だからこそ、次のステップを意識しなきゃいけなくて。
喜びが心の余裕を生む。
でも、心の余裕には、安心よりも先に痛みや苦しみがそこに入り込んでくる。
私は、どこへ行きたいのだろう。
その問いを、今は空の片隅に置いてこよう。
⑤ SkyBlue
ライブが終わってからの数週間も、また嵐だった。
学校に行けば、ライブに来てくれていたクラスメイト達に囲まれて、色んな言葉をもらった。「すごいね」「よかった」「可愛かった」「びっくりした」「似合ってた」。色んな声で、色んな言葉で、私を褒めてくれた。
デビューからひと月。雑誌のインタビューや、表紙の撮影なども入った。テレビ番組に、765プロとして出ることもあった。特に、「生っすか!? サンデー」は事務所が持っている番組なだけあって、それに出てから忙しさは増した。土日はもちろん、平日も忙しく、学校に行く回数もだんだん減った。
気づけば、もう七月だった。
「田中さん、ちょうどいいところに。天海さんもごめん、ちょっと相談なんだけど、いいか?」
事務室に顔を出すと、プロデューサーに呼び止められる。既に事務室のソファの方にいた春香ちゃんも、はーい、と返事をして出てきた。カバンを持ったまま、プロデューサーのデスクに近づく。
「今度うちでやる夏フェスの曲なんだが、『Thank You!』以外の曲をやってみないか?」
「以外、ですか?」
「いいんですか!?」
不安げな声が飛び出した私と、喜びに満ちた声の春香ちゃん。ただ、その明るい声を聴いて、確かにいいのかもしれない、なんて思った。私はすっかり、この声に救われるのに慣れてしまったらしい。
「ああ、それに、天海さんも今まで知ってる曲ばかりじゃなくて、RE:FLOWをきっかけにいろいろ挑戦してほしいからね」
「ぜひ! やらせてください!」
「じゃあ、このリストなんだけど――」
一枚の紙を渡され、二人でのぞき込んだ。そこには、候補曲のリストと、メロディーの雰囲気や歌詞の内容などをプロデューサーがまとめたらしいメモがある。
「俺の一番おすすめは、『SESSION!』かな」
「『SESSION!』……ですか?」
「もとは五人用の曲らしいんだけど、歌詞の内容が明るくて、歌うのが好きな天海さんと、これから一歩をどんどん踏み出していく田中さんの、お互いのいいところが詰まっていそうでさ、きっと二人なら歌いこなせると思うんだ」
「そこまで言われちゃうと、私たち選ぶ余地ないですよ。ね?」
プロデューサーが、あはは、と笑いながら、やってしまったという顔をして、右手で後頭部を掻く。無意識だったらしい。
「じゃあ、決まり、でいいか?」
「はい!」
「楽しみに、してます」
「じゃあ、デモ音源を取り寄せておく。明後日には届くし、レッスンの方でもできるように伝えておくよ。……と、それと、田中さん」
話は終わりかと思ってた時に、呼び止められて背筋が伸びた。そんな私に、薄い水色の封筒を、ひとつ。
「は、はい」
「これ。ファンレター。昨日届いたんだ」
「ファンレター! 初めて?」
「は、初めてです」
「やったー! よかったね、琴葉ちゃん!」
受け取った物の重みが、後からやってくる。小さな封筒は、笑った女の子のシールで留められていて、宛名には「765プロダクション RE:FLOW 田中琴葉 様へ」と、丸い字で書いてある。
「ここで読むか? 持って帰るか?」
「ここで読んじゃおうよ!」
プロデューサーが尋ねる声に重ねるぐらい早く、春香ちゃんが言う。その言葉に誘われて、シールを剥がし、中を開いた。
田中琴葉ちゃんへ
デビューライブ、見に行きました。衣装のフリフリも、笑顔も、みんな可愛かったです。あの日のライブで一番可愛かったので、それを伝えたくて、お母さんに漢字をききながら書きました。また見に行きます。
短い文章だったが、私は、手紙が汚れないようにすることしかできなかった。顔も、体も、湧きあがる鼓動を抑えるのに精いっぱいだった。
丸い字で、おそらく小学生ぐらいの子が頑張って書いてくれたのだろう、強い筆圧で、鉛筆で書かれている。綺麗な折り目の封筒と、可愛らしいピンクの便箋。いろんな思いをもって選んでくれたのが、よく分かった。
私なんかが、と思い続け、本番さえも目の前に必死だった私の声が、姿が、ちゃんと届いていた。それが、こんなにも、嬉しいことだと思わなかった。
涙は、止まってくれなかった。
「……よかったな」
「これが、第一歩ですから」
*
初めてのファンレターを抱えて、電車に乗った。西日が眩しかった。
帰り道。今日は少しだけ早くシアターを出た。午前は学校、午後はミーティングとレッスン。そして、そのミーティングでのファンレター。毎日が目まぐるしく移り変わっていく中で、こうして小さな変化は私の手元にやってくる。
電車に乗る前につけたマスクは、口元に温かい空気を留めてしまう。デビューしたからな、とプロデューサーに言われて、マスクだけはするようにした。身元がバレないように、らしい。途中、駅で人が降りるのに合わせて、たまたま目の前が空いた。私以外には誰も立っていなかったので、長椅子に座る。カバンを膝の上に乗せて、ふう、と一息。マスクに跳ね返されて、鼻に当たる。その時、前髪が邪魔になって、少しだけ右に流した。
ファンレター。私が得た、アイドルとしての初めての証。覚えた曲も、振り付けも、ライブも、雑誌の取材も、もちろん大事だ。でもそれは全て外へ向けたものであって、私の中へ入ってくるものではない。それらは全て私を表現するためのものであって、私のためのものではない。だけど、この便箋だけは、違う。きっと私のことを思って選んでくれた色。私のための文字。私のための言葉。やっと、私は“アイドルになった”のだと思う。
ただ――
取り出した便箋をクリアファイルに戻して、カバンにしまう。外を見ると、さっきまでいたシアターがずっと遠くに見える。だんだんと、アイドルである自分からたった一人への自分へと戻っていく。空白の時間は、思考を少しずつ蝕んでいく。
こんなにも嬉しいのに、何故、満たされないのだろう。
私は――その先の答えを、多分、まだ持ち合わせていない。それはこの問いが私にとって、まだ手に入れたばかりのものだから。
煌びやかな衣装。光り輝くステージ。共に歩む仲間。前には、まだ見ぬ景色があると約束されている。こんなにも、明るいのに。
どうして、私はまだ”ちゃんと”笑えないのだろう。
停車駅が来て、立ち上がる。肩に力が入る。カバンを肩にかけ直して、暗くなった駅へと踏み出した。今日も、お疲れ様、自分。
*
「お疲れ、田中さん」
今日は昼前に事務所についた。何かするわけでもないので、レッスン室で自主練をしている時だった。扉の先にいたのは、ペットボトルを持ったプロデューサー。
「お疲れ様です」
「早いな、今日。あ、これ」
「ありがとう、ございます」
「あんまり根を詰めすぎないでくれよ。デビューして一か月で休業は困る」
「気を付けます」
水を一口飲む。……冷たい。ダンスで熱された体が、少しずつ冷えていく。口元から、喉の奥までその感覚が沁みていく。ふう、と一息ついた時、プロデューサーは近くのパイプ椅子を二つ引き寄せた。
「何かあったのか?」
「え?」
「いや、素っ気ないからさ、何かあったのかなって」
純粋な心配のまなざし。私の中の何か奥のところまで見透かしそうな、まっすぐな視線に思わず視線を逸らす。そんなつもりは毛頭なかったけれど、多分、それでは信じてもらえない。
「あー……いや、特には。少し、疲れているだけかもしれません」
「ああ、そうだよな。ここ一週間は休みなかったしな……」
プロデューサーは、確かに、と言いながら後頭部を右手で掻いた。私は、変な汗が噴き出そうで、Tシャツをパタパタと仰いだ。そんな風に、適当に誤魔化した悪い私を、プロデューサーは見ない。
「今度はちゃんと休みも計画しないとな。もうアイドルだし」
そう言って、プロデューサーも暑いのか、座ったまま首元を少し引っ張って、上を向く。その様子は、いつかの記憶の中にいる、火照った顔を冷ますように天を仰いだ彼の姿に一致して、心拍数が、上がる。
「あ、そうだ。『SESSION!』、来たぞ」
「え?」
「デモ音源だよ。今日のレッスンから使うんだけど、聞かないか?」
俺も忙しくて流しでしか聞いてないからさ、と言いながら、古いラジカセを引っ張ってきた。CDも差し込めるタイプのそれの電源を入れて、読み込ませていく。
「よし」
メロディーが流れだす。二人で歌うパートから始まるらしい。サビらしいワンフレーズを歌ってから、パーカッションやトランペットの音が響いて、軽快に走り出す。まだメロディーラインは電子音で作られただけだけど、それでも跳ねるような音の高低が、可愛らしかった。
サビ前。Bメロから駆け上がるようにメロディーが盛り上がる。そこから、弾けて、トランペットがパーカッションのようにリズムを刻んで、はずんで、飛んでいく。春のような明るさ、それでいて夏のような陽気さを携えたサビは、最後までその勢いを落とさず駆け抜けて、終わった。
「これ、いいな、やっぱり」
「はい。楽しそうで、可愛いメロディーですね」
「これさ、途中結構、歌詞を受け取って渡す、みたいなところが多いんだよ。振り付けも、それに対応しててさ……それを見た時、二人が楽しく会話しているように歌っているのが想像できて、これだ、って思ったんだよな」
「会話、しているように」
「田中さんはいつも受け取って、応える側だったかもしれないけど、きっとそうやって楽しく会話する歌い方だって、すぐマスターしてくれると信じてるよ」
まぁ全部俺の希望なんだけどな、と笑いながらプロデューサーは資料に視線を戻した。その時、後ろの扉が開く。
「お疲れ様です!」
「ああ、天海さん。ちょうどいいところに。『SESSION!』のデモ音源、来たよ」
「本当ですか! やった!」
「というわけで、今からレッスンだから、トレーナーさんに渡しておく」
「ありがとうございます!」
「二人とも頑張ってね」
プロデューサーはそこまで言ってから、春香ちゃんが開いた扉から、そのまま出ていった。少し、静かになる。
「今日も、頑張ろうね!」
「はい! 今日も、よろしくお願いします!」
今日も、ちゃんと明るく言えた。これで、大丈夫。仕事のための顔に切り替えて、笑顔で応えた。
*
『RE:FLOW デビュー直後から大活躍! ユニット結成に迫る!』
帰り道。コンビニで手に取った雑誌の一面に、私と、春香ちゃんと、大きな見出しがあった。今日発売、と書かれたそれを、マスクと帽子を少し深くしてからレジへ持っていき、会計を済ませる。カバンにしまって、足早にコンビニを出た。
表紙には、真っ白なワンピースに身を包んだ私と春香ちゃん。開くと、私服の私たちがインタビューを受けている写真。それと、それぞれの質問に対する答え。最後に記者のコメントが載っている。四ページだけの特集だったけれど、一番最初に、大きく載せてもらえていた。初めてのインタビュー記事。雑誌に載ると聞いても、どんな気持ちになるのかなんて想像すらできなかったけれど、実際に手に取ってみると、ライブやファンレターとは違う、じんわりと温かい感情がやってくる。
電車に揺られてから、駅を出ると、まだ明るい紺色の空があった。初夏の、湿気に満ちた空。夏が近づいている。紺色が夜の帳に染まるまで、今日はゆっくり歩いて帰ろう。そう思った。
*
「お疲れさん」
「篠原さん、お疲れ様です」
「ちょっと詰めすぎじゃない? 疲れてない? はい、差し入れ」
「……ここの差し入れって栄養ドリンクが定番なんですか?」
「ん? どうして?」
「この前青羽さんにも同じのをもらって……六本セットの」
「ああ、やっぱり? 同じの飲んでるなーって思ってたんだよ。まぁ、疲れた時はとりあえずこれだよ。はい、乾杯」
「か、乾杯」
「ん~! これこれ。んで、二人は調子どうなの?」
「天海さんと田中さんですか? 順調ですよ。この前初めて音楽番組に呼ばれたので打ち合わせに行ったんですけど、田中さんは初めての打ち合わせでしたけどちゃんと受け答えできていたし、天海さんもちゃんとフォローしてくれましたし、二人の活動も大丈夫そうです」
「ならよかった。ここまで君の口からすらすら出てくるとも思ってなかったけど」
「そうですか?」
「君、いつも結構引いたスタンスだし」
「そう、ですかね?」
「まぁ、まず、とりあえず、その、天海さん、田中さん、ってやめない?」
「え?」
「僕は、春香、琴葉さん、って呼ぶのは、春香は元担当アイドルだけど琴葉さんはそうじゃないから呼び分けてるだけで、君は二人の担当なんだから、ちゃんと親しみ込めて呼ばないと」
「え、ええ……そう言われても」
「タイミング逃した?」
「そう、ですね」
「とりあえず、春香さん、琴葉さん、これで行こう」
「……急に、ですか?」
「上司に口答え? いただけないなぁ」
「いやいや、そう言われても急には無理ですよ……!」
「うそうそ! 今時こんなパワハラしないよ。とはいえ、呼び方は変えたほうがいいな、いずれは。今のままじゃ、先が心配だしね」
「呼び方だけで、ですか?」
「まぁそれもひとつあるってこと。いつまでも距離保ってばっかりじゃよくないし、そんな姿勢じゃいられなくなる。……なーんて、こんなこと僕が言ってるって春香が聞いたら、怒ってくるだろうな」
「どうしてです?」
「んー……それを話すと長くなっちゃうんだけどさ、すごく端的に言うとしたら――」
「この前の二月にさ、春香に告白されて、僕はそれを断った。それだけなんだけどね」