこと』という契約条件に、力強くイエスと答えたはずだが?」

 

「うっ……!」

 

 見事なまでの屁理屈と、契約という名の正論を盾に取られ、ネイチャはぐうの音も出なかった。確かに言った。自分の口で、絶対に指示に従うと断言してしまったのだ。

 

「……横暴だ。初日から職権乱用ですよ、絶対……」

 

 ぶつぶつと文句を垂れながらも、持ち前の生真面目さと、どこか放っておけない世話焼き気質が顔を出し、彼女は渋々コーヒーミルを手に取った。

 

「豆の量はそこの計量スプーンですり切り二杯。お湯の温度は九十度前後が好ましい。蒸らしの時間は……まぁ、適当にやってみたまえ」

 

 安楽椅子からの一方的な指示を受けながら、ネイチャは見様見真似でミルを回す。ガリガリと豆が砕ける音と、立ち上る香ばしい匂い。だが、ハンドドリップなどやったことのない彼女の手つきは絶望的にぎこちない。お湯を勢いよく注ぎすぎて粉が溢れそうになったり、蒸らしの時間を無視して一気に抽出してしまったりと、その過程は惨憺たるものだった。

 

 やがて、なんとか形だけは整った赤黒い液体がカップに注がれ、コトリとトレーナーの前に置かれた。

 

「はい、お待ち遠さまです」

 

 少しムカつきながら差し出すネイチャ。トレーナーはカップを持ち上げ、香りを嗅ぎ、そして口をわずかに湿らせるように一口飲んだ。

 

 静寂が、部屋を包み込む。

 

 そして、彼は表情一つ変えずに、極めて端的に事実を告げた。

 

「まずい」

 

「そーですか、すいませんねー!」

 

 即座に放たれた身も蓋もない評価に、ネイチャは柳眉を逆立てて反論した。

 

「こっちは素人なんですから! 文句があるなら自分で淹れればいいじゃないですか!」

 

 憤慨しながら、彼女は自分用に適当なマグカップへ注いだ残りのコーヒーを手に取り、ソファーにドカッと腰を下ろした。

 

「だいたい、コーヒーなんてお湯の量と豆が同じなら、誰が淹れたってそんなに味が変わるわけ……」

 

 言いながら、勢いよくマグカップに口をつける。途端に、ネイチャの動きがピタリと止まった。

 

 舌の上を駆け抜ける、強烈なエグみ。豆の香ばしさを完全に殺し去った、ただただ焦げ臭くて泥水のように尖った酸味。それは、普段彼女がカフェで飲んでいるものとは似ても似つかない、紛れもない失敗作だった。

 

「…………まっず」

 

 カップを両手で持ったまま、彼女は心底嫌そうな顔でポツリと本音を漏らした。その完璧な間合いの自爆に、トレーナーは思わず肩を揺らして吹き出した。

 

「ふっ……はははっ! だろう? 歴史上のいかなる愚将でも、これほど見事に自軍の兵站物資を汚染してみせた者はいないよ」

 

「……笑い事じゃないですよぅ。本当に美味しくない……」

 

 涙目でマグカップをテーブルに置くネイチャを見て、彼はまだ笑いを含んだ声で告げた。

 

「ま、何事も初めから完璧にこなせる者などいない。名将というものは、敗北から学習し、次なる戦術へ活かす者のことを言うんだ。これからの君の成長に期待させてもらおう」

 

 彼は「まずい」と言い捨てたはずのカップに再び口をつけ、平然と喉を鳴らした。

 

「そういうわけだ。毎朝、私のコーヒーブレイクの準備をしに、ここへ来るように。君が『世界で一番美味しいコーヒー』を淹れられるようになるまで、私の厳しくも的確な指導は続くからね」

 

「……それ、ネイチャさんの仕事じゃない気がするんですけど」

 

 ジト目で睨みつけるネイチャだったが、不思議と怒りは湧いてこなかった。完璧な戦術と冷徹な計算でウマ娘の人生を導く、底知れない頭脳を持つ男。だが、その実態は、コーヒーの淹れ方一つで教え子をからかい、面倒な日常業務を押し付けてくる、どこまでも怠惰で人間臭い男なのだ。

 

「仕方ないですねぇ。先生が自分で淹れるより美味しくなるまで、付き合ってあげますよ。……その代わり、アタシのトレーニングメニューは、絶対に妥協しないでくださいよ?」

 

「もちろんだ。君の脚を無傷で守り抜き、同時に全ての敵を出し抜く完璧な作戦図を用意して待っている。……このまずいコーヒーさえもう少しマシになればの話だがね」

 

「一言多いですよ、もう!」

 

 朝の光が差し込むトレーナー室に、二人の軽口が響き渡る。

 

 後に、並み居る強豪たちを次々と戦術の罠に嵌め、ターフを駆け抜けることになる「不沈の重装歩兵」と「安楽椅子の魔術師」。

 

 彼らの、騒がしくも奇妙な共犯関係は、一杯のひどく不味いコーヒーと共に、こうして幕を開けたのであった。

 

 

 その日の午前。

 

 トレーナー室に集合した「ハイペリオン」の面々を前に、トレーナーはいつものパーソナルチェアから腰を上げることもなく、淡々と新メンバーの紹介を始めた。

 

「さて、すでにここ数週間の合同訓練で知っているだろうが、ナイスネイチャだ。昨晩の度重なる外交交渉の末、正式に我がチームの一員として陣容に加わることとなった」

 

「あ、えっと……ナイスネイチャです。正式にチームメイトになりました。その、至らないところも多いと思いますが、よろしくお願いしますっ!」

 

 ネイチャが緊張気味に頭を下げると、集まった三人の先輩ウマ娘たちは、各々。

 

「よろしくー」

「歓迎するよー」

 

 と、思いのほか温かく、そして気の抜けた拍手で出迎えてくれた。和やかな雰囲気にネイチャがホッと胸を撫で下ろした、次の瞬間である。

 

「で、だ」

 

 トレーナーは手元のマグカップ、――先ほどネイチャが淹れた、不味いコーヒーが入っている――を傾けながら、一切の悪びれも、感情の起伏もなく、恐るべき事実を口にした。

 

「君たちと違って彼女には才能があり、重賞狙いのウマ娘となる」

 

「…………は?」

 

 ネイチャの背筋に、ゾクッと氷の刃を滑らせたような悪寒が走った。

 

(き、君たちと違って才能があり……!?)

 

 新入りの紹介で、あろうことか既存のメンバーを真っ向から見下し、才能がないと断言するようなその物言い。ネイチャは血の気が引き、慌てて先輩たちの方を振り返った。チーム内に修復不可能な亀裂が入る、下手すればいじめに発展しかねない最悪の失言だ。

 

「ちょっ、先生!? 何言ってるんですか! 先輩の皆さんの前でそんな言い方――!」

 

 必死に取り繕おうとするネイチャだったが、当の先輩ウマ娘三人は、怒るどころか。

 

「おー」

 

「やっぱりね」

 

「すっごーい」

 

 と、呑気に感心したような声を上げているだけだった。トレーナーはネイチャの狼狽などどこ吹く風で、やれやれと肩をすくめて長広舌を振るい始める。

 

「言葉のあやだよ、ナイスネイチャ。私は純粋に、戦術的なスペックの違いという『事実』を述べたに過ぎない。いいかい、才能というのは人間の価値を決めるものではなく、大砲の口径や装甲の厚さと同じ、ただのパラメーターだ。運用すべき戦場が異なるという、ただそれだけの話だよ」

 

 彼は指先で三人のウマ娘たちを順番に示した。

 

「現在、我が軍に在籍しているのはこの三名だ。

 

 一人は、無駄な競り合いを避けてハナを切り、最短ルートで逃げ切る『短距離の逃げ』

 

 一人は、敵のスタミナ枯渇を後方で待ち、漁夫の利を得る『中距離の差し』

 

 そしてもう一人は、最近入ったばかりだが、圧倒的な燃費の良さで敵の兵站をすり潰す『長距離のステイヤー』だ」

 

 彼女たちはそれぞれ「えへへ」と照れ笑いを浮かべたり、軽く手を挙げたりして応える。彼女たちには重賞で勝ち負けするような絶対的なスピードはない。しかし、彼の言う「完璧な兵站管理と戦術」によって、オープンやリステッド競走という安全圏で着実に名声と賞金を稼ぎ出している、実力派のスペシャリストたちだ。

 

「彼女たちは、損耗を極限まで抑え、限られた資源で最大の利益を上げることに特化した、いわば優秀な『巡洋艦』だ。重賞という大火力が行き交う戦場に投入すれば沈む危険性が高いが、オープン戦においては無類のコストパフォーマンスを発揮する」

 

 そこでトレーナーは、ネイチャの方へと視線を向けた。

 

「対して、君は装甲と火力を兼ね備えた『弩級戦艦』だ。局地戦に投入するにはオーバースペックであり、その真価は重賞という主戦場でこそ発揮される。だから狙う戦場を分ける。それだけのことであり、そこに個人的な優劣の感情は一切介在しない。……彼女たちも、その『棲み分け』による恩恵と平和を十分に理解しているからね。私の言葉で腹を立てるような非合理的な真似はしないさ」

 

「……はぁ。理屈はわかりますけど、もう少し言い方ってものがあるじゃないですか……」

 

 心臓に悪いスタートに、ネイチャは深いため息を吐いて肩を落とした。しかし、先輩たちが全く気にしていない様子を見て、このチームが彼の「極端なまでの合理主義」に完全に染まり切っていることを痛感させられた。

 

「まぁ、そういうわけだ」

 

 トレーナーは話を締めくくるように、パンッと一度だけ軽く手を叩いた。

 

「ここ数週間の合同練習で、すでに嫌というほど分かっているだろうが、純粋なスペックと総合的な実力は、現時点でナイスネイチャが一番だ。君たち三人は、彼女の基礎能力の高さと、負荷に対する適応力をしっかりと観察し、吸収し、己の練習に生かしてほしい」

 

 そして、彼は再びネイチャへと視線を戻す。

 

「ナイスネイチャ。君も、己の才能にあぐらをかくことは許されない。彼女たちはそれぞれ、重賞クラスの相手にも通用する『極限まで無駄を削ぎ落とした省エネの戦術行動』を身につけている。君は彼女たちの動きをよく観察し、真似できるところは全て真似して自身の血肉としたまえ」

 

「……はいっ」

 

「よろしい。互いの長所を学習し合うのは、同盟軍における最大のメリットだからね。では、今日の朝礼はこれまでとする。各自、送られたメニュー通りにバ場へ向かうように」

 

 淡々と告げられた解散の合図とともに、ウマ娘たちは「はーい」と気の抜けた返事をして部屋を出て行く。

 

(……変なチーム。でも)

 

 歩き出した先輩たちの無駄のない身のこなしを見つめながら、ネイチャは小さく微笑んだ。熱血や根性とは無縁の、あまりにも合理的で冷徹なチーム。

 

 しかしそこには、確かな信頼と、それぞれの生き方を肯定する絶対的な安心感が根付いていた。

 

 

 茜色に染まる夕暮れの商店街。すっかり通い慣れた揚げ物屋の軒先には、今日もパチパチという心地よい油の跳ねる音と、食欲をそそる香ばしい匂いが漂っていた。

 

「おねーさーん! 店長さん! やりました、私……ついに正式契約、結んできましたっ!」

 

 放課後のトレーニングが終わるや否や駆けつけてきたナイスネイチャが、息を弾ませながらショーケース越しに報告すると、エプロン姿のOGは手にかけていた布巾を放り出して歓声を上げた。

 

「本当!? やったじゃん、ネイチャ!!」

「はっはっは! よくやったな、お嬢ちゃん!」

 

 奥の厨房から顔を出した店主のおっさんも、自分のことのように顔をほころばせている。彼は手早く揚げ網を振るうと、一番大きく、キツネ色にこんがりと揚がった特製のメンチカツを耐油紙の袋に放り込み、ネイチャの手にドンッと押し付けた。

 

「ほれ、祝いの特大メンチカツだ! 遠慮なく食いな!」

「わぁっ、ありがとうございます! すっごくいい匂い……!」

 

 熱々の紙袋から立ち上る湯気と肉汁の香りに、ネイチャは目を細めて尻尾をパタパタと揺らした。しかし、サクリと小気味良い音を立ててメンチカツを一口かじり、口いっぱいに広がる旨味を飲み込んだ後、彼女はふと表情を引き締めた。

 

「でも、店長さん、おねーさん。本当に大変なのは、きっとこれからです」

 

「ん? まぁ、そりゃあ特訓はキツいだろうけど。あの人のメニュー、容赦ないからねぇ」

 

「いえ、メニューのキツさもそうなんですけど……」

 

 ネイチャは半分残ったメンチカツを見つめながら、今朝のトレーナー室での出来事を思い返して苦笑した。

 

「今朝、チームのみんなに紹介された時、先生……私のこと、『重賞を狙えるウマ娘になる』って、はっきりと言い切ったんです」

 

「えっ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、OGの動きがピタリと止まった。目を丸くし、口をわずかに開けたまま、まるで信じられない怪談でも聞いたかのようにネイチャの顔を見つめ返す。

 

「ト、トレーナーが? ……あの、『重賞なんて割に合わない消耗戦だ』って公言してはばからない、怪我ゼロと年金生活が最優先の、あの先生が!?」

 

「そうなんです」

 

 驚愕のあまり裏返ったOBの声に、ネイチャはやれやれといった様子で肩をすくめた。

 

「しかも、ただ言うだけならともかく、先輩たちの目の前で『君たちと違って彼女には才能がある』なんて、とんでもなくデリカシーのない言い放ち方をするんですよ?

 私、チーム内でいじめられるんじゃないかって、本気で背筋が凍りましたもん。……全く、いくら客観的な事実を伝えただけだって言っても、限度ってもんがありますよね」

 

 ネイチャはジト目でため息を吐きながら文句を並べる。だが、その言葉とは裏腹に、彼女の耳はピコピコと嬉しそうに動き、瞳の奥には隠しきれない熱が灯っていた。

 

 才能がある。重賞を狙える。

 

 あの一切の妥協を許さず、極限の合理性のみで世界を測る冷徹な戦術家が、一切のリップサービスなしに、己の戦術計画のド真ん中に自分を据えようとしているのだ。

 

 その事実の重さを、かつての教え子であるOGは誰よりも理解していた。

 

「……そっか」

 

 OGはふっと表情を和らげ、どこか眩しいものを見るような目で、夕暮れの空を見上げた。

 

「先生、本当に覚悟を決めたんだね。自分の教義を曲げてでも、ネイチャの才能と心中するつもりなんだ。……あんなに面倒くさがりで、安全圏から出ようとしなかった人が」

「……」

「ネイチャ。あの人は口が悪くて理屈っぽくて、たまにとんでもなく鈍感だけど……自分が一度『背負う』と決めたウマ娘のことは、何があっても、絶対に最後まで見捨てないよ」

 

「はい。分かってます」

 

 ネイチャは残りのメンチカツをパクリと平らげると、紙袋を丁寧に畳んでゴミ箱に捨て、キュッと両手で拳を握りしめた。

 

 あんな風に、他の誰でもない自分自身の実力を高く見積もられ、公の場で堂々と「期待」を突きつけられたのは、彼女のウマ娘人生で初めてのことだった。プレッシャーがないと言えば嘘になる。

 

「でも……期待されている、ってことですよね。それも、とびきり重たくて、絶対に逃げられない極上の期待を」

 

 彼女は茜色に染まる空へ向かって、小さく、しかし力強く宣言した。

 

「だったら、私にできることは一つだけです。先生の引いた完璧な作戦の上を、誰よりも正確に、誰よりも力強く駆け抜けて……一番にゴール板を突き抜ける。それだけです!」

 

 その姿に、もはや「私なんて」と伏し目がちに笑う地味なウマ娘の面影はない。

 

 ――太陽を司る『高みを行く者(ハイペリオン)』。

 

 その名の通り、長く、怪我なく、そして誰よりも確かな輝きを放ち続けるための、ナイスネイチャの本当の戦いが、今、高らかに幕を開けたのである。






明日からは、ハイペリオンの一番艦。

「おねーさん」の物語。6話ぐらい。
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