真っ白だったものが、少しずつ変わっていくように。
その変化をちゃんと受け入れていけば、私も、何者かになれるのかな。
「おはよう、田中さん」
「おはようございます」
「久しぶりじゃない? 元気してる?」
朝七時半。ここ最近は午前すら来られていなかった学校に、早めに来た。週に一度は顔を出しておいた方がいいという篠原さんの勧めだ。門をくぐった先で、世界史の溝口先生に声を掛けられる。
「はい、なんとか」
「アイドルの方、忙しいみたいだけど、あんまり無理しないでね」
「はい、ありがとうございます」
「今日は何時まで?」
「一応十時半ぐらいまではいます」
「あ、なら僕の授業は受けてくれるのかな。確かB組は二限だったから」
「是非!」
「よかったよ。あ、これ教室の鍵」
先に入って鍵を取ってきてくれた先生は、そのまま、じゃあ、と言って職員室の中へ消えていく。私は扉をゆっくり閉めて、階段を上った。
週に一度しか来ないということは、それだけ授業を受ける時間も少ない。今時、課題はオンラインで配信されるし、授業で扱っている単元が何も分からないわけではない。勉強も自分でしようとちゃんと時間を取って進めている。ある程度は事務所も学校に掛け合ってくれて、出席日数の制限や単位のことも、特例で許可を出してもらった。だから、この生活は、忙しいけれど、私にとって必要なことはそろっている。
そう思っていたけれど、教室を開くと、私の知らない匂いがした。
教卓に向かってみる。右上に貼られた座席表は、私の知っているものと違った。私はどうやら一番窓際の列の、後ろから三番目らしい。学校に何も残さないようにしていた私の机は空っぽだった。椅子を引くと、机がカタカタと揺れた。
誰もいない朝の教室。夏の太陽は既に顔を出していて、窓から見える景色は明るい。靄状の雲が空を薄く覆っていて、夏の匂いはまだしない。窓の外を見つめる。街を見下ろせる高校の立地のいいところを一番味わえる。四階の教室からの景色は、目覚め始めた街と、誰もいないグラウンドとプールが映っていた。夏の匂いといえばプールの塩素だなと思っていると、何人かがぞろぞろとプールにもグラウンドにもやってくる。時計を見ると、七時四十五分。朝練かな。時間もあるし始めよう、とカバンの中の単語帳と文法書とノートを取り出す。
何も足りないわけではない。だけど何かが足りない気がしてしまう。朝のこの教室の代わりに、普段は朝のレッスン室にいる。座席の代わりにロッカールームがあって、授業の代わりにレッスンや撮影のお仕事がある。クラスメイトの代わりに、春香ちゃんやプロデューサーがいる。だけど、私には、まだ何か足りない。恵まれた環境で、楽しいお仕事ができるのは、この上ない幸せなはずなのに。
*
「えー、というわけで、ここまでがサファヴィー朝の衰退ということで今日の授業は終わります――」
二限。チャイムが鳴る。世界史の授業が終わった。予習はしてきたけれど、分からないままのところも多い。聞きに行かなきゃ、と思って腕時計を見ると、十時二十五分。時間はなかった。
「琴葉ちゃん、そろそろ時間じゃない?」
その時、隣に座っていたクラスメイト――絵里ちゃんが肩を叩いた。びっくりして変な声が出そうになるも、喉から出る手前で止まった。なるべく、普段の声を意識して、喉から丁寧に取り出した。
「え? あ、うん、そうだね」
「忙しそうだね、琴葉ちゃん」
「そう、だね……でも、私が選んだことだから!」
疲れている顔は見せたくなかった。アイドルは、輝いているものだから。私は、もうアイドルだから。私の一挙手一投足が765プロのイメージにつながるから。だから、私は――
「……なんだか、遠くなっちゃったなぁ」
「え?」
「あ、ううん! 頑張ってきてね! あと、また演劇部に顔出してね!」
「あ、うん……そうだね、また一緒にやろうね!」
それだけ言って、職員室へ向かう。早退を伝えて、足早に生徒玄関を出る。
聞こえないふりをしたけれど、聞こえている。ずるいよ、と心で呟く。私だって来たいんだよ、学校。溢れそうになる黒い感情を、無理やり飲み込んで、走り出す。
だけど、“また”なんて、いつのことになるか分からない約束を簡単にする私だって、ずるかった。
*
「はい、ストップ! Bメロの入りまで、もう一回やりましょうか」
レッスン室にトレーナーさんの声が響く。肩で息をしながら、もう何度目か分からない“はい”を返す。
『SESSION!』は、楽しい曲だ。前奏で跳ねるようなトランペット、Aメロの笑顔の多い歌詞、Bメロの盛り上げ、サビでは春香ちゃんとパートが頻繁に入れ替わる。リズムに追いつくのすら大変で、それを踊りながら、歌う。ステップも飛び跳ねるのも多ければ走るのもある。ステージを大きく使う振り付けに、息が途切れ途切れになりながら歌っている。
どうしても、上手く歌えない。
「とりあえず歌わずに振りだけでも合わせましょうか」
トレーナーさんが、二度手を叩いて、再開を合図する。顔を上げて、汗を拭って、最初のポジションへ。
「ワン・ツー・スリー・フォー――」
メロディーに合わせて手拍子。最初のサビは指の動きから、腕、そして全身へと動きを伝えていって、リズムに合わせてポーズで、止める。それが終わればすぐに忙しなく前奏へ。腕を大きく使ってから、頭の右上で両手を捻ってポーズ。跳ねるトランペットに合わせて――
「ストーップ! 二人ともお互いが見えてないわよ! 自分のことだけに集中しない!」
「「はい!」」
動きを合わせるのに必死で、これでは前に進んでいる気はしなかった。
*
「琴葉ちゃん、お疲れ様」
「春香ちゃんも、お疲れ様です」
休憩室。レッスンが一区切りついたのもあって、二人で水を飲んで、汗を拭う。レッスンウェアをパタパタと動かしながら、扇風機の風を並んで浴びた。
「難しいね~! 今回の曲!」
「はい、まだまだ分からないままで……自分が覚えたことをするのに精一杯でした」
「だよね! 特にあのサビのところ!」
「あの『届いちゃうボイス、ほら、笑顔の――』のところですよね?」
「そうそう! あの掛け合いのところ、振り付けも歌い方もリズムが速くて大変だよね~!」
眉をハの字にして笑う春香ちゃんは、どうしたらいいかなぁ、と唸りながら、冷蔵庫から水のペットボトルをもう一本取り出した。
「二人でちゃんとリズム揃えないといけないから、大変だよね」
「すいません、まだそこまで覚えきれてなくて」
「えっ!? いや、ううん! 私も全然だから!」
驚いた顔で手をぶんぶんと横に振る春香ちゃん。頭の二つのリボンも同じように揺れていた。そう言われても、多分私が詰まっているからというのは変わらない。解釈はいくつもあるかもしれないけれど、事実は一つだから。
「どうやったら揃うかなぁ」
そうやって唸り続ける春香ちゃんの横顔を見るのは、ちょっと辛い。私よりもずっと上手く踊れていて、歌えているのに。どうすれば、私と春香ちゃんの息を揃えられるだろう。こんな時、先輩――プロデューサーなら何と言うだろう。
……プロデューサー、なら?
*
「難しい話だな」
「そうなんです」
思い立って、事務室にいるプロデューサーの所まで走ってきた。いきなりドアを開けたので驚いた顔だったが、次の瞬間にはいつもの表情で「どうした?」と聞いた。訳をとりあえず全て話した――ところで春香ちゃんを休憩室に置いてきてしまったことに気づいた。
「俺はあんまりそういう歌とかダンスとか分からないんだが……」
「でも、プロデューサー、ですから」
「プロデューサーという肩書は何でも屋じゃないんだぞ」
「でも、プロデューサーは……私たちを、プロデュースするんですから」
でも、でも、と駄々をこねてみる。こんな時ぐらい、許して。なんて、甘い考えか、と思ったけれど――
「……まぁ、そうだな。プロデューサーだもんな」
たまにはそういう押しも、ありらしい。
「俺から言えるのは、なんか、二人とも自分の世界を曲とどう合わせるか、ってことに気が向きすぎなんじゃないか、って感じかな」
トレーナーさんが撮ってくれた動画を確認し終えると、ぽつりと呟いた。
「『Thank You!』は、どちらかというと揃えて歌うのが多かったけどさ、『SESSION!』は相手の歌と振りを受けて、自分の歌と振り、だろ? じゃあ、前にも言ったけど、二人がちゃんと会話しないと駄目なんじゃないかな」
「会話?」
「そう、曲の中でさ、振り付けと歌を使って会話するんだよ。振りを受け取ってダンス、歌詞を受け取って歌う。……まぁ、だから、有り体に言えば、仲良くなれってことなのかもしれないな」
「仲良く、ですか」
「なんだかんだ二人が話してるところあんまり見てないしな、とふと思ってさ」
「思い付きですか?」
「いやいや、もちろんちゃんとこれを見て思ったことだよ。それに――」
「多分、天海さんと田中さんの歌と踊り、じゃなくて、歌って踊る天海さんと田中さんが見たいんじゃないかな」
そんな簡単な話じゃないかもしれないけどさ、と付け加えて、後頭部を右手で掻いた。
「……分かりました。とりあえず、やってみます」
「何かヒントになったのならよかったよ」
「はい、さすがプロデューサーですね」
「これ褒められてるの? 皮肉られてるの?」
「褒めてますよ、ちゃんと! ……じゃあ、戻ります」
「あ、ああ。八時までには出るんだぞ」
「はい!」
私は、顔が火照るのを見られないように、顔を背けながら事務室を後にする。
その言い方は、ずるい。
ずるいですよ。本当に。
火照りの中に、笑みも浮かんでいることは、分かっていた。
*
控室に戻ると、春香ちゃんはノートを広げていた。
「おかえり! 急に出て行っちゃったからびっくりしちゃったよ」
「ごめんなさい!」
私に気づいた春香ちゃんが立ち上がって、手を振ってくれた。私は駆け足で近寄って、事情を説明した。
「なるほど! プロデューサーさんがそんなことを」
「はい。もしかしたら、ヒントになるかもしれないと思って」
「仲良く、かぁ……あ! それなら一ついいアイディアがあるの!」
「勉強! 教えてくれない?」
*
「この『なり』は、直前が『静か』なので形容動詞の活用語尾ですね」
「活用語尾?」
「用言の中で、活用しない部分を語幹、する部分を活用語尾って言うんです」
「なるほど!」
広げていたノートの正体は、古文だった。授業に出ない分、課題が課されているらしい。私はテストさえ受けてくれればいい、と言ってもらっていたので、学校によって対応が違うのに少し驚いた。それからしばらく、春香ちゃんの古文の課題に付き合った。去年までしっかりやっていたのが功を奏してくれた。助詞の意味や助動詞の意味、活用の種類や活用形はどうしてもパターンと知識をどれだけ知っているかがポイントになる。まずは品詞分解をして、種類や活用を見極めて、意味を確定して、敬語は種類と敬意方向を確認して――何気なく今までしてきていたことが、春香ちゃんにとっては新鮮らしい。ここはこう、と言うだけで「そうなんだ!」と驚く。単語の意味で躓きやすいところは別でメモをして、現代語訳を作ってみて、模範解答と照らし合わせてみる。合っていると「やった!」と喜ぶ春香ちゃんを見て、微笑ましくなる。
「ありがとう! 無事終わったよ!」
「いえいえ、こんなことでよければ、いつでも聞いてください」
「いやぁ、さすが先輩! 頼りになったよ~!」
そう言いながら、私の両手を春香ちゃんの両手で包み込む。なんだか、照れくさい。普段は私の方が教わるばかりで、私の方が足を引っ張ってばかりなのに、こうして頼られることにあまり慣れていないせいか、くすぐったかった。
「で! こ~んなに教えてもらえるぐらい! 琴葉ちゃんは優しい先輩なんだ~! って気づけたんだけど、一個だけ気になったところがあります!」
その手を握ったまま、春香ちゃんは私を見つめて言った。目を見られている。逸らすことができず、釘付けになって、頭に浮かんだ言葉がそのまま零れた。
「な、なんでしょう……?」
「それはね……敬語!」
「え?」
「琴葉ちゃんは一つ上の先輩なのに! 私に対してずっと敬語なんだもん! すっごい気になっちゃった!」
「え、えっと……春香ちゃんは、アイドルの先輩なので……?」
「でもでも、琴葉ちゃんは高校生としては先輩だよ?」
「えっと……」
「つまり、一年分アイドルの先輩の私と、一年分高校生の先輩の琴葉ちゃん、足したらゼロ……になっちゃわないかな~って! そうすれば、“友達”に、“仲間”に! 近づくんじゃないかな、って!」
春香ちゃんは、目を離さない。瞬きする音が聞こえるくらい、その瞳が近い。
「どうかな……?」
首をかしげる春香ちゃんは、また困ったようにいつものハの字で笑う。
その笑顔を前に、断るという選択肢は、見当たらなかった。
「わ、かりました。善処します」
「じゃあ今から!」
「わ、分かったよ……?」
「うん! ありがとう、琴葉ちゃん!」
距離が椅子と椅子の距離に戻る。えへへ、と笑う春香ちゃんは、確かにアイドルで、こんな風に言い寄られたら、どんな人でも、うん、と言わざるを得ないに違いない。きっとそうだ、と思い込む。そうでなければ、私が、眩しいくらいアイドルを体現した春香ちゃんに視線を奪われた、という事実に対して、言い訳がつかない気がした。
*
「いただきます」
家に帰って、晩御飯。テレビがついた中で食べる。帰ってきたのは九時過ぎだったため、両親は既に食べ終えていて、私は一人で食べる。こういうのにも、もう慣れていた。テレビに映っているのは、765プロオールスターズの先輩方が出ている、音楽番組。
『みなさん! こんにちは! せーの!』
『『『『『765プロオールスターズです!』』』』』
司会の方に呼ばれ、全員でそろって挨拶をする。笑顔で、綺麗にぴったりそろった挨拶。私はハンバーグを一口、そのまま白ご飯に追いかけさせる。口の中でいつもならもう少し自己主張の強い旨味があるはずだけれど、今日はそれよりも、目の前のこの光景に意識が吸い込まれる。
『今回の曲のセンター、天海春香さんです!』
『はーい! こんにちは! 天海春香です!』
『今日も元気いっぱいですね! 最近は順調ですか?』
『はい! 事務所のメンバーも増えて、忙しくさせてもらってます!』
『天海さんは、先月『RE:FLOW』として、新しく事務所に加わった田中琴葉さんとも活動されていますが、そちらの方は如何ですか?』
『そちらも順調ですっ♪ ユニットデビューは39プロジェクトのテーマソング『Thank You!』でしたが、次は今月中に新曲をリリースするので、是非、楽しみにしていてください!』
『はい、ありがとうございます。というわけで、そろそろ他のメンバーの準備も整ったようなので、天海さん、よろしくお願いします』
『はい! よろしくお願いします!』
『それでは、歌っていただきましょう。765プロオールスターズで、『READY!!』、『CHANGE!!!!』、二曲続けて、どうぞ!』
歌のステージの方に、走って合流した春香ちゃんは、最初のポーズでピタッと止まり、照明が落ちる。それに合わせて曲が流れ始める。十三人のダンスが、曲に合わせて少しずつ展開していく。その真ん中で輝いている、春香ちゃん。笑顔は、いつもと同じ、ずっと眩しい。
私は、あの人と、友達になろうとしている。アイドルとしての先輩で、高校生としては後輩で、そんなねじれた距離感を、春香ちゃんの笑顔は飛び越えてくれる。あの笑顔を、こんな距離じゃなくて、もっと近くで、今日、私は見ていた。睫毛があんなに長くて、零れ落ちそうなほど大きな瞳で、見ているその全てが、どうしてここまで綺麗なんだろうと思わされるくらいだった。そんな瞳に、友達に、仲間に、なれるって言われたんだ。
テレビの向こうにいる春香ちゃんを、私は、もっと近くで知っている。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、誇らしかった。もっと、なりたい、って思った。友達に、仲間に。
*
『もしもし!』
『もしもし。俺だよ。ミュージックフェア、お疲れ様。ばっちりだった』
『見ていてくださったんですね! ありがとうございます!』
『収録の時、俺、現場に行けなかったからさ。見たかったんだよ。やっぱり、見てよかった』
『えへへ、そんなに褒めても何もでませんよ?』
『分かってるよ。でも、田中さんのこと、何か言ってくれたみたいだったから、それもあって電話したかったんだ』
『琴葉ちゃん、ですか?』
『ああ、なんか、天海さんと話してたら思い立ったことがあって、って聞きに来たんだよ』
『新曲のことですかね?』
『そうそう。『SESSION!』のこと。上手く掛け合いができないって話でさ。なんて言ったらいいか分からなくて――』
『――って言った訳』
『なるほど……琴葉ちゃん、頼りにしてるんですね、プロデューサーさんのこと!』
『そうかな』
『そうですよ!』
『うーん、俺よりも、田中さんは天海さんを頼りにしてると思うけどな』
『そうなんですか?』
『ああ……まぁ、頼りたいけど、頼り方が分からないって感じだったから、今日はああいうアドバイスになったけどさ』
『仲良く、ですよね?』
『ああ。天海さんは仲間想いの事務所想いだって、篠原さんから聞いてたしな。……こうしてみれば、田中さんよりも俺の方が天海さんを頼ってる気がするな』
『あはは、そうかもしれませんね!』
『とにかく、田中さんのこと、頼んだぞ』
『はい! 任せてください!』
『それじゃ、とりあえず、お疲れ様。また明日』
『はい! おやすみなさい!』
「――いいな。琴葉ちゃんには、こんな風に想ってくれる人がいて」