「もう一回いきましょうか。サビの頭から。……田中さん、入りが半拍遅れてるから、気を付けてね」
「は、はい!」
レッスン室でデモ音源が止まるたび、息も止まりそうになる。膝に手をついて、額を伝う汗を拭う。ダンスのレッスンは、いつも過酷だ。
「琴葉ちゃん、ここのステップ苦手そうだけど……多分、こう、上半身に意識を移すといいかも!」
一年走り続けたトップアイドルは、伊達じゃないと改めて思わされる。隣にいる春香さんは、汗はかいていても私ほどではなく、息も表情もまだ余裕がある。
ユニットで動き始めた次の日のレッスンは、水曜日なのでダンス。苦手なこのレッスンの日の朝は、決まって憂鬱になる。たかだか一か月、まだ何かできるようになっているはずはないのだと思いながら、今はメロディーとリズムに食らいつく。ただでさえ、目下の課題は何も解決していないというのに、こんなところで躓くわけにはいかない。学校にいる間も、移動中も、時間がある時はずっとデモ音源を聞き続けた。そのリズムとメロディーに、自分の体を乗せていく。言われた通り、上半身の動きに意識を宿す。腕や腰の動き、頭の位置。靡く髪と、めくるめく変わる視界。そして、その隅にいる、昨日はいなかった、目下の課題――
「うん! 今のすごくよかった! ですよね?」
動きが止まったタイミングが、隣にいる気配と重なる。見なくてもわかる。揃った。やっとだ。
「うん、いいんじゃないかな。とりあえずは今日は終わっておきましょう。しっかり休んでね」
「「ありがとうございました!」」
その影は、部屋の端で何かメモを取りながら、ただ私たちとメモを交互に見つめている。何を思ってそこに立っているのか、その表情は、多くは語ってくれない。
そんなことが頭に過った時。
「お疲れ様、二人とも。最初のレッスンだったのに長い間よく頑張ったな」
昨日より多少ラフな、シャツにジャケットといったレベルの服装で、スポーツドリンクを二本、私たちに差し出した。顔を、見ることができない。
「えへへ、ありがとうございます!それに、琴葉ちゃんも頑張ってくれましたから!」
「そうだな、天海さんも、田中さんも、お疲れ様」
天海さん。田中さん。
「まさか一か月でここまでできるようになってるなんてびっくりしましたよ! 私もまだまだ頑張らなくちゃ! って思わされちゃいました!」
「いやいや、天海さんはさすがトップアイドルだと思わされたよ。……敬語じゃなくて本当にいいのか? 俺のほうが後輩なのに」
「いいんです! 年はプロデューサーさんのほうが上なんですから!」
身長差にしておおよそ二十センチ。見上げる春香さん。そして――
「あ、の、せん――」
言葉を挟もうとして、止まる。声にならないまま、口は閉じてしまう。
「田中さんも頑張ってるんだから、俺も頑張らないとな」
私の声に気づかないその口ぶりは、私が知っているそれと、全く同じで。
そう、ですよね。
私たちは、何も変わっていないはず、ですよね?
*
シアターの控室に戻ると、この時期にしては少し冷たい冷房が迎えてくれた。真ん中に置かれたデスクの席に着くと、ふう、と一息。その瞬間、遅れて春香さんが汗をタオルで拭いながら入ってくる。こちらを見て、軽く手を振ってくれる。
「お疲れ様! 最後のほう、だいぶよくなったね!」
「ありがとうございます。まだまだ追いつけそうにはないですけど……」
「いいのいいの! 全然大丈夫! 私なんて、最初はこけてばっかりで練習にならなかったし」
おかげでいっぱい練習することになったけどね、と付け加えて、少し困ったように笑いながら、私の前に座った。
「そうなんですか?」
「だから、デビュー曲は、あんまり振付が大きくないものにしてもらったんだ」
「『太陽のジェラシー』、ですよね?」
「そう! 知ってくれてたんだ!」
「先輩の曲ですし、一緒にやらせていただく春香さんの曲は、ちゃんと聞いておこうと思って」
今更ながら、こんな大先輩と一緒に組むのが私なんかでいいのだろうか。去年のゲリラライブ以来、色々見て回ったけれど、オールスターライブも含めて、改めてこの事務所の大きさを痛感させられた。飛び込んだはいいものの、思った以上の規模の大きさ。気を抜けばすぐに心の隙間に不安が入り込んでくる。
「琴葉ちゃん」
そんな思考のループの入り口から手を引かれるように、目の前の春香さんの声に顔を上げた。気づいたらうつむいていたらしい。
「そんなに構えることないよ、まずはゆっくり、やりたい道を探せばいいんだから」
「やりたい、道」
「それと! これは大事なことだけど、私、琴葉ちゃんよりひとつ下なんだから、『さん』、やめない?」
「は、春香、ちゃん?」
「そう! これから一緒にやっていくんだから!」
はい! と渡されたのは、チョコチップのクッキー。
「よろしくね、琴葉ちゃん」
「は、い、よろしく、お願いします」
呼べる自信はないけれど、善処しなきゃ。クッキーを受け取る右手は、少し震えていたと思う。左手で少しおさえて――大切に受け取ったように見えるように――そのまま口に運んでみる。甘い。少しビターな大粒のチョコと、柔らかめの甘い生地。
「上手にできてるかな?」
「はい、おいしいです」
「よかった!」
そう言いながら、春香さん――まだ内心では「さん」は外れそうにない――も一枚取り出して一口。うん、と言った後、手元のスポーツドリンクのペットボトルを開けた。そのまま、一口、二口、喉を鳴らして飲み干す。
「琴葉ちゃんは午前学校だったよね?」
「あ、はい、そうです。春香、ちゃんは、お仕事ですか?」
「うん、今日は一人のお仕事だったよ」
こちらを向く、その笑顔の存在感は、大きかった。その大きさに、やっぱり呼び名はすぐに変えづらいものだと、改めて思った。
「あ、そうそう、今日はプロデューサーさんが見に来てくれたんだ」
「プロデューサー、が?」
プロデューサー、と、春香さんの声を繰り返すように口を突いて出た。そして、あまりの違和感に――必死に抑えようとしたけれど――少し身震いがした。
「いつもはプロデューサー……あ、えっと、篠原プロデューサーさんが見に来てくれるんだけど、今日は一緒に来てくれたんだ」
「そうだったんですね」
「軽くお話ししたけど、優しそうな人で安心したよ。琴葉ちゃんもだけど、プロデューサーさんも含めて、一緒のユニットだからね」
一緒の、ユニット。まだ実感は湧いていないけれど。それに、まだ、自分を含めたひとつの集団とみるには、心に巣食う靄の存在が大きすぎるけれど。
「あ、そうそう! 琴葉ちゃん、連絡先、交換しておこう?」
「え、あ、はい!」
思慮にまた捕まりそうになるも、慌てて携帯を取り出した。QRコードを出して、読み取ってもらう。可愛らしいウサギのスタンプが送られてくる。
「これでよし」
「ありがとうございます」
「あ、それでね、プロデューサーさんのことなんだけど」
「は、はい」
「ああ、そんな身構えなくていいんだけど」
無意識に背筋が伸びた。春香さんが、困ったように両手を前で振って、違う、と示してくれるも、背筋は緩まない。
「この後、事務室の方に寄ってプロデューサーさんと連絡先交換してこようと思ってるんだけど、いい?」
「え?」
想定していた質問や内容とは違って、変な高さの声が喉の奥から漏れ出る。話は戻らないのかな、と思った矢先――
「一応断っておかないとな、って思ったの。だって――」
「確か、オーディションの最後の面接のときに、来てくれなかった、って言ってた人って、プロデューサーさんのことだよね?」
こちらをのぞき込む瞳から、目が離せない。
オーディションの日以来、考えないようにしていたこと。目下の課題。
「それは……」
「やっぱり、そうなんだ」
「え? いや別にそんな――」
「大丈夫」
「顔見たら、分かっちゃったから」
*
「まだいたのか」
控えめなノックがした。その声に誘われて時計を見る。夜の七時だった。もうそんなに時間がたっていたのかと驚いた。そして、その声の主は。
「電気がついてたから見に来たんだけど……一人か?」
「え、ええ、はい」
「ならよかった。時間も遅いし、ここは俺が閉めるよ」
ネクタイのないワイシャツ姿のその人は、今はプロデューサーという名前で。
「あ、あと今後のスケジュール。帰る前に事務室の方に寄ってくれると助かる」
何の裏もない、事務的な会話。私は荷物をもって立ち上がったまま、彼が窓の鍵が閉まっているか確認しているのを、呆然と見つめている。
「どうした? 何かあったのか?」
そんな私に、いつもの、あの時と同じ声で、尋ねた。何も変わっていないと言わんばかりの、落ち着いたトーンで。
だけど、そんな簡単に返事なんか、できないよ。
「どうして」
「ん?」
「どうして、そんな風に、いられるんですか」
絞りだした声は、思っていたよりずっと細かった。
「オーディションの日も、それから先も、一度も話してくれなかったのに、どうして、今そんな自然にいられるんですか?」
「……田中さん」
「待ってたのに、ちゃんと、待ってたのに……!」
詰め寄る。ドアの近くで、ジュリエットの時よりも近い距離。これまで、どれだけ近づきたくても手の届かなかった、この距離に。
「……悪かったとは思ってるよ。ただ、あの時は俺にも事情があったんだ。謝って、はい解決、とはいかないと思ってるけど、それでも、ごめん、それしか言えないんだ」
ほしい回答は、それじゃない。だけど。
「それに、俺はこの仕事、進んで受けたんだ」
「……え?」
「この仕事なら、頑張ってる田中さんを近くで見られる。また、頑張れるって」
近寄った私から、顔をそらす。それに気づいて、一歩後ずさった。
「だからさ、とりあえずは、それで許してくれないか。今までのことは。いつか、ちゃんと話せる時が来たら話すから」
聞きたいことは山ほどある。でも、この人が「いつか」というのなら、それを待つ以外に、私に残された選択肢はない。
感情的に熱された頭は、冷やされていく。
「……分かりました」
いつの間にか溢れていた涙を拭って、向き直る。
「待ってます。プロデューサー」
初めて、違和感なく、口がそう動いた。喉の奥で閊えていた言葉は、思っていた以上に、重たかった。新しい関係を受け入れるはずのその言葉は、何かを得る代わりに、何かを奪っていくようだった。
「ああ、よろしく、田中さん」
それに気づいているのか、いないのか。彼――副会長でも、先輩でもない――は、また同じように名前を呼んだ。
私たちの間にある靄は晴れた。はずなのに、心は苦しかった。
*
「お疲れ様です、プロデューサーさん」
「あれ、春香。まだいたんだ。それと、今のプロデューサーは、僕じゃなくて、さっき出て行った彼だよ」
「そんなことは分かってるんですけど、なんて呼んでいいか分からなくて」
「篠原、でいいんだけどな」
「篠原さん? 篠原P? 篠原プロデューサー?」
「どれもしっくり来ないな」
「うーん、じゃあ、しばらくは篠原さん、にしておきます」
「分かったよ」
「あ、それと、琴葉ちゃんのこと」
「琴葉?」
「どうしてユニットの相手を私にしたんですか?」
「一番面白そうだったから」
「面白そう? ですか?」
「対照的な二人が、どんなハーモニーを生み出すのか」
「そんなに違いますか?」
「僕からは違って見えるけどなぁ」
「そうなのかな……」
「僕はそういうアイドルが見てみたいんだよ」
「そういう?」
「約束された成功でも、何かに突出したカリスマでもない、でも、何かを起こしてくれる、彗星みたいなアイドル」
「彗星、みたいな……」
「まぁ別に僕の好みになる必要はないんだけどね。それより、最初に会った時、久しぶりって言ってたけど、会ってたの?」
「ああ、オーディションの公開面接の日、エントランスで何かを探してる琴葉ちゃんがいて」
「何かを探す? あんなにデカデカと会場の案内看板出してたのに?」
「そうなんですけど、すごい不安そうな顔で……たまたま時間があったので奥の控室まで行って、ちょっとお話してたんです」
「へえ、そんなことが。じゃあ面接を見に来たのも偶然じゃなかったってことだね」
「はい。本当は先に帰るつもりだったんですけど、放っておけなくて」
「なるほどねぇ」
「それと、もしかしてプロデューサーさん……篠原さんは、知ってたんじゃないですか?」
「何を?」
「琴葉ちゃんが探している人は、新しいプロデューサーさんだって」
「さぁ~ねぇ、どうだろうね」
「茶化さないでくださいよ、真剣なんですから」
「分かってるよ、分かったうえで、だよ」
「……やっぱり、プロデューサーさんには、敵わないですね」
「敵うとか敵わないとかじゃないんじゃないかな?」
「え?」
「僕は“去年のこと”を踏まえて、こうするって決めたんだ。それは、変わらないよ」
「そう、ですか」
「ほら、そろそろ帰りな。終電なくなっちゃうよ」
「二宮はそんな田舎じゃないですから大丈夫ですよ。……でも、帰ります」
「ああ、気を付けてね」
「はい、また明日、よろしくお願いしますね」