もう冬の準備は始まっている。
私たちの関係を一歩前に進めるたびに、その季節は近づいてくる気がした。
もう、戻れないところまで来てた、んだよね?
春香ちゃん。プロデューサー。
私は――
*
2日遅れです。完成はしていたのに更新を忘れていました。申し訳ない……。
十一月に入ると、肌寒い風が事務所の扉に音を立てるようになった。暖房まではいらなくても、セーターを着こみたいと思うぐらいには、冷えていた。手をこすりながら、シアターの扉を開く。従業員入り口から入って、事務室へ。廊下も冷えている。
「お疲れ様です」
「お、琴葉さんか。お疲れ様」
事務室を開くと、篠原さんがデスクにいるだけで、他に人はいなかった。篠原さんの足元で、赤々とストーブが焚かれている。前に冷え性と言っていたなと、一人納得する。
「今日は午前学校だったんだね。久しぶりの学校、どうだった?」
学校に行ってからこっちに来る、というのも、二学期に入ってから週一回もできなくなっていた私にとって、今日は久々の登校だった。前に行った時はまだ夏服だったのに。そんなことを思いながら、まずは会議室へ。みんなの授業の裏で、中間テストを解いて、採点をしてもらって、成績に関することを済ませた後、クラスで文化祭の練習を見た。私のクラスは、今年も演劇をするらしい。……懐かしいな、と零れそうになるのを、必死に抑えて、求められたアドバイスに集中する。それでも、少し寂しい、と喉の奥まで登ってきた気持ちは、自分の心に嘘をつくのが難しいというのを教えてくれる。
「楽しかったですよ、テストは大変でしたけど」
「テストか! そうか、中間テスト、後から受けるって言ってたよね。今日だったんだ」
「はい。一応勉強はしっかりして行ったので大丈夫でしたけど、やっぱり前ほどは取れなかったです」
「どれどれ……おお、それでも全体七割かぁ、すごいね。うちの他のアイドル達にも見せてあげたいよ」
点数一覧表を見せると、いつもと変わらない笑顔で、感心した、と言う。その風景は、なんだか家でお父さんにそれを見せるのと、あまり変わらない。
「お父さんみたいなこと言わないでください」
「ええ、僕まだそんな歳じゃないんだけどな……」
あはは、と笑いながら、ありがとう、と点数一覧表を返される。その時。
「お疲れ様です」
「ただいま戻りました!」
午前のテレビ収録に出ていた春香ちゃんとプロデューサーが事務室へやってくる。冷たい風が、ドアからやってくる。コートをハンガーにかけるプロデューサーに、篠原さんは手招きをした。
「もう二人にはそれぞれで伝えてあるから」
「分かりました。……二人とも、ちょっといいか?」
デスクに呼ばれて、春香ちゃんも寄ってくる。多分、あれの話。
「次の曲なんだが……聞いている通り、二人にはそれぞれソロを歌ってもらう。一応、二人に合うソロを、作詞・作曲の人に頼んでおいた。それを見て、選んでほしい」
私たちそれぞれに資料が渡される。めくってみると、四枚。それぞれに歌詞とQRコードが書かれている。
「ただ、ユニットとしてもちゃんと売れてもらわないと、ソロは立たない。だから、ユニットとしては、去年のオールスターズ名義で出しているユニット曲や全体曲をカバーしてもらおうと思う。これが、ソロ発表までの曲リスト。こっちも確認してほしい」
別のリスト。タイトルだけ確認する。「MUSIC♪」「CHANGE!!!!」「メリー」、そして――
「あ、『READY!!』入れたのは僕。琴葉さん、二次審査で歌ってくれたよね。あれよかったなぁって」
篠原さんが座ったまま、手を挙げて告げる。
「せっかくなら是非歌ってほしかったんだ。うちの代表曲みたいなところあるから」
「ということで、以上、報告。よろしく。……春香、琴葉」
尻すぼみになっていくプロデューサーの声に、一瞬、不意を突かれる。
今――
「……やっと呼んでくれたぁ!」
春香ちゃんが隣でぱっと笑顔になった。やっぱり、聞き間違いじゃない。
「……あんまり囃さないでくれ。これでもちょっと緊張してるんだ」
「最初はそうだよね~」
篠原さんも、ふふ、と笑いながら、用は済んだとデスクに向き直って作業をし始める。
立ち尽くすのは、私だけ。
「前から篠原さんに言われてたからな。……それに、研修も一通り終わって、やっと二人のプロデュースを本格的にできるんだ。だから、この機に、って思って」
頭を掻いて、言い訳らしくない言葉を並べるプロデューサー。その姿に、私はようやく、笑うことができる。
「というわけだから、よろしく、春香、琴葉」
「「……はい!」」
*
その日は事務所でこれからの打ち合わせをして、その後は雑誌の撮影の仕事だけをして帰ってきた。家に帰ってすぐ、冷たくなった手を温めるよりも、晩御飯を食べるよりも先に、持って帰ってきた曲の資料を早速出して、イヤホンを準備する。
曲のリストにあるのは、四曲。「朝焼けのクレッシェンド」「ホントウノワタシ」「シルエット」「Sing a Wing Song」。歌詞を見ながら、メロディーを聞いてみる。まだ声が入っていないメロディーラインだけの音源。これに、私が吹き込むとするならば、どの曲にするだろう。そんなことを考えながら、わくわくして、曲を聴いた。私というアイドルを、こんな風に考えて、綴ってくれる人がいる。その温かさが嬉しかった。
温かい気持ちになって、イヤホンを一旦外してからベッドにそのまま寝転んでみる。瞼の裏には、照れくさそうな、プロデューサーの姿。初めて呼ばれた名前。温かさの裏に、まだ残っている高鳴り。初めて、名前で呼んでくれた。お父さんやお母さんでもなく、クラスメイトでもない。仕事仲間であって……そんな言葉だけで説明できない関係。それが、初めて、音になる。形になる。
嬉しかった。思い出すだけでこんなに熱くなるなんて。寒さを打ち消すぐらいの熱が、内側から溢れてくる。
私は、誤魔化すのが下手なんだと改めて思う。
学校のこともそうだけれど、この気持ちさえ、抑えようと思っても抑えられない。
そんな彼が選んだ、四曲。そう思って、ベッドから跳ね起きる。イヤホンをつけて、何度も聞き返す。軽く口ずさんでみる。駆け抜けていくような「朝焼けのクレッシェンド」と「Sing a Wing Song」。内側の私を描く、しっとり歌い上げる「ホントウノワタシ」と「シルエット」。
いずれ全て歌いたいけれど、今、どれか一曲を選ぶとするならば――
*
「いいんじゃないか? 『Sing a Wing Song』。アイドルとして羽ばたいてきた琴葉が歌うこの歌に、元気づけられる人も多いと思う」
次の日。朝から事務所に向かい、プロデューサーに告げる。さらっと名前で呼ばれるけれど、私はまだその響きに慣れそうにない。
「ありがとうございます! 確か、今日から、でしたよね?」
「ああ、ソロのレッスンは今日から。午前はこの後から昼までは春香の方につくけど、午後の最初は琴葉のを見る予定」
ただ、その喜びの中に刺さる棘は、見逃せそうにない。春香ちゃんも、同じように呼ばれるという事実。プロデューサーにとって、合わせたほうが都合がいい、というだけなのかもしれないけれど、それでも。
「ちなみに、春香ちゃんはどんな曲を?」
「さっき言われたのは……『キミがいて夢になる』だったかな」
春香ちゃんのリストを手渡される。選んだ「キミがいて夢になる」のほかに、「さよならをありがとう」「I’m yours」、そして「笑って!」。
「『笑って!』はまだメロディーしかなくて、作詞まで春香にしてもらう、みたいな話も挙がってたんだけど、さすがに負担が大きいってことでなしになったんだ」
「へえ……」
「まぁ何より、一日で二人とも決めてくると思ってなかったから驚いたよ」
さすが、アイドルってすごいんだな、と呟く。そんなアイドルたちを、プロデュースしているんですよ、と付け加えようとして、やめる。きっと、そんなことは言わなくてもプロデューサーは分かっているし、それなら、他には私が知っていればいいのだから。
*
トレーナーさんと二人で、一時間のボーカルレッスン。数か月ぶりに春香ちゃんがいないレッスン。緊張気味だった声は、時間が経つにつれて少しずつ伸びていく。後ろには、プロデューサーの目がある。今まで春香ちゃんと分かち合っていたそれが、一心に注がれている。その存在だけで、私は頑張れる。そう思った。
「うん、随分上手になったわね、琴葉ちゃん」
「ありがとうございます!」
「デビューからまだ半年なのよね、この子……恐ろしいわ」
トレーナーさんは手を叩いて、終わりの合図を出す。困ったように笑ってから、プロデューサーに近寄り、資料を手渡した。
「一応、これが発声練習とか歌い方の癖とかまとめた資料なので、この後も続けるなら参考にしてもらえれば」
「ありがとうございます。助かります」
「じゃあ、今日は一旦ここまでにしましょう。お疲れ様、琴葉ちゃん。お先、出るわね」
「ありがとうございました!」
トレーナーさんが手早く荷物を片付けると、そのまま扉は開く。閉じる音が、ゆっくりとレッスン室に響いた。
「すごいな……驚いたよ」
「そう、ですか?」
「二人でいると、ユニゾンとかハーモニーとか、全体のバランスとかをメインで見るからさ、こうして個人の力の伸びってあんまり気づかないもんだな、と改めて思ったよ」
「なるほど」
「去年の今頃聞いてた時も、上手いとは思ってたけど、ここまでじゃなかったなって」
資料をパラパラめくりながら、感心した口ぶりでプロデューサーは笑顔で話す。私も、つられて笑った。
「よければ、一回歌ってみてほしいんだけど、いいかな」
「え?」
「『Sing a Wing Song』だよ。せっかく入念に発声練習をしたんだから、今覚えてる分だけでも聞けたらな、と。……駄目かな?」
「……いいえ、是非。それなら、一番だけ」
まだ全然練習している途中だけど、それでも――最初に聞いてもらうのはプロデューサーがいいと、思っていたから。デモ音源をセットする。イントロが流れだす。星の煌めきのようなメロディー。そして――
――ただ、上手くは、歌えなかった。
「うーん、楽譜はなぞれてると思うんだけどな……何か違うんだよな」
楽譜と歌詞カードを睨みながら、プロデューサーは独りごちる。何かが、違う。いや、その感覚は正しい。確かに、まだ全然歌えているとかそういうレベルではないし、ただメロディーラインに私の声を乗せただけ。耳に残らず流れていく歌詞。だけど、違和感はそれだけじゃない気がして、袋小路に入る。
「応援ってさ」
「はい」
「自分は大丈夫って人が、大丈夫じゃないって人に向けて、届けるんだよな」
「……はい」
「何か不安なんじゃないか? って思った。 声が、ちょっと震えてた気がする。さっきの、発声練習の時よりも」
乾いた喉から、答えは出なかった。水を飲んでも、潤いを取り戻すには、もう少し時間がかかりそうだった。
*
最寄駅からシアターまでの道。街路樹はすっかり色を落として、茶色に染まりつつある。冷たい風が吹いて、思わず口元をマフラーで包んだ。もう、そんな季節かぁ。この前まで暑かったのにな、なんて内心呟いて、見上げてみる。かさついた唇に冷たい風が当たって、そのまま鼻先へ流れてくる寒さ。鼻腔の奥に来る冬の訪れ。赤くなっていないかな、なんて心配もつかの間、マフラーと巻き込まれた髪が包む温かさが徐々にその心配を杞憂にする。冬の匂いというのは鼻で感じる寒さの事らしい、と、昔、小説の描写で見たことがあるのを思い出す。マフラーの中で鼻先をくすぐる赤い毛先が、温かさを残していく。
「あ、琴葉ちゃん! おはよう!」
後ろから声をかけられて振り向くと、眼鏡姿の春香ちゃん。朱色のコートと真っ白なマスクに身を包んでいても、すぐに分かった。
「おはよう、春香ちゃん」
「今日は朝からカバーのレッスンだよね! 頑張ろうね!」
「うん、もちろん。あ、でも四曲あったけどどれからやるんだろう」
「多分『メリー』じゃないかなぁ」
「『メリー』?」
「クリスマスの曲だし、もう来月だし、丁度いいなって」
「確かに、そうかも」
二人で並んで歩く、シアターへの道。まだ白くない息が重なるか重ならないかぐらいの距離。広い歩道に、二人。空を見上げると、そこには曇り空。「メリー」の指す、赤と緑の日。そうか、もう年末なんだ。思ってはいたけれど、あっという間だったな。
そう思って隣を見ると、いつもと変わらない笑顔。ソロも、多分順調なのだろう。そんなことを思うと、少しだけ、本当に、ほんの少しだけ、胸が痛い。そして、そんなことを思う私の存在が、苦しかった。
「今日のレッスン、頑張ろうね!」
シアターに着いて、レッスン室へ向かう。扉を開く時、春香ちゃんの声は変わらない。変わったのは、多分、私の方。それを素直に受け取れない、なんて、今更言えそうにはなかった。
*
「ステップずれてるわよ、二人とも。イントロからAメロ前のメロディー、入りはSEで入るんだから、一歩大きく、ちゃんとジャンプして!」
「「はい!」」
春香ちゃんの予想通りの「メリー」。だけど、基礎レッスンを終えて一時間、まだ歌う所にすら辿り着かない。「Starry Melody」の時はもっと早く合ったのに――思わず口を突いて出そうになった言葉を、息と一緒に飲み込んだ。呼吸のリズムが、乱れる。
隣の春香ちゃんを見る。いつになく、険しい表情だった。春香ちゃんにとっては、一年前に歌った曲。慣れてるから大丈夫! と言っていた明るい笑顔は、ない。膝に手をついて、肩で息をして、夏のレッスンの時よりもずっと多い汗を拭っている。
「じゃあ、もう一回」
私も、汗を拭う。水分で張り付いた前髪。既に冷たくなったそれは、体の内側の、もっと内側にある気持ちさえ冷やしてしまいそうで、両頬に手を当てて無理やり奮い立たせる。それを知ってか知らずか――もしかするとそれはトレーナーさんには関係のないことかもしれないけれど――「メリー」のレッスンはまだ続く。ただ、結局今日はそこより先に進むことは、なかった。
*
「珍しいね。春香が、『メリー』で躓くなんて。得意曲だったよね?」
「そう……ですね、あはは……」
「トレーナーさんと彼が話してるの聞いたけど……春香、何か焦ってない?」
「焦って、るんでしょうか……?」
「……まぁ、分からないよね、本人には。ごめん、意地悪な質問した」
「いえいえ、全然、大丈夫です」
「春香が『大丈夫』って言う時は大丈夫じゃない時だっていうのは、分かってるよ」
「バレバレ、ですね」
「そんなことないよ、ある程度、だから」
「そう、ですか」
「……」
「ソロ曲、上手くいってないの?」
「……やっぱり、なんでもお見通しなんじゃないですか」
「伊達に一年見てないからね。それで?」
「上手くいっては……ないですね。なんだか、歌詞に気持ちが入らなくて」
「あれ、でも春香が歌詞見て選んだんだよね?」
「そう、なんですけど、そうなんですけど、歌っている自分が、どこか違う自分な気がして」
「ふーん……じゃあさ――」
「僕が見ようか? ソロ曲のレッスン」
「だ、駄目です!!!」
「……駄目、か」
「今……篠原さんにそんな風に言われたら、私、多分、頼っちゃいますから」
「それが、駄目なんだ?」
「そんなことしたら、私、また、自分で立てなくなっちゃいます。篠原さんは……プロデューサーさんは、私のたった一人の大事な人には、なってくれませんから」
「……そうだね」
「だから、これは、私……それと、プロデューサーさんと、琴葉ちゃんとで、乗り越えなきゃいけないことなんです」
「彼なら、琴葉さんなら、それを、受け止めてくれると?」
「そんなこと、ないかもしれませんけど……でも、私は、『RE:FLOW』だから」
「……そう、だね。分かった。そう言うなら止めない。ただ、何かあったらいつでも言ってね」
「はい。それは、もちろん」