まだ研修生だったこの時間は、永遠みたいに長くて、苦しかった。
けれど、今、変わっていく。
花は開いていく。
彼との出逢いが、また私を揺さぶる。
*
人生初めての女性視点です。正直かなりの挑戦ではありますが……ご意見等ありましたら、感想にてお待ちしております。
① Orange
鏡の中で、息を吐く音がした。
マイクを通していない、生のままの声。天井の高いレッスン室に、それがそのまま吸い込まれて、消えた。鏡張りの部屋で、それに映るのは私だけ。その息が私から漏れたものだと、後から実感が湧いた。エコーのように、響いていた。
電気をつける。壁一面の鏡に、ジャージ姿の私。丁寧に手入れされているからか、まだ明るいベージュのままの床。汗と、ほのかに残る制汗剤とリップクリームの香り。カバンを下ろす。ここに通うようになって、ちょうど一か月。いつも通りと感じるには、十分な時間だった。
ここ、765プロダクションのオーディションの最終審査を受けたのは、もう二か月も前になる。あの会場で、最後に私の名前が呼ばれた時のことは、まだ瞼の裏に残っているほどに、鮮烈で、まぶしくて、未知だった。その瞬間、世界は真っ白に光り輝いていたと思う。
それから一か月、毎日がレッスンで埋まっていた。学校から帰ればすぐにこのレッスン室へ来る。歌声、ダンス、立ち方や笑い方などの身体表現の細かなところにいたるまで、学校では教わらない、知らなかったことばかり。白い世界に複雑な色の絵の具が塗られていく。普通なら、これを忙しいと呼ぶのかもしれないけれど、楽しかった。高校三年になって、この節目の年に見合わない学業以外の勉強に、「満足だ」という感情が差し込まれて、その忙しさと満足のリズムに合わせて走り抜ける。気づけば五月の半ばだった。
「おはよう、田中さん。早いのね」
立ったままそんなことを思案していた私に、後ろからトレーナーさんの声が聞こえる。ドアが開いた拍子に、隣のレッスン室の音が少しだけ漏れ入る。まっすぐで、純粋な、透き通った声。私もあんな風に歌える日が来るのだろうか。
そんな未来は、まだ想像つかないままだった。
「それでは、今日も始めましょうか」
*
大した自信もないけれど、この世界に足を踏み込むと決めたのは、私だ。
去年、文化祭に来てくれた、765プロのゲリラライブ。広告に大きく「ありのままの自分で」と書いてあって。その、たったそれだけのことで、私は友人たちに背を押されて、ここまで来た。
私は、私。私でいいのだろうか。これまで取り組んできたお芝居だって、ここでのレッスンの内容に比べれば、お遊びみたいなもの。私の「ありのまま」がどれほどの価値を持つのか、私の何を見てオーディションを通したのか。自信をもっていいのか、いけないのか。わからなくなる。
それに、他に時を同じくして合格した仲間たちが、どんどんデビューしていく。この事務所の総合プロデューサーである篠原さんは、私だってすぐだ、と言うけれど、そんな気配は感じない。焦りだってある。私は、ここで華が開かなければ、きっとここまでの存在なんだと、この先のステージに足を踏み出す勇気を持てなくなる。
わかってはいる。だけど、あがくしかできない。
だって、ただ、私には歩いてきた道があるだけだから。
去年の文化祭の、「ロミオとジュリエット」。その歩みだって、『誰か』の支えなしには、進められなかった。私に力なんてない。ただ、そこにあるのは、足跡だけ。
私は、一人じゃ踊れない。ジュリエットは、ロミオがいて、ジュリエットなんだ。
だから、ジュリエットみたいに、胸を張って、私を見て、と言える。そんな自分になりたかった。
なのに――
「ちょ、ちょっと大丈夫!?」
そこまで思考が辿り着いたとき、封をしていた『誰か』の顔が浮かぶ。
ああ、駄目なのに。
これを振り払いたくて、今、ここにいるんじゃないの?
そんな疑問が過る中、世界はスローモーションで傾き――そのまま大きな衝撃が頭を揺らした。
*
「琴葉さん、大丈夫? 倒れたって聞いたけど」
目が覚めた時、医務室のベッドの上に自分の体があった。天井の模様の形をぼんやりと見つめていると、扉の向こうから声がして、それから、開いた。
扉の向こうにいたのは、さっきの思考の途中の声にいた、篠原プロデューサー。
「大丈夫です、ただちょっと躓いただけで」
「ちょっと、頼むよ? これからが大事なんだから」
「デビューはまだ先ですけどね」
えへへと作り笑顔をして見せるも、篠原さんは動じない。瞳の奥は、笑っていない。背筋を冷たいものが伝う。
「いいや、それがもうこれからなんだ」
*
右膝を冷やしながら向かった先は、ミーティングルーム。普段立ち入らない場所に感じる少しの緊張と不安を、一息、飲み込んだ。篠原さんが先に扉を開く。
「どうぞ」
奥の席に案内され、座る。三畳ほどの小さな個室。四人用のデスク。事務的な、緑のメッシュの椅子。壁は真っ白で、何もない。きょろきょろと見回す私は、きっと怯えた猫のようなものだっただろうけど。
目の前に座った篠原さんは、用意していたクリアファイルから、一式の書類を取り出して、差し向けた。
「デビューが決まったよ」
「ほ、本当……ですか?」
「嘘を言うためのこれなら、えらく大げさなドッキリだね」
そこにあったのは、私のプロフィールと――
「ユニット、構想」
「そう、今年のうちは、先輩であるオールスターズ組とユニットを組んでデビューしてもらっている。田中さんには、その三組目として、うちのアイドルと一緒に、デビューしてもらうよ。さて――」
いいよ、と手招きした瞬間、開いた扉には。
「は、春香さん!?」
「琴葉ちゃん久しぶり~! 元気してた?」
壁から顔だけ覗かせて、赤いリボンが揺れたかと思うと、そこにあった、見覚えのある――憧れていた――笑顔。
天海春香、本人だった。
「げ、元気も何も……」
「あはは、だよね、レッスンばっかりで大変だよね。いつ以来? オーディションの時以来じゃないかな?」
「あ、はは……」
「これから、“一緒に”! 頑張ろうね!」
「というわけだよ。うちの春香と、一緒にデビューしてもらう。もうその話で進んでるんだ」
テレビで見るような純粋で透明な笑顔の春香さんと、少しやさしい笑顔になった篠原さんを前に、視線をどこに置いていいか、分からなくなる。
「春香は、去年はソロで色々メディア進出したからね、そろそろユニットも考えてほしかったんだ。事務所のオールスターライブ、っていう枠組みじゃないユニットをね」
「千早ちゃんや響と組むのかな~って思ってたら、今年入ってきたみんなの中から、って言われてびっくりしましたよ!」
「知名度を上げてもらったからね、春香には。だから、後輩のデビューも華々しく飾ってほしいわけだよ」
「えへへ、そこまで言われると照れますね……」
「まぁいつもの調子でこけないように、田中さんも支えてあげてね」
「ちょっと、プロデューサーさん!」
目まぐるしく変わる二人の表情と話に、話している顔を見るのに精いっぱいになっている私がいた。
デビュー? 春香さんと? あの、天海春香、と?
分からない。けれど、ようやくつかんだチャンス。
オーディションに通った時のような、真っ白な思考に包まれる。
私は、どんな私を見せられるんだろう。
本当の私はどんな私なんだろう。
胸を曇らせていた靄の正体は、一体何だろう。
その答えは、きっとこの一歩の先にある。
「さて、春香も座ってくれ。これからの説明をしよう」
*
春香さんは私の隣に座って、資料を受け取ると、ペンでいくつか印をうち始めた。茶色の背広は暑かったのか、それを脱いでネクタイを緩めた篠原さんは、首を一度だけ回す。バキバキと音が鳴って、私は紙を捲る手が止まる。
「さて、じゃあ、説明するけど、いい?」
そこから、パソコンの画面と手元の資料とを交互に見つめながら、学校の授業よりも早いスピードでどんどんと情報を流し込まれる。
「というわけで、しばらく……この一年は、琴葉さんのデビューに合わせて、春香と琴葉さんの二人でユニットとして活動してもらう。最終目標は、二人でアルバムを出して、春のアイドルフェス、スターガールズフェスタでトップスターになることだよ」
ミーティングルームの中を飛び交う声から、単語を拾って記していく。その隙間に、本当にこんなことができるのだろうかという不安と、本当に始まるんだという現実感が、私を優しく、けれど冷たく包み込む。頭の中は散らかっていて、本当は整理しておきたいけれど、今はただ、耳に入れ続ける言葉をペンに書かせるしかできない。
「最後に、スターガールズフェスタは、それぞれの会場で自分たちだけのセットリストを作る必要があるから、それなりにレパートリーを増やさなきゃいけない。それは覚えておいてね。目安は、五十分」
「五十、分」
「じゃあ、MC含んで七曲ぐらいかなぁ」
時間に驚く私を置いて、落ち着いた様子で答える春香さんに、私はまた驚かされる。
「ここまでで何か質問は?」
「大丈夫です」
「だ、大丈夫です」
「ん、分かった。じゃあ、肝心のプロデュース方針なんだけど」
ぱたん、と机の上に置いていたノートパソコンを閉じて横に避けると、篠原さんは少し穏やかな笑顔で口を開いた。
「今回は、僕はプロデュースしないんだ」
「え?」
「他に任せようと思ってね。僕も後任や分業を考えないといけなくなってきたからさ」
なにせ五十二人いるからね、と口添えする篠原さんは、困ったように笑った。隣の春香さんは今日一番の驚きらしい表情だった。
「じゃあ他に誰が……?」
「今年入ってきたばかりだし、アイドルについて詳しくもなければ、業界についても詳しくないけれど――人を見る目だけは確かな人だよ」
そこまで言って私に視線を移した篠原さんの口角が、少し上がった。
「おーい、入ってきていいよ」
「失礼します」
その意味は、遅れてやってきた。
だって、その声は――ずっと聴きなれた声だったから。
知っている。この声を。この人を。
私の背中を押し続け、あの体育館で、自販機前で、灰色の通学路で、私とともに歩んだ人。
私の道を、応援してくれた人。
そして――私を、最後に突き放した人。
見慣れた瞳。鼻。唇。喉仏。息をのんだ。ゆっくりと上下するそれに合わせて、私も、一息のむ。
「彼が、今日から君たちのプロデューサーだよ」
「よろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
目の前で過ぎる、通過儀礼のような挨拶に合わせるべきなのに、私は声が出ない。
聞きたいことが、言いたいことが、胸の奥から溢れ出て、喉の奥をふさぎ切ってしまう。
どうして、ここにいるんですか。
どうして、何も言わずにいなくなったんですか。
どうして、これまで連絡しても出てくれなかったんですか。
どうして――こんなにも、私は、嬉しいんですか。
分からない。わからない。
どうして、あの人が、こんなに自然に、目の前に立っているんだろう。
窓から差し込む夕日が、部屋をオレンジ色に染め上げる。
忙しすぎて、複雑に色が塗られていた日々を、一色、全てが塗り替えていく。
傾いていく世界に、たった一筋の光がある。
物語の続きは、たぶん、ここから、始まる。
*
「いいのかい? 僕が提案したことだけど」
「いいんです。やりたかったのは、これなので」
「それならいいけど。……ついでで押し付けちゃって悪いね」
「いえいえ、トップアイドルである天海さんから、学べることはきっと多いと思うので。私も、田中さんも」
「そう言ってくれると嬉しいんだけどさ。アイドルとはいえど、たかが十七歳の女の子だからさ。人並みに考えて、勉強して、生きてる訳でさ。それには、もう僕ぐらいの年齢にはない何かだってあるんだ」
「……年齢によって、変わるものなんでしょうか」
「たぶんね。若いからこそ輝いて見えるものもある。それが、春香には、まだコントロールできてないんだ」
「それなら余計に、まだ二十歳にもなっていない私なんかが二人のユニットを担当するので大丈夫でしょうか? これまでの39プロジェクト組は、篠原さんがプロデュースされてましたよね?」
「言った通りだよ。僕だって後任を育てなきゃいけないし、いつまでもワンオペで進むわけにはいかないんだ。だから、君に任せるんだよ」
「そう、ですか」
「それにさ」
「はい?」
「君が面接で言っていた知り合いって、田中さんのことでしょ?」
「え?」
「このプロデュースが決まるまではさ、色々レッスン室とか見て回ってたし、何人かは話しかけていたのに、決まってからは事務室や研修室ばかりにいたよね」
「……分かりやすかったですか?」
「いや? 田中さんの居ないレッスン室ばかり回っていたってことに気づくのにはだいぶ時間がかかったよ」
「そこまで見抜かれていたんですか」
「まぁ、人を見るのが仕事だから」
「……なるほど」
「まぁいいんだ。僕はそういう化学反応も見たいからね。……さて、そろそろ僕は夜のライブに出た子たちを迎えに行くから」
「既にデビューしてる二組ですね」
「うん、今日は生放送だったし、まだ彼女たちは未成年だからね」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。……しばらくは僕も一緒に見るけど、ちゃんと独り立ちはしてもらうからね」
「はい。また明日、よろしくお願いします」
「ん、お疲れさん」