分かってはいる。けれど、それでも、白は全てを包み込んでしまうから。
また色づく季節まで、さよなら。
どうしてこんなところにいるのか、なんて、誰にも答えられるわけもない。だって、俺にすらその理由が分からないんだから。
二学期の終業式を終えて、三日後。共通テスト前の補習に出てきた俺に、今日はかかるはずのない、いつもの声がかかった。
「先輩」
「え?」
「よかった、補習だって聞いたので、いなかったらどうしようかと」
校門前。携帯を見つめながら歩いていた俺の肩に、いつもの制服姿に身を包んだ田中さんが、安心しきった顔で白い息を何度も吐く。思わず足を止める。驚きとともに、手元にピントが合っていてぼやけてしまっていた目の前の景色が、急にはっきりと見えはじめる。
「どうした? 冬休みなのに」
「そう、冬休みだからなんです」
そう言われて、次の日。共通テスト受験までもう三週間ほどしかない、この追い込みのさなか、今居る場所は。
「すいません、無理言っちゃって……」
「いやまぁ、息抜きしたかったし丁度いいから」
「勉強しながらで全然いいので……」
三番の部屋番号を探し、ドアを右肘で押して開ける。カラオケの部屋特有の薄暗さと、モニターの明々とした光が視界を支配した。ドリンクバーから取ってきたココアを机の上に置いて、コートを脱いだ。
朝、いきなり何を言い出すのかと思ったら、二次審査である歌の練習にも付き合ってほしいとのことだった。二日ほど一人で数時間籠ってみたらしいが、「一人だと声が上手く出なくて」と、伏し目がちに語る彼女は、走ってきて呼吸が荒いのもあって元気そうではあったが、その奥の不安が眼の奥に見えた。次になんと言葉を紡ごうかと考える頭の中で、安易に断れないなと、そう自分の頭が答えをはじき出すのを、ただ見守るしかなかった。
「課題曲って、カラオケに入ってるのか?」
「有名な曲ばかりですからね、765プロさんは」
慣れた手つきでリモコンを操作し、課題曲と思われる曲を予約リストに入れていく。
「じゃあ、とりあえず歌いきるので、もし何かあれば、教えてくださいね」
マイクを片手に笑顔で振り向く彼女。モニターの光で逆光になって、表情がはっきりとは見えなくなる。そして、そんな俺を置いて、曲が明るい音で始まる。テロップには、「THE IDOLM@STER」。アイドルとしての苦悩を描いた歌詞が並び、最近の曲より少し前の流行りのメロディーに近い音の並びで、小気味よく駆け抜けていく。
同級生とカラオケに行った最後の記憶すら、もう遠く彼方に行ってしまっている俺にとって、こうしてココアをすすりながら人の歌声に耳を寄せるというのは、不思議な感覚だった。モニターに映る、目まぐるしく変わる景色と女の子の表情。きっと歌詞とは無関係だろうそれと、流れていく歌詞と音程のバーに、食らいつこうとする彼女の滑らかな声。マイクの外に漏れている、息継ぎの音。音程を探ろうとするフレーズの一音目。おそらく目を瞑っているだろうビブラート。それらが、この、二人用のカラオケボックスという小さい箱の中に、響いている。
一曲目が終わる。続いて、二曲目。「READY!!」と文字が並び、今度は765プロのアイドルらしい人たちが踊るライブの映像が流れる。普段着ることのないだろう、フリルやリボンが多くあしらわれたそれを身に纏うアイドルの姿は、どこか幻想的で、彼女は今、ここを目指しているんだと思うと、自分がここにいることだけが、ふわふわと、異物のように、断片的に感じられて。
ふと、手元の英単語帳に視線を送る。部屋に入った後、彼女が手際よくリモコンを操作している時、心配をかけないようにと取り出した。ここまで数十分、まだ開くことすらしていない。彼女の歌を呆然と聞いている。目の前の幻想と、自分の現実。
「ふう……すいません、終わりました」
気づいたらそれからさらに数曲経っていたらしい。彼女がマイクを置いて振り向く。
「どうですか? ……って言われても、難しいですよね。えっと……何から訊いたらいいかな――」
自分の夢に真っすぐに突き進む彼女の姿は、どうしても眩しくて。それは、決してモニターの光のせいじゃなくて。この日は、結局何と答えたんだっけ。それすらも曖昧なまま、彼女の歌を聞いて、一人逡巡していた。
*
三学期が始まって、共通テストも終われば登校する生徒はぐっと減った。三年のフロアにはほとんど人がいなくて、自己採点を終えて、進路を伝えたものから順に帰宅していく。静かな風が吹いて、換気用に開けられた窓の隙間から冷たい風が吹く。教室には、自習のために残る生徒が数人いるだけで、なんだか居心地が悪くて、おもむろにカバンをもって廊下へ出る。
そこには。
「やっほ」
「ああ、会長か」
「共通テスト、どうだった?」
「ぼちぼち。まぁ、欲しかった六割半は越えたから、満足」
「よかったじゃん」
「会長は?」
「ん? ああ……七割越え、ぐらいかな。同じぐらいだよ」
「都立だっけ」
「そうそう。お前もだよな?」
「一応ね」
「なんだよ、まだはっきりしてないのか?」
「うーん、なんだろうな」
「なんだろう、って……お前のことじゃん」
「そうなんだけどさ」
歯切れが悪くなる答えに、はあ、と一度だけため息を吐いて、会長は下駄箱から自分の靴を取り出す。白く細い指が靴下とかかとの間をひと撫でして、こんこん、と一度整えると、振り返って、会長は口を開いた。
「田中さんとカラオケ行ったんだって?」
「え?」
「この前今の生徒会の子としゃべったら、そんなこと言ってたよ。副会長と田中さんってどういう関係なの~って、知りたがってた」
「ああ……そういうこと」
「で? どうせ本当なんだろうけどさ、どうするつもりなの?」
「どうするつもり、とは?」
「お前のことだから、ここまで肩入れするのに、何か理由があるんだろうけどさ、彼女、アイドル目指してるんでしょ? いいの? こんな風に男と一緒に居た、なんて噂になってさ。夢、邪魔しちゃうんじゃない?」
「……そう、かもしれないな」
「そう。お前もさ、言っちゃ悪いけど、お前の人生の岐路に立ってるのに、そんなんじゃ後で絶対後悔するから」
「分かってるよ。お前は俺のことを俺以上に知ってるって、分かってるから」
「分かってるならいいけどさ。あんまり僕だって口うるさく言いたくないからね?」
「なんか、すまんな」
「いいよ。ごめんよ、僕も受験でちょっとカリカリしすぎてたし、なんか当たっちゃった感じがしてるから」
じゃあ、と言って先に生徒玄関を出ていく会長の背中を、ただ見つめてしまう。本当は、一緒に帰ろうとしていたんじゃないのか? それを、裏切るような返答になってしまったのではないか。俺の人生の、俺の決断のはずなのに、そんなところに罪悪感を感じてしまう。
耳に残る彼の言葉が、頭の中にじわじわとしみ込んでくる。彼女のことを、そんな風に考えたことはなかった。確かに、違う学年の交流となれば、部活や生徒会がメインで、田中さんと今の俺の関係は、歪なものかもしれない。そして、その原因になっているのは、今の俺が、こうしてふらふらと揺れていることで。親にせっつかれて答えた受験の日程も、正直どこかどうでもいいことのひとつになってしまっていて。今の頭の中に残っていたのは、共通テストで間違えた英単語の問題と、彼女のオーディションのことと、今見えなくなっていく彼の後ろ姿だけで。
しばらくして、靴を履き替える。外に出ると、頬に刺す冷気が、思った以上に冷たい。息を吐いてみる。誰もいない校庭が、くすんで見えて、目を逸らして足早に校門へ向かった。
*
「二次審査、通りました……」
「なんでそんなに暗そうな声なの?」
一月末の、登校最終日。三年は昼前に解散となり、昼休み中に下校することになっていたが、中央階段の前を通った時、田中さんに声をかけられた。あまりにも神妙な顔つきで、何の話だろう、と思って身構えていた俺は、力が抜けて変な声でそう答えた。
「いや……なんか、緊張してきちゃって」
「そっか、次最終だもんな……。っていうか、二次審査、もう送ってたんだ」
「そうですね、年明けすぐぐらいには、録音して送りましたよ」
「そっかそっか、とりあえずよかったよ。最終審査って会場での公開オーディションだったよな。どこになるの?」
「765プロライブシアターというところになるそうです」
「じゃあ、懐に飛び込むわけだ。あ、いつ?」
「えっと確か……」
手帳を出して確認し始める田中さん。昼休みの賑わいに包まれて、小春日みたいな温かさを感じる。見渡すと、弁当やビニール袋を持って行きかっている生徒たち。手をこすり合わせながら談笑する女子たちと、ふざけたボケにツッコミを入れて笑いあう男子たち。この景色を見られるのも、もう少しなのか、と少し感慨深くなる。
「あ、二月の十三日です」
「もう三週間弱しかないのか」
確か、その日は、何もなかったはず。学校に顔でも出そうか。
「そうですね、そう思うともっと緊張してきました……」
「内容何だっけ?」
「面接だけです。候補者の中から半分を取るそうなので、二分の一にひっかからないといけないんですけど……」
「なら大丈夫だ、きっと」
「大丈夫、ですかね……」
「今まで通りやればいいんだし、大きな舞台だって立ってきたんだからさ」
「そう、ですね」
そこまで来て、田中さんが言葉に詰まった。えっと、とか、あ、とか、言葉にならない声が漏れる。俯きがちに、視線を左に逸らした彼女の瞳を、目で追ってしまう。
「……どうした?」
「えっと、もし、もしよければ、なんですけど」
意を決したように、顔を上げ、手帳から一枚の紙を取り出す。そこには、765プロライブシアター、と書かれたチラシ。
「公開面接の日、来てくれませんか?」
「え?」
「ほ、ほら、ちょうど日曜日ですし、受験の日程は平日が多いって聞いたので……それに」
「――見てくれてる、って思ったら、なんだか、頑張れる気がして」
往来の中で、一瞬、雑踏や声が消える。
彼女の瞳が、自分を貫いているのが分かる。彼女の意思が、ここにきてはっきりと伝わる。言葉に隠された、その裏側に見える感情まで。あまりにも純粋で、真っすぐで、そして、演技を自らの分野としてきた彼女のその仕草だからこそ、隠しても隠せないほどに、強く、はっきりと。
そんな光は、真っ白で、眩しくて、だから――
「分かった」
「本当ですか!? よかった……! ありがとうございます!」
*
「親父」
「ん? どうした」
「進路なんだけど」
「ああ……やっとか。で、結局、第一志望はどこ受けるんだ」
「私立の……ここにしようと思ってる」
「滑り止めは?」
「近場でいくつか……ここと、ここ、それから、ここ」
「国立は、結局都立にするのか」
「そのつもり」
「もう少し上も目指せそうなものだが……」
「上に行っても、したいことがないからさ」
「……まぁ、本人のやる気がないのにあんまり焚きつけるのもよくないか。分かった。なら――」
*
「おはよう」
「ああ、おはよう」
「眠れた?」
「ああ……あんまり」
二月一日。私立入試三日目。既に受けた二つとは違い、今回は会長とたまたま同じところを受ける日だったので、バス停で待ち合わせた。この日は、朝の気温が零度近くて、雪こそ降っていないが、霜がそこらに降りていた。
「だよなー……分かるよ、なんか緊張しちゃって僕もあんまりだよ」
「うん」
「あ、来たな、乗るか」
バスに乗る。午前九時というのに、同じような制服姿が多いのは、きっと同じく受験生なのだろう。さすがにその中で話すわけにもいかず、外の風景をちらりと見る。彩度が落ちた、朝靄がまだ残るこの景色はどこまでも広がっていて、目立つ建物でさえ、今日は鳴りを潜めているように感じる。
「次は、大学前、大学前――」
エアポンプの音がして、体が左に傾く。ドアが開くと同時に、制服姿が大勢立ち上がる。それに合わせて、自分もカバンを肩に掛けて立ちあがる。会長を見ると、ギリギリまで英単語帳を見ていたらしく、それをぱたんと閉じて、カバンにしまっていた。ICカードを通して、降り立つ。冷たい風が、一度だけ吹いた。体が縮こまる。そして、そこで降りた大勢と同じ方向の、最後尾を歩き始めた。
「寒いね……」
「冷えるな、今日も」
「だよね。いつになったら春が来るのやら」
「春、か」
「僕、この大学、私学の中では第一志望でさ」
「そうだったのか」
「来ることになればサッカーのサークル入りたいんだよねー……高校ではあんまりちゃんとできなかったからさ」
「まぁ、生徒会が忙しかったしな」
「楽しかったよね、生徒会」
「なんだかんだな。最初はどうなる事かと思ったけど」
「あはは、最初一緒に生徒会やるぞって言った時の顔、すごかったよ」
「だろうな……目立つのなんてこりごりだって思ってたのに」
「それがまっとうに副会長やってくれちゃってさー……感心感心」
「おかげでこの二年は退屈しなかったよ」
「ならよかったよ。あ、そういや受ける学部どこ? 僕は理工学部だけど」
「俺は……経済かな」
「経済? そういう系だっけ、興味あったの」
「なんとなく」
「なんとなくって……まぁ、お前のこの前の様子見てればそんな感じはしたけどさ」
やれやれ、とため息を吐く会長の伏し目がちな表情に、少しの申し訳なさを感じながら、大学の門をくぐった。
「じゃあ、僕はこっちだから」
「ああ」
「帰り、同じ時間だったよね?」
「確か。十三時半、だよな?」
「うん」
「じゃあ、また後で」
右手に歩いていく彼が、カバンからまた英単語帳を出したのを見届けてから、俺は手袋をした両手を、ためらいもなくコートのポケットの奥へ押し込んだ。
*
二月七日。受験結果が出たので、朝から報告に行く。結果は、合格。そして――
「よかったぁ……なんとか通ってて」
「おめでとう」
「お互いね。でも、合格最低点ギリギリだったよ。本当に危なかった」
二人して合格したこともあり、一緒に登校することになった。会長と並んで歩く校門前も、もう残り少ないのかもしれない、と思うと少し寂しい気持ちにもなる。
「なんか会長がそういうの言ってるの、珍しいな」
「そう? いつも平然とこなしてるのはお前で、僕はいつも結構ギリギリだと思うけど」
「そうだっけ」
「僕は平然を装っているだけ。ギリギリって思われ続けると心配されるからね」
「確かに」
生徒玄関で靴を履き替え、教室のある南棟ではなく、北棟へ。職員室の前を通り抜けると、そこには、大勢の生徒の列。その先は。
「進路指導室はさすがに大賑わいか」
「合格でも不合格でも言いに来なきゃいけないからな、仕方ないだろ」
「先生たちも大変そうだよねー」
その最後尾に並んで、カバンを一度下すと、ふう、とため息が出る。同時にそんな世間話も飛び出して、職員室前だから携帯を出すこともできず、呆然と職員室前に並べられた表彰状などを見つめる。その中には、もちろん生徒会でもらった表彰状や写真もあるわけで。
「あれ、懐かしいよね」
「どれ?」
「そこの上のやつ、PTAのフォーラムで発表したときのでしょ? あれ結構自信作だったんだよね」
「あれ俺たちすごい気まずかったんだよな。お前しか作ってないしあれ」
「まぁ、任せて! って言って僕が引き受けてきた案件だったからね。でもおかげでいろいろ融通利かせられたし、よかったでしょ?」
「まぁな。それは否定しない」
「大学でも学生会とかあるらしいし、入ろうかなぁ」
「サッカー、またできなくなりそうだな」
「それはそれでいいかもねー……別にあんまり上手でもないし」
「いいのかよ、この前はサッカーのサークル入りたい、みたいに言ってたのに」
「やらないわけじゃないよ? やる気はあるし。ただ、どっちもできるのが大学のいいところなんだよ、多分」
「多分って……」
そうこう話している間に、順番が回ってくる。奥に入ると、進路指導部長、と書かれた机に座るいつもの先生に、なんだか妙な緊張感を感じながら、大学合格を伝えた。外に出ると、俺たちの後ろにもまだ列があって、少し驚いた。
「帰るか」
「そうだね」
そう言って、列をよけて進む。職員室前の廊下を抜けて、中央階段に差し掛かった時、チャイムが鳴った。二時間目が終わったのだろう。階段の上についた時計を見ると、十時半。
すると――
「あ、先輩!」
「田中さん?」
階段から降りてきた彼女と目が合う。
「僕は先で待っておくから。ゆっくりおいでよ」
同時に、それに気を留めることなく会長は生徒玄関の方へ歩き出す。その表情は、一瞬のことすぎて見えなかった。とはいえ、彼といる時に彼女と出会うのはもうしばらくぶりだなと思った。
「最終審査の時間なんですけど」
「ああ、聞いてなかったな。いつになりそう?」
「十三日の、午後三時からです」
「午後三時、ね。対策は順調?」
「はい、なんとか……学校の先生にも相談して、見てもらってて」
「面接だもんな。そりゃそうか」
俺が見るよりずっといい、なんて、ちょっと自嘲気味に脳内で呟いてみる。そりゃ相手はプロなんだから、当然なんだけども。
「今日は報告ですか?」
「ん? ああ、そう」
「ちなみに、この前のは……」
「受かってたよ、大丈夫」
「よかった……! おめでとうございます!」
「あはは、ありがとう」
「私も頑張らないとですね」
「そうそう。応援してる」
「ありがとうございます!」
ではあんまり会長さんを待たせてもよくないですから、と軽く会釈だけして別れる。靴を履き替え、校門前まで向かう。そこには、静かに待つ彼の姿。
「早かったね」
「待たせたな、すまん」
「んーん、大丈夫。帰ろうよ」
「そうだな」
右隣に並び、ゆっくりと歩き始める。かつかつと靴音が響く。午前十一時前のこの時間の住宅街は清閑なもので、その靴の音だけがやけに耳に残った。
「田中さんさ」
「え?」
「笑顔だったね、すごく」
「そうかな、いつも通りだったと思うけど」
「……お前さ、なんか隠してない?」
「え? 隠してなんかないが」
「本当? じゃあ、今、大学受験に一番真剣に向き合ってるって言える?」
左の足音が止まる。止めるのが遅れて、数歩先に行ってしまう。彼の視線が、左肩に刺さるように感じられた。振り向くも、彼の目を見ることができない。視線はアスファルトを泳いでしまう。
「なんかさ、これは僕の勝手な感想だけど」
そう前置きをした彼は――
「お前は、大学に行くより、したいことがあるんじゃないの?」
俺が、「ついこの前」辿り着いた結論に、何も言わずに到達した。
*
「……まぁ、本人のやる気がないのにあんまり焚きつけるのもよくないか。分かった。なら――」
一月の最後の登校日。帰ってきた父親を呼び止める。前から、どこを受けるのか、ちゃんと親父に報告しろと母親に言われていた。それもあって、意を決して親父に話したその最後に、親父はこう付け加えた。
「就職は、考えていないのか?」
「え?」
「この前、制服をリビングに置いて行った時があっただろう。その時、ポケットに見えたんだよ、これが」
親父が取り出したのは、田中さんからもらったチラシ。そこには――
「765プロダクション 新規企画プロデューサー募集……って、こんなチラシ、興味がなければ持って帰ってくるはずないって思ってな」
「あ、ああ……」
「まぁ、お前は昔から親戚の小さい子の面倒を見たり、友達が困ってるときには自分のことをすぐ後回しにしたりするところがあったから、ない話ではないと思ってな」
机の上に出されたそれを、改めて眺めてみる。年齢的にも、条件的にも、決して応募できないわけではない。したいことがあって大学受験を選んだわけでもない。いつも、何かをするのは誰かの何かがあってからのことだ。会長がいて、副会長になったことも。それに――
田中さんがいて、あの劇を見て、彼女を、応援したいと思ったことも。
だから、誰かがもし輝けるそのきっかけになれるのなら。もし、自らではなく、誰かが色づく光を共に追いかけることができるのなら。もし、自分にはない夢を、一緒に叶える側に立てるのなら。
その時、意味を感じられるかもしれない。俺が、こうして生きていく、意味を。
「別に、俺たち夫婦はお前に大学に絶対行けなんて言うつもりはない。ただ、自分で選んだ道をちゃんと進んでほしいだけだ。それが、こういう就職だって、俺はありだと思ってる」
何気なくやってきた受験勉強。確かに、苦に感じていなかったし、これまで通り試験に向けて勉強して、対策して、の繰り返しだと思っていたのは事実だ。そして、その道をこれからも進むのだと思っていた。
だけど、今、こんな選択肢があるのなら。
「親父」
「ん?」
「俺さ――」
*
「じゃあ、就職が第一希望で、大学進学自体が第二希望ってこと?」
「そうなる」
「……やっぱり、ちゃんと隠してたじゃん」
「いや、別に、こんなの言うべきことでもないだろ」
「なんでだよ。ちゃんと言ってくれよ。てっきり一緒に頑張らなきゃって思ってたから、ちゃんとしないお前に苛ついてたのにさ」
「苛ついてたのか?」
「そりゃね。だって、全然ちゃんと勉強してないのに、こうして合格しちゃうじゃん、お前ってさ」
ふと目を上げると、不貞腐れたような表情になった彼が、数歩歩いて、俺の隣に来た。合わせて歩き出す。清閑な住宅街に、また足音が響きだす。今度は、二人の足音が重なって少し大きく響いた。
「でも、765プロってことは、田中さんと同じところなんだ」
「そう、だな」
「それならそれで、本格的に向き合い方考えないと、じゃない? もしかしたら、同じところで働くかもしれないんでしょ?」
「向き合い方、か」
「そうだよ。前も言ったけど、今男と一緒に居るなんて噂になったら、それはそれで彼女の夢も、お前の考えも、どっちも潰れてしまうんじゃないか? それは避けた方がいいと思うけどなぁ」
不貞腐れた顔からいつもの表情に戻った彼を見ながら、ああだこうだと呟くその姿を、まるで他人事のように眺めていた。そして、まばたきの瞬間に目の裏によぎる赤毛の少女の姿を想い起こしてみる。
俺がこの道を選んだのも、彼女と一緒に居たいからという、そういう気持ちがなかったわけじゃない。むしろ、大きな割合を占めている、と思う。もちろん、劇のジュリエットの時のような関わりができればと思うし、田中さんとでなくとも、そういう仕事をしたいと思った気持ちは正直にある。ただ、それでも、やっぱり田中さんの羽ばたく姿が見たい。その気持ちは、一番強かった。
だから。
「どうすれば、一番いい形なんだろうなぁ」
バス停前の交差点を渡り切った時、会長が言ったその言葉は、俺の胸に一番残る問いになった。
*
その日。家に帰ると正午すぎなのに何故か父親がいて。
「765プロさんのところ、連絡来たぞ。面接、十二日だそうだ」
「え? 早くない?」
「お前が受験生だってこと知っててのことだろう」
「いや、まぁ、そうかもしれないけど」
「試験内容が面接だけってのも今時珍しいもんだ。履歴書を送って面接日程が来たってことは、書類は通ってるんだし、どんと構えていけ」
「わ、分かった」
父親なりに励ましたかったのか、普段はあんまり笑わないその顔が、少し綻んだ。
俺は、どんな顔をしていただろう。
*
面接当日。かじかむ手でチラシに書かれた地図を見ながら、ライブシアターの場所までやってきた。まだ本格的に稼働していないからか、人は少なく、がらんとした空間に、大きく面接会場はこちら、と書かれた看板がある。待合室に行くと、何人か、俺と同じような制服姿や、スーツ姿の男の人がちらほらと座っている。
「次の方、どうぞ」
呼ばれて、立ち上がる。国公立の受験用に練習した面接の感じで、セオリー通りに進めていく。
「社長の高木順二郎だ。どうぞよろしく」
「チーフプロデューサーの篠原です。よろしくお願いします」
年老いた紳士と、若手のエリートといった風貌の男性が、面接官として座った。それから、志望動機、アイドルに関すること、これまでの学生生活で頑張ってきたこと。ありきたりな質問が並ぶ。用意してきた答えをただ答えるだけなのに、それでも緊張が拭えなかった。受験の時には感じなかった、焦りや、戸惑い、本当にこれでいいのかという不安が、常に膝の上に軽く握られた手の中にあった。
そして。
「以上で面接を終わりますが……最後に、何か質問があれば教えてください」
最後に、と言われ、少し安心した。
「そうですね……一つお伺いしたいことがあります」
だから、気が緩んで、抱えていた不安が口を突いて飛び出してしまう。
「実は、知り合いが、明日、こちらの公開オーディションを受けるんです」
「ほう」
「それで、明日、その公開面接を見に来ようと思うのですが、可能でしょうか?」
「ふむ……それは難しい質問だねぇ」
「そうですね……公平性が揺らぐ、という意味では、避けていただくのがよいですが、ご友人とあれば、来ていただいた方が彼女たちの力になることもあります」
「その知り合いは、君が明日来ることを知っているのかね?」
「はい、私が声をかけられた方でもあります」
「うーん……じゃあ、その子は君がこの面接を受けているというのは知ってる?」
「それは、知りません」
「それは……今後彼女たちと君が関わることになったら、あの時いた人だ、ってなるかもしれないってことだからねぇ」
「確かに……でも、先ほども述べましたが、友人や身内の方に見ていただくというのは、彼女たちの大きなパワーになるとも思います。なので、一概に控えるというのも違うかと……」
「そうだねぇ。もしかしたら、これまで面接した人の中にも、そういう知り合いがいて、明日来るかもしれないし、彼だけ来られない、なんてのも違う気がするしねぇ」
「……と、申し訳ない。社長と私でもまとまらないから、最終判断は君に任せるよ。ただ、私たちはアイドルを最優先に考えてるってことだけは、忘れないでね」
*
『面接、どうだった?』
「あ、ああ……なんとか上手くいったよ」
『よかったぁ、お前らしからぬ緊張具合だったからさ、心配だったんだぁ』
シアターを出て、電話をかける。相手は、会長。電話を持つ青白い右手は、少し震えている。抑えるようにして、左手で電話を支えた。
『で? 何訊かれるの、ああいう時』
「志望動機と、それからアイドル業界についてのこととか、これまで力を入れてきたこととか」
『ああ、所謂ガクチカかぁ。なるほどね、やっぱり訊かれるんだ』
「何か気になることでも?」
『いやいや、自分が就職する時に使えるかなって』
「ここにきて俺じゃなくて自分の心配かよ」
『いやいや、十分心配したよ? 今朝なんて、予定よりニ十分も早く起きちゃったんだから』
「それはただのちょっとした早起きだろ」
『まぁそれは置いといて。……それで? なんか上手くいかなかったの?』
「え? いや……そんなことはない、と思うけど」
『じゃあなんでそんなに声が暗いのさ。なんかあった?』
「……お前には隠し事できそうにないな」
『そういうのはする必要がある時考えればいいことでしょ。で? 何があったの?』
「明日さ、田中さんのオーディションなんだけど」
『あ、そっか、そうだったね』
「それ、公開面接だから、見に来てくれって言われてて」
『いいの? それ。行っても』
「って思って、不安だから、田中さんって名前は出さなかったけど、行っていいか、最後に訊いてみたら、どっちとも言えないって言われてさ」
『何それ。はっきりしてほしいね』
「……会長も言ってたよな。向き合い方考えないとって」
『ん? うん。そうだけど……』
「俺が行くことで、田中さんの夢がつぶれてしまうかもしれないなら、行かない方がいいのかなって」
『まぁ……受かってれば、別に明日行かなくったって何度も顔を合わせるだろうし、もしどっちかが受かってどっちかが落ちてれば、これ以降会うこともないだろうし……お前がそれでいいならいいと思うよ』
「……だよな」
『ただ、ちゃんと田中さんには伝えろよ?』
「どうやって?」
『どうやって、って、連絡先持ってないの?』
「持ってないが」
『ええ……今時連絡先持ってないのにあんなに頻繁に会えてたとかある?』
「基本学校だったからな……」
『じゃあ、せめて、会場の入り口までは行って、オーディションは見られないことを、彼女にちゃんと伝える。これでどう?』
「そう、するか。……あ、そろそろ電車だから切る」
『分かった。まぁ、とりあえずお疲れさん』
*
時計を見る。二時四十五分。二月十三日、オーディション当日。集合時間の三時には、まだ少し時間があった。いつもと同じように、制服とコートに身を包み、シアターの入り口の近くに立っていた。肩を上げ、体を小さくして、周囲を見渡してみる。ポケットに入れた指先がじんわりと凍るような痛みに襲われる。
見上げてみる。曇った空が鈍色に光る中、目の前にそびえるのは、まだ真新しい外装ののライブシアター。昨日来た時の静かで厳かな雰囲気とは違う、騒がしく、そして物々しい雰囲気を醸し出していた。その下に集まる多くの人。公開面接と言うこともあって、業界関係者らしい人も多く来ている。やはり、この中に、ただ一介の高校生――その上、もしかするとこれから関係者になるかもしれない――が入っていくのは難しい。入らない、という選択は、きっと間違いではないはずだ。
時計を確認する。二時五十分。まだ、彼女の姿は見えない。心の内がざわつくのは、緊張か、寒さか、それとも――何度も吐き出す白い息が、濁った灰色の景色を綺麗に染めてくれないかと、叶うはずもない期待を寄せてみるも、震えは止まらない。
まだか、と思い時計を見れば、二時五十五分。もうそろそろ来てもいいんじゃないか。寒さより、早く伝えねば、という気持ちが、足をカタカタと震えさせる。早く、早く伝えて、この何とも言えない重苦しい感情から、解放されたい。さっきよりも細かく、人混みの中に彼女を探す。
その時。
「いた」
見つけた。入口の前。両手で携帯を握りしめ、イヤホンで音楽を聴いている。少し青くなった唇。真っ白に染まった頬。いつも通り、ベージュのセーターに、ブルーグレーのチェックのスカート。ネクタイをきっちり締めた彼女らしい装いで、そこに立っている。見慣れたその姿に、一歩、また一歩、近づいていく。
だけど、声が、出ない。
なんて声をかければいい? プロデューサーになるから見られない? 事情がある? 応援の言葉? どうしても、上手く彼女と会話できる気がしない。
それに――
ああ、やっぱり、そうだ。そうだよ。
俺は、彼女が――田中さんが、好きなんだ。
目を閉じる。瞼の裏に映る、赤毛の少女。真っ白な思考の中に、鮮やかに揺れている。
彼女が色づけていく時間。
彼女が色づけていく舞台。
夢を纏って、今駆け出していく。
だけど、この想いは、夢の光を遮ってしまう。
彼女の演技、踊り、歌声。そのどれもの中に、彼女は自分を宿していた。それを見てきて、俺にはない夢を追う姿に惹かれて、こうして、ここまで来たはずだ。ありふれた選択でも、安全な道でもない、自分のできることをするという選択に、つながったはずだ。
だから、プロデューサーに、なりたいって、思ったんじゃないのか。
この夢だって、彼女の夢の光にもらったものじゃないのか。
それに、今、彼女の姿を見られないなんて言えば、気持ちが動揺することだって、あり得る。彼女の夢は、まだ、道半ばなんだ。次の一歩が踏み出せない。
そして、俺の次の一歩を待たず、三時が来てしまう。
彼女は受付を通って、スタッフに笑顔で答えて、奥へ消えていく。一瞬映った彼女の笑顔は、どこか悲しげに見えた。
踏み出そうとしていた足は、自然と一歩戻っていて。声が届かないところへ、彼女が行ってしまうのを、ただ見守っているしかできなくて。
灰色の雲が、ゆっくりと流れていく。
ごめん。
でも、頑張れ。
田中さんなら、君なら、きっと、叶うから。
それだけを祈った。
扉は、閉まる。
そこに居た大勢は、扉の中へぞろぞろと入っていった。そして、数分にしてエントランスの前は静かな空間に生まれ変わる。何もできず、ただ立ち尽くしているのは、俺だけだった。風が一度吹く。人の壁を失ったこの空間に、冷たく、刺すように、鋭く俺だけに吹く。
帰らなきゃ。踵を返す。
その時――
「雪、だ」
白くて、冷たくて。思わず見上げる。鈍色の景色が、今、ゆっくりと、白に染まっていく。目の前に広がる真っ白な結晶が、眼、頬、そして、顔全体へと冷気を染み込ませ、ブレザー、セーター、そしてポケットの奥に秘めた手袋の指先まで、冬の厳しさを伝えに来る。そして、地表に降り立ったそれらは、ゆっくりと、地上の熱で溶けて、消える。いなくなるのではないけれど、確かにそこにあったものだけれど、俺を、景色と同じ色に染めて、その役割を終えたかのように、消える。
雪が降る時、ちらちらと音が鳴っているのか、耳元でかすかなノイズが聞こえる。そのノイズだけが、耳を、思考を、支配していく。大きく息を吸い込んでみる。鼻の頭がじんわりと痛む。そのまま、一度目を閉じて、大きく吐く。口元が冷えて、少し震えがやってくる。現実に戻される。
どうすべきかなんて、分かっているけれど。
どうすれば自分の気持ちを相手に伝えられるか、考えてはいるけれど。
誰かにとって、自分にとって、それが一番の選択になるようにするには、どうすればいいか、いつも考えてはいるけれど。
でも、それを、選びきれないだけ。
怖くて、前に進めないだけ。
伝えられないだけ。
だけど、こんなに冷たくなるのなら。
こんなに、寒くなるのなら。
こんなに、白くなるのなら。
白い景色に、ゆっくりと、踏み出すしかない。
その足跡は、きっと、雪が消してくれるから。
それなら、白に覆われてしまって見えなくなるだろうから。
それなら、雪が全てを包み込んでくれるだろうから。
それなら、寒さが全ての感覚を奪ってくれるだろうから。
静かで真っ白な世界を、一人歩いてみる。
今、俺は、どんな表情をしているんだろう。
右足を踏み出してみる。そんな言葉が頭に浮かぶ。
だけど、今は、歩き出すしかない。
これ以上、彼女を裏切らないように。
この気持ちに、気づかれないように。
*
一旦はこの話で過去編が終了です。
次話からが新作になります。