「恭平……なのか?」
慎太郎が、乾いた喉から振り絞るようなかすれた声で呟いた。
その瞳は、眼前に広がる圧倒的な現実を受け止めきれず、激しい戸惑いと怯えに揺れている。
目の前で巻き起こっているのは、最早何度目かも分からない超常現象の連続だった。
ほんの数分前まで、胸部を潰され、右腕を骨ごと折られて倒れ伏していた旧友。それが今や、全身から灼熱の蒸気を噴き上げ、皮膚を真紅に染め上げ、額に一本の鋭い黒角を生やして立ち上がっている。
二メートルを超えるあの異形の怪物と、寸分狂わぬ同じ視座、同じ焦点で静かに対峙する姿。それは、これまで死の恐怖から救い出してきた「頼もしい旧友」の枠組みを、完全に踏み越えていた。
「……あれじゃ……まるで本物のオ──────」
「風弥。やめろ」
引きつった顔で、震える唇から決定的な存在の名を口にしようとした風弥の言葉を、達也が厳しい声で遮った。
達也自身、恐怖で握りしめた金属バットを持つ指先が白く強張っていたが、その言葉を軽率に口にすれば、二度と元には戻れない境界線を越えてしまうことを本能的に察していた。
その場を、粘つくような重い沈黙が支配していた。
避難民たちの悲鳴も、遠くのゾンビの咆哮すら届かない、死した静寂。だが、その張り詰めた沈黙の渦中で、当事者である恭平だけは冷静に、そして冷徹に周囲の状況を把握していた。
(……ここで本気でぶつかれば、避難所そのものが吹き飛ぶ)
覚醒を遂げた自身の肉体には、抑えきれないほどの爆虐なエネルギーが充満している。
そして、対峙する異形もまた、先ほどとは比べものにならないほどの密度の力場を纏っていた。この駐車場で二体が全力を解き放てば、衝撃波だけで体育館の建物は木っ端微塵に崩壊し、中に避難している親父や慎太郎たち、何百人もの避難民が一瞬で圧死することになる。
正面に立つ異形が、その引き裂かれた唇を歪め、ニィッ……と口角を上げた。だが、その黄色い瞳の奥に宿る光は、先ほどまでの恭平をオモチャとして弄んでいたような嘲笑や愉悦ではなかった。
一切の油断を排し、恭平という真の対等な存在を前にした、鋭く隙がない捕食者の視線。
メラメラと燃え上がるのは、待ち望んだ最高の「真剣勝負」を前にした、どこか狂気的な高揚感を含んだ期待の眼差しだった。
そして何よりも異質だったのは、その体の佇まいだった。
(……こいつ、構えやがった)
恭平の思考加速の中で、異形の全身の動作がスローモーションで解像される。
異形は不気味に首をコキリと鳴らすと、顎をわずかに下げ、長い背骨を弓のように曲げて重心を極限まで低く落とした。
足元のアスファルトに爪を食い込ませ、半身に立ち、片方のつま先をわずかに立てて軸を作る。
そして、引き伸ばされた両の手は程よく脱力させ、いかなる攻撃をも最小限の動作で受け流し、即座に致命の反撃へ繋げられるポジションへと収められた。
それは、本能だけに任せて暴れる野獣のそれではない。 長年の訓練と血の滲むような実戦によって身体に染み込ませた、明確な「対人戦」を想定した格闘の構えだった。
その完璧な構えを目にして、恭平の胸の奥から、乾いた自嘲と獰猛な笑いがこみ上げてくる。
「……そうかよ。そんなに遊びてぇなら────場所変えんぞ」
言い終わると同時に、恭平の肉体が爆発した。
───ドンッッッッ!!!!!
恭平の選択は、真正面からの無謀な殴り込みではなかった。 彼は地を蹴ると同時に、自らの足元のアスファルトを爆破するように踏み砕き、強烈な指向性を持った衝撃波を前方に叩きつけた。
足元を突然破壊された異形は、完璧だった構えのバランスを一瞬だけ、コンマ数ミリ秒ほど崩される。
恭平はその刹那の隙を見逃さなかった。爆風の如き突進速度を維持したまま、右肩を支点にして、全身の肉体質量を塊として異形の巨体にぶち当てたのだ。
───バゴォォォオオン!!!
衝撃波が全方位へと撒き散らされる。
恭平の目的は、異形を「倒す」ことではなく、この避難所の敷地外へと「押し出す」ことだった。巨木すら薙ぎ払うほどの質量攻撃を受け、異形の巨体は弾丸のように避難所の外へと弾き飛ばされていく。
異形も瞬時に空間を掴んで抵抗しようとしたが、恭平の意図が自身を戦場から離脱させることにあると察した瞬間、その引き裂かれた顔にニィィッ……と、さらなる狂おしい笑みを浮かべた。
二体の怪異は、一直線に市街地の端を突き抜けていく。
音速を超えた移動速度。彼らが着地し、地を蹴るたびに、厚い道路のアスファルトは巨大な足跡ごと激しく陥没し、陥没した穴から砕石が吹き上がる。
通過するだけで生じる強烈な風圧は、路傍の電柱をバキバキと斜めに傾かせ、打ち捨てられた空き家の屋根瓦を一枚残らず吹き飛ばして宙に舞わせた。
逃げ惑う生存者もゾンビも存在しない、崩壊した街外れの田園地帯をコンマ数秒で通過。二体はさらにその奥、鬱蒼と生い茂る山道へと雪崩れ込んでいく。
───ズドドドガァァァァンッッッ!!!!
山中にひっそりと佇む、巨大な廃採石場。削り取られた荒々しい岩壁で囲まれた広大な空間に、二体の超質量はまるで大隕石が落着したかのような爆音と共に“着弾”した。
激突の衝撃によって地表の岩盤が吹き飛び、視界を完全に遮るほどの鬱鬱とした土煙と砂埃が、辺り一面を覆い尽くす。
目視すら不可能な白濁した視界。だが、間髪入れずに、気配と空気の振動だけを頼りに、恭平は異形の佇む中心へと突っ込んだ。
───ドッ!!!
踏み込みの一筋だけで、足元の巨大な岩盤が粉々に爆ぜる。
その爆風の衝撃波によって、立ち込めていた土煙が一瞬で吹き払われ、晴れ渡った視界。恭平は全身の溜めを解き放ち、超音速の右拳を異形の顔面へ叩き込もうと突き出した。
だが───異形はその超剛拳を、ほんの数ミリの紙一重で、首を斜めに捻ることで完璧に避けてみせた。
空を切った恭平の拳が生み出した風圧だけで、背後の岩壁が横一文字に深く切り裂かれる。
避けると同時に、異形は流れるようなカウンターの動作に入っていた。軸足を駒のように回転させ、しなやかかつ強靭な長腿を鞭のようにしならせて、渾身の回し蹴りを繰り出す。
───ガァンッ!!!
重戦車の砲撃に匹敵するインパクトが、恭平の左頭部に直撃した。視界が激しく明転し、頭蓋骨がきしむ音が脳内に直接響き渡る。
しかし、真紅の鬼となった恭平の身体は、吹き飛ばされることすら拒絶した。
「──────ッ!」
恭平は歯を喰いしばり、首の筋肉を破裂せんばかりに固めて衝撃に耐えると、そのまま左腕を電光石火の速度で突き出した。
空中で脚を振り抜いた直後の異形の顔面を、獰猛な鉤爪の立つ右掌で力任せに鷲掴みにする。
突進の慣性と、異形がバランスを崩した勢いをそのまま利用し、恭平は二メートルを超えるその巨躯を強引に頭上へと持ち上げた。
そして、背筋のバネを極限まで引き絞り、足元の岩盤へと全力で叩き付ける。
──────ドゴォォォオオン!!!
地響き。爆炎のような土煙と共に、廃採石場の中心に直径数十メートルに及ぶ巨大なクレーターが形成された。
破砕された岩石が雨のように降り注ぐ中、クレーターの底から耳を劈く咆哮が響き渡る。
『グガァァアアアアア!!!!』
周囲の山々の木々を激しく揺らし、鳥たちを全滅させるほどの怒号。
だがそれは、ダメージに苦しんで発した悲鳴などではなかった。
叩きつけられた異形は、クレーターの底で瞬時に姿勢を戻すと、恭平の左腕に全身の四肢を蛇のように絡み付かせ、その剛腕に関節ごとへし折るために全身の筋力を絞り出す力み声だったのだ。
─────バキッ!!!
「ぐっ……!」
恭平の太い前腕の骨が、嫌な音を立てて不自然に軋み、罅が入る。
恭平が痛みに一瞬だけ怯み、体勢を崩したその刹那の隙を、異形は見逃さなかった。
絡み付いていた四肢を滑らかに解くと同時に、軸足を恭平の鳩尾へと一直線に突き出す前蹴りを叩き込む。
───ドドンッ!
砲弾のように吹き飛ばされた恭平は、数十メートル先の切り立った岩壁へと激しく叩き付けられた。
背中の岩肌がクモの巣状に砕け散り、落石が恭平の肩に降り注ぐ。
衝撃により、視界が一瞬だけ真っ白に染まった。脳振盪を起こした頭の奥底で、またしても、恭平の知らない……いや、封印されていたはずの異質な「記憶」の断片が、濁流となって流れ込み始める。
──────視界の奥、照明の落とされた暗い実験室の廊下。 扉のすき間から、白衣を着た大人たちの無機質で冷淡な会話が漏れ聞こえてくる。
『劣化個体だが、"アレ"の相手をさせる案は正解だったな』 『あぁ。覚醒時の理性制御に問題があったが、概ね解決したと言っていい。初期はどうなるかと思ったが、やはり我々の目に狂いはなかった』 『あの個体もそろそろお役御免といったところか。これ以上の成長が見込まれなければ、遠からず廃棄処分だな』
『──────!?』
廊下に佇む幼い恭平の胸に、冷たい氷の針が突き刺さるような衝動。
唐突に、場面が切り替わる。 眩しいほどの白い光に包まれた、無機質な実験室。
目の前に立っているのは、先ほどの記憶よりも少しだけ輪郭がはっきりと捉えられるようになった、幼い子供の姿だった。
その子供は、どこか見覚えのある……そう、まさに今、廃採石場で異形が見せたあの格闘の構えを取って、まっすぐに恭平を見つめている。
記憶の中の主──恭平は、模擬戦の最中、意図的にほんの少しだけ自身の反応速度を遅らせていた。
本当なら、余裕で避けられたはずの幼い攻撃を、わざと胸で受ける。 本当なら、簡単に叩き返せたはずの一撃を、わざと大きく外してみせる。
そして力尽きたフリをして床に倒れ込み、視界が白い天井の風景で埋めつくされる。 一瞬、無音の静寂が実験室を満たした。
次の瞬間、目の前で幼い“少女”が、顔全体を輝かせて踊り上がった。
『や……やった……!』 『やったぁ! オニに勝った! 私、初めてオニに勝てたよ!』
飛び跳ねて喜ぶ少女の姿を見つめながら、記憶の主─────恭平は、痛む身体を泥臭く起こしながら、小さく、優しく苦笑した。
「……強くなったじゃん」
ぽつりと、称賛を込めてそう返す。 目の前の少女は、弾けたような飛び切りの笑顔を咲かせ、嬉しそうに笑った──────。
ガツン、と頭の奥底を重く酷い鈍痛が突き抜け、恭平の意識が現実の戦場へと急速に浮上する。
「チッ……。クソが……」
岩壁に背を預けたまま、恭平は激しく唾を吐き捨てた。認めようとしなかった。認める訳にはいかなかった。
だが、脳裏に刻まれた記憶の断片と、先ほどから自分に襲いかかってくる異形の構え、動き、そして癖。それらすべてが合致し、目の前の異形が一体何者であるのか、恭平はすでに確信を持ち始めていた。
『オ゛ニ゛……』
クレーターの真ん中で、異形がその引き裂かれた口から、哀愁とも歓喜ともつかない声で、あの言葉を漏らす。
「黙れ……。テメェは……アイツじゃねぇ……!」
吐き捨てる恭平の声は、怒りではなく、震えていた。胸の奥、心臓が雑巾のように強く締め付けられるような、痛烈な苦しみが彼を襲う。
目の前の怪物が、かつて一緒に笑い合い、自分の嘘の敗北に目を輝かせていたあの少女の成り果てだなどと、誰が認められるというのか。
恭平は胸の中の嫌な感情を必死に振り払うように、大地を蹴って異形へと飛びかかった。
「オラァッ!!」
咆哮と共に振り下ろされた恭平の剛腕。だが、異形はその腕を流れるような掌打で完璧に受け流し、ガラ空きになった恭平の腹部へ、強烈な膝蹴りを叩き込んだ。
「ゴハッ……!」
腹膜を突き破らんばかりの衝撃に、恭平の口から大量の胃液が吐き出される。
しかし、恭平もただやられるだけの男ではない。刺さったままの異形の脚を両腕で力任せに抱え込むと、逆流する胃液を周囲に吐き散らしながら、自身の体を軸にしてハンマー投げの要領で巨体を旋回させ、激しく投げ飛ばした。
───ズゴォォォン!
遠くの岩壁に激突した異形から離れ、恭平はその場で崩れるように膝をついた。口からダラダラと垂れる逆流した胃液を泥の上に吐き出し、荒い息を繰り返す。
「ハァ……ハァ……。うぐっ……」
再び、耐え難いほどの強烈な頭痛が、恭平の脳髄を内側から掻き乱す。
──────記憶の映像が、勝手に再生されていく。
あの日以来、少女は何度も、何度も恭平に勝つようになった。 最初のうちは、自分の成長を無邪気に喜んでいた少女。
でも、聡明だった彼女は、次第に違和感に気づいてしまう。
恭平の動きが、自分の知っている彼よりも明らかに遅いこと。本気なら絶対に避けられるはずの初歩的な攻撃を、彼がわざと受けていること。
そして、自分が勝利を収めた瞬間、恭平がどこかホッとしたような、安心した顔をしていること。
『……ねぇ』 『今の……本気じゃなかったよね?』
白い部屋の隅で、少女が俯きながら、ぽつりと問いかけてくる。 恭平は何も言えず、固まったまま沈黙する。
『なんで……?』 『なんで、私にちゃんとやってくれないの?』 『私、強くなったんだよ? オニを倒せるようになったんだよ?』
少女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。恭平は、何も言えなかった。もし本気を出して彼女に完勝してしまえば、「成果なし」とみなされた彼女が、白衣の大人たちに「廃棄処分」されてしまうことを知っていたから。だから、彼は不器用に笑って誤魔化すしかなかった。
「……何言ってんだよ。普通に負けただけだって」
映像が、痛々しく切り替わる。
白い実験場。相対する少女の顔からは、もう以前のような無邪気な笑顔は完全に消え去っていた。 重苦しい静寂が、空間を支配している。
戦闘開始の合図。 恭平は、やはり本気を出すことができない。
少女は、彼が自分を救うために「嘘」をつき続けていることに気づいていない。彼の意図を理解できない彼女の心は怒りも悲しみも通り越し、恐ろしいほどの無感情へと冷め切っていった。
虚しい戦闘の末、恭平は床に強く叩きつけられ、少女に上から押し倒される。 恭平は床に倒れたまま、自分を見下ろす少女の瞳を見上げた。
そこには、かつて勝利を喜んでいた子供の面影はどこにもなかった。 ただ、心底失望したような、底冷えする冷たい目で見下ろし、ポツリと一言。
『……もう、いい』 『……オニの、嘘つき』
──────。
「違う……。違ぇんだ……! 俺はただ……お前を……お前を守りたかっただけで……!」
恭平はその場に蹲り、破裂しそうなほど奥歯を強く噛み締めた。 赤黒い涙が、彼の目から溢れそうになる。
彼がついていたあの優しい嘘が、彼女の心を殺し、絶望させ、最終的にこのような哀れな怪物へと変貌させてしまったのだとしたら。
恭平がゆっくりと顔をあげると、気付けば、異形がすぐ目の前に立っていた。異形は攻撃を繰り出すでもなく、ただ静かに、狂気と哀愁の混ざり合った瞳で恭平を見下ろしている。
恭平は膝をついたまま、震える声で目の前の存在を見上げ、かすれた呟きを漏らした。
「俺は……。俺はどうすりゃ良かったんだ?」