ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
残酷なターフと、日陰の新人指揮官
――時計の針を戻そう。
のちに「ハイペリオン陣営」と呼ばれることになる特異なチームが、まだ影も形もなく、あの怠惰な魔術師がまだ学園に赴任したばかりの『新人トレーナー』であった頃の話である。
■
トレセン学園。
そこは、全国から選び抜かれたウマ娘たちが集う夢の舞台であり、同時に――残酷なまでに『才能の差』が数値化される、非情な選別機関でもある。
「……はぁっ! はぁっ……っ!」
夕闇が迫るグラウンド。他の生徒たちがとっくに切り上げ、食堂や寮へと向かった後も、泥だらけになった一人の少女が、荒い息を吐きながらターフを走り続けていた。
のちに商店街で揚げ物屋の看板娘となり、現役生から『おねーさん』と慕われることになる彼女の、若き日の姿である。
(もっと……! もっと、脚を回さなきゃ……!)
彼女は歯を食いしばり、痛む太ももを無理やり前へと投げ出した。
デビュー戦(メイクデビュー)のタイムリミットが刻一刻と迫っている。しかし、何度模擬レースを走っても、何度ストップウォッチを睨みつけても、彼女のタイムは無情なほどに伸び悩んでいた。
同期の天才たちが、涼しい顔で風のように駆け抜けていく姿が脳裏に焼き付いている。
自分と同じように、いや、自分以上にサボっているように見えるウマ娘が、ただ「生まれ持ったバネが違う」というだけで、圧倒的なスピードを叩き出す。
………対して自分は、誰よりも朝早く起き、誰よりも遅くまでグラウンドに残り、文字通り血の滲むような努力をしているというのに、彼女たちの背中すら見えない。
「……なんで……っ!」
最後の直線を全力でもがく。しかし、疲労困憊の肉体は残酷に言うことを聞かず、足元がもつれた。
「あ……っ」
推進力を失い、彼女は無様にターフの上へと転がり込んだ。擦りむいた膝の痛みよりも、タイムの上がらないストップウォッチの液晶画面が、彼女の心を容赦なくへし折った。
(……駄目だ。私には、才能がない)
仰向けのまま、夕闇の空を見上げる。
どれだけ努力しても越えられない絶対的な壁。
エンジンの排気量が、生まれつき違うのだ。
(このままデビューすらできず、誰の記憶にも残らないまま学園を去るのかなぁ)
その恐怖と絶望が、冷たい涙となって泥だらけの頬を伝い落ちた。
「……兵站(ロジスティクス)を無視した精神論のみの突撃。教科書に載せたいほどの、典型的な『自滅』だな」
不意に、頭上からそんな声が降ってきた。
ビクッと肩を揺らして起き上がると、そこには見慣れない若い男が立っていた。よれよれの白衣のようなコートを羽織り、小脇には分厚い歴史書とバインダーを抱えている。着任したばかりの新人トレーナーだということは、そのネームプレートを見ずともわかった。だが、熱血指導が主流のこの学園において、彼の纏う空気は異質なほど冷たく、そして静かだった。
「あ、あの……」
「君の走り、この数週間ずっと観察させてもらっていたよ」
若い男は、ベンチの影から出てくると、地面に座り込む彼女を見下ろして淡々と告げた。
「素晴らしい根性だ。だが、君の肉体は、君自身の強すぎる気迫に耐えきれていない。疲労回復のための栄養補給と睡眠を削り、ただ闇雲にターフを走る。……それは訓練ではなく、ただの緩やかな『自殺』といえる愚行だ」
あまりにも身も蓋もない、冷徹な事実の宣告。慰めの言葉など一切ないその物言いに、彼女は悔しさで唇を噛み締めた。
「……わかってますよ。私に才能がないことくらい! トレーナーたちだって、誰も私をスカウトしてくれないし……っ! 才能がないなら、人の何倍も走るしか……!」
「努力で才能の壁を越えられると信じているのかい?」
男は、残酷なほど冷静な瞳で彼女を見据えた。
「越えられないよ。絶対にね。……君がどんなに血を吐く思いで走っても、生まれ持った天才たちには決して勝てない。クラシックの頂点はおろか、重賞の舞台にすら、君の手は一生届かないだろう」
あまりにも残酷な宣告。
泣き叫びたくなるような絶望のどん底で、しかし、男はバインダーをパチンと閉じ、薄暗いグラウンドの中でニヤリと、不敵な笑みを浮かべた。
「だが、だからといって『戦う方法がない』わけではない。……天才に勝てない凡人が、それでもこの残酷な戦場で五体満足のまま生き残り、勝利の美酒をすする手段。……聞きたくないかい?」
夕闇の中、差し出されたその手。
それこそが、夢破れかけた少女と、『安楽椅子の魔術師』との、泥臭くも決定的な邂逅であった。