静寂が、廃採石場の荒々しい岩壁の間に横たわっていた。
先ほどまでの世界を砕くような激突音も、木々をなぎ倒す強烈な風圧も、今は嘘のように絶え果てている。
二メートルの巨躯を誇る漆黒の異形は、ただ沈黙を守っていた。その体躯から漂う圧倒的な威圧感はそのままに、引き締まった四肢をわずかに揺らし、完璧な対人格闘の構えを維持している。
耳元まで引き裂かれた悍ましい口元は微動だにせず、濁った黄色い瞳だけが、冷徹な光を宿して目の前の恭平を射抜いていた。構えを解かない。それが、ヤツの出した唯一にして絶対の答えだった。
「……」
恭平は、動かなかった。動くための意志も、力を込めるための理由も、今の彼の内側からは完全に消失していた。
目覚めた記憶。かつて白い実験室の冷たい床で、自分に対して無邪気な笑顔を向け、「オニ」という名をくれた幼い少女の面影。
そして、彼女を廃棄処分から守るために不器用につき続けた「嘘」と、それが生み出してしまった残酷なすれ違い。 目の前に佇むこの悍ましい怪物が、他ならぬあの少女の無惨な成り果てであるという事実に突き当たった瞬間、恭平の胸の中に渦巻いていた過剰な闘争心は、急速に冷め、虚無へと取って代わられていた。
最早、彼に戦意など一片も残っていなかった。
──────シューゥゥウウ……。
恭平の真紅の肌から、高圧の排気音とともに濃密な白い蒸気が立ち昇る。それは、彼の肉体を支配していた戦意の収束を示す合図だった。
鋼鉄のように隆起していた腹筋の刻印が、徐々にその輪郭を曖昧にしていく。 膨れ上がっていた巨大な筋肉組織がギチギチと音を立てて収縮し、血を纏ったような毒々しい紅色の肌は、ゆっくりと元の生気のない肌色へと褪せていった。
額の中心に角として突起していた黒い硬質骨も、皮膚の奥へと滑らかに引き没んでいく。 二メートルを超えていた視座が、少しずつ、元の高さへと下がっていく。
「あぁ……」
恭平の口から、力の抜けた、間の抜けた掠れ声が漏れた。 視線は目の前の異形を捉えることなく、ただ虚空の深淵をぼんやりと見つめている。
殺せるわけがない。これ以上、あいつと拳を交えることなんてできはしない。
仮に、この解放された力で目の前の異形を撃ち殺し、生き残ったとして、その後に何が残るというのだ。大切な者を二度死なせ、己の保身のためだけに命を弄んだという、消し去ることのできない自罰の記憶だけではないか。
肉体が、心が、魂が。 全身の細胞の全てが、明確な一つの叫びを上げていた。
────お前を殺すぐらいなら、ここで殺された方が、遥かにマシだ、と。
恭平の全身から完全に緊張が抜け落ち、脱力した両腕がだらりと重力に従って垂れ下がる。防御の構えすら取らず、急所を無防備に晒したまま、ただ死を受け入れる地蔵のように佇む恭平。
すると、対岸のクレーターに立つ異形が、スッとその両手を下ろした。あれほど隙のなかった対人格闘の構えを解き、その場でただまっすぐに直立する。
その醜悪な顔面からは激しい殺気が消え、静けさだけが残されていた。
恭平は、それを見て、心のどこかで深く安堵していた。
(……そうか。察してくれたのか)
あいつは、俺がもう戦う意思を持たないことを理解してくれたのだ。戦いをやめ、この狂気の殺し合いに終止符を打つことを、あいつもまた受け入れてくれたのだと。
恭平は、自身の意思を察してくれたのだと、本気でそう思い込んでいた。
──────思い上がりも、甚だしかった。
突如として、空間が歪んだ。
──────ズズ……、ズズズ……ッ!
異形の周囲の空気が、まるで超高重量の質量が存在することに耐えかねたかのように、グニャリと不自然な屈折を見せ始める。
せせらぎも風の音も死に絶えた無音の世界で、異形の漆黒の肉体表面に、異変が生じていた。
漆黒の生体装甲とでも言うべきその隙間、全身の皮膚の目に見えぬ脈動に沿って、目も眩むような「金色の線」が走り抜けたのだ。
幾重にも張り巡らされた金色の幾何学模様。それが生体回路のように明滅し、異形の全身が、淡く、しかし禍々しい光を放ち始める。
臨界状態。それは、この世界の物理法則を完全に超越した、極限のエネルギー開放状態だった。
異形の黄色い瞳が、金色の光彩を強烈に輝かせる。ヤツは戦いをやめるつもりなど、最初から微塵も持っていなかったのだ。
恭平が戦意を捨て、殺されることを受け入れようとしたこと────その生温い妥協と絶望に対して、異形の魂は激怒していた。
お前の全力を出せ。私たちが求めたのは、こんな情けない終わり方ではない。言葉を持たぬ異形の存在が、全身の輝きをもって、恭平の甘えを全否定していた。
「がァ……!? や……ヤメ……ロ……ッ!!!」
恭平の口から、悲鳴にも似た呻きが飛び出した。
異形が解き放った臨界状態の余波。それが大気を伝い、恭平の肉体へと到達した瞬間。 収縮しかけていた恭平の筋肉が、退色しかけていた皮膚が、引き没みかけていた骨格が────激しい逆流を起こした。
───ドドンッ!!!
恭平の胸の奥で、心臓が爆発でも起こしたかのように重く、大きく跳ね上がる。
縮みかけていた巨躯が、一瞬にして元の二メートル超の「鬼」の体格へと強制的に再拡大された。
それだけに留まらなかった。異形の肉体に走った金色のラインに応答するように、恭平の皮膚の上にも、変化が現れる。
──────シュゥゥウウウッ!
彼の赤黒い皮膚の上に、鮮血のように鮮やかな、眩い「赤い線」が脈打ちながら走り出した。まるで、相対する異形の存在と、魂の根底で強く「共鳴」を起こしているかのように。
恭平の脳髄に、破虐的な思考の波が雪崩れ込んでくる。 消えたはずの闘争心どころではない。
思考全体が、激怒にも似た純粋な闘志と、狂暴な破壊衝動によって無理やり埋め尽くされていく。
視界が、血の赤色によってドロリと染まり上がっていく。 理由などどうでもいい。記憶など知ったことか。
ただ目の前にいる敵を、あの輝く存在を、自分の全存在を賭して破壊したいという衝動が、脳の命令系統を乗っ取っていく。
「グギ……! ガアァ……ッ!!!」
怪物のような、獣の咆哮が恭平の喉を潰して空間を震わせる。
だが───恭平の残された理性が、必死にその破壊衝動の手綱を引き絞ろうと抗っていた。
──────ダメだ! 殺しちゃダメだ! あいつとは! 戦っちゃダメなんだ!
恭平の意識と、共鳴によって暴走する肉体が、激しく衝突する。 恭平は自らの肉体を暴走させまいと、全身の筋繊維の一本に至るまで、限界を超えた最大出力で「その場に留まろう」と力んだ。
全身の筋肉を真逆の方向へと同時に収縮させ、自らの動きを物理的にロックする。 まさに、鬼の形相。
──────ギチギチギチッ! バキバキッ!
歯が砕けんばかりに軋み、膝や肘の関節が悲鳴を上げ、頑強な骨格にミシミシと亀裂が入る。そして、膨れ上がる内圧に耐えきれず、内臓が悲鳴を上げた。
それは最早、狂気の自傷行為に等しかった。
肉体が暴走して彼女を攻撃してしまうくらいなら、自らの出力の暴走によって、内側から自壊して死んでやる。恭平は本気でそう決意していた。
内部からの圧力に耐えかね、胸部の内臓が破裂する。口から大量の激しい吐血が吹き出し、赤黒い皮膚を突き破って、全身の毛穴や亀裂から血飛沫が盛大に吹き荒れた。
全身を焼き尽くすような地獄の激痛。恭平はこのまま、自らの肉体を自壊させて戦闘不能になり、この狂気の共鳴から脱出するつもりだった。
しかし。 異形は、それすらも許さなかった。
──────シュンッ……!
存在が、消えた。 臨界状態に達した異形の速度は、以前の比ではなかった。
恭平が自壊の激痛に耐えていたそのコンマ数秒の隙に、異形は恭平の間合いの内側へと肉薄していた。
───バゴォォォオンッッッ!!!
先程までの攻撃とは比較にならない、音速の壁を何重にも打ち破る超重力ハイキック。
それが、自壊しかけて動けない恭平の側頭部へ、容赦なく叩き込まれた。
恭平の身体が、大砲の弾のように横飛びに蹴り飛ばされる。
だが、異形は逃がさない。目にも留まらぬ超絶的な神速で、恭平の着弾地点の先回りをして空中で回り込み、無防備な顔面へ向けて強烈な膝蹴りを突き上げる。
───ガシャァァン!
「ガハッ……!?」
間髪入れずに、次の蹴り。 回し蹴り、踵落とし、裏拳、拳打。 呼吸をする隙すら与えず、一秒間に数百回の打撃が恭平の全身を打ち据える。
容赦なく、一切の加減を排し、本当にこのまま恭平を砕き殺す勢いで、暴風雨のような蹴りと拳を浴びせ続ける。
痛みと衝撃で、恭平の意識が白濁していく。自壊させようとしていた筋肉のロックが、異形の超絶的な連撃の衝撃によって、強制的に解きほぐされていく。
全身の余計な力みが、ほんの数瞬、奇跡的に完全に解けた。
その、完全な脱力の一瞬。 恭平の肉体に刻まれた、極限の生体本能が、勝手に駆動した。
迫り来る異形の次の致命的な拳。それに対して、恭平の腕が、超音速の反応速度で不意に跳ね上がった。
──────パンッッ!
静寂の空間に響き渡る、どこか乾いた、音速を超える軽い衝撃音。
瞬間。あれほど圧倒的な臨界状態を誇り、恭平を一方的に踏みつぶしていた異形の巨体が、まるで巨大なトラックに正面衝突されたかのように、凄まじい勢いで後方へと弾き飛ばされた。
──────ドガガガガガガァァァァンッッッ!!!!!
異形の身体は、廃採石場の数メートル厚の岩盤を何枚も木っ端微塵に破砕し、衝撃波の尾を引いて土煙を上げながら、山中の原生林の木々を数十本単位でなぎ倒し、遥か彼方の森の奥深くへと消え去っていった。
「……っ!?」
恭平は、右腕を前方へと突き出した「掌底打ち」の構えのまま、その場で硬直していた。
異形の拳が自分の顔面に届く直前。 恭平の肉体は、自生本能によって反射的にカウンターを繰り出そうとした。
だが、その叩き込む直前のコンマ数ミリ秒。 恭平の意識の中にわずかに残っていた理性が、最後の力を振り絞って、相手の命を奪う「握り拳」から、致死性の低い「掌底」へと、打撃の質を無理やり切り替えさせたのだった。
しかし───覚醒した己の持つ肉体の出力は、恭平自身の想像を遥かに超えていた。臨界状態に達していた異形の驚異的な反応速度すら上回る速度で掌底を叩き込み、あの二メートルを超える超質量の巨体を、一撃で数百メートル先まで吹き飛ばしてしまったのだ。
もし……もしもあの瞬間、握り拳のまま顔面へ全直撃させていたら。 異形の頭部は、間違いなく粉々に砕け散り、即死していただろう。
ゾッとするような冷や汗が、恭平の背筋を駆け抜ける。
そこで、スッと、熱狂していた思考がクリアになった。
臨界状態の異形と、物理的に数百メートル以上の距離が離れたおかげだろうか。 共鳴の波が途切れ、恭平の肉体表面を走っていた鮮血のような赤い線が、スーッと消えてなくなっていた。暴走していた破壊衝動が綺麗に霧散し、冷徹な理性が戻ってくる。
すでに、自壊しかけていた彼の肉体は、恐ろしいほどの超再生能力によって、完璧に修復されていた。
破裂した内臓は繋ぎ合わさり、折れた骨格は元通りに合体し、皮膚の亀裂や裂傷も跡形もなく塞がっている。全能感に満ちた、完全な状態。
だが、恭平の心は、氷のように冷え切っていた。
彼は、掌底を突き出した姿勢のまま、異形が消え去った山奥の森の方向を凝視していた。
「……来ねぇ」
ぽつりと、掠れたつぶやきが零れる。
おかしい。異形のあの異常なスペックと臨界状態の推進力があれば、数百メートル吹き飛ばされた程度、一秒も経たずに跳躍して戻ってくるはずだ。追撃のハイキックを叩き込むために、すぐに恭平の前へ舞い戻ってくるはずだった。
だが。 十秒が経過した。 二十秒が経過した。
静まり返った山内に、鳥の羽音一つ響かない。異形が戻ってくる気配は、どこにもなかった。
頭から冷水をぶちまけられたかのような、最悪の光景が、恭平の脳裏に生々しく浮かび上がる。
(……いや。そんな筈、ねぇ……!)
恭平は、必死に自分に言い聞かせようとした。あいつは強い。俺の一撃くらいでどうにかなるはずがない。
きっと、俺のあの掌底の威力を食らって、命の危機を感じて逃げ出したのだ。あるいは、戦意を失った俺に愛想を尽かして、どこか別の場所へ去っていったに違いない。
そう思いたかった。そうであってくれと、心の底から神に祈りたかった。
だが、恭平の足は、本能の警鐘に突き動かされるようにして、すでに動き始めていた。
山中の土と倒木を踏み越え、異形が吹き飛んだ方角に向かって、一歩ずつ歩みを進める。
舞い散る土煙と、破砕された木の匂いが立ち込める森の中。
最初は、確認するための緩やかな足取りだった。だが、歩を進めるごとに、胸の嫌なざわめきは膨れ上がっていく。 次第に、踏み出す一歩は大きく、速くなり、やがて恭平は全力で森の奥へと駆け出していた。
枝を払い、大木を飛び越え、倒木を叩き割りながら進む。
秩序の崩壊した森の深部。
自由と解放の向こう側。
そして────────。
「ぁ……あぁ……っ」
恭平の口から、情けない、掠れた悲鳴が漏れた。
彼の手が、目の前の光景を前にして、ガタガタと激しく震え出す。
森の奥深く。巨木が根元からへし折れた破壊の爆心地。そこに、ボロ雑巾のように倒れ伏し、太い木の幹にもたれかかっている、漆黒の巨体があった。
惨状だった。 二メートルを超えるその体躯は、原型を留めていなかった。
恭平が放ったあの超出力の掌底の直撃を受け、さらに音速を超えて数十本の樹木と岩盤を突き破って激突した衝撃により、全身の骨格という骨格が粉砕されていた。
腕も、脚も、関節が有り得ない方向へと不味そうに曲がりくねり、だらりと地面に投げ出されている。
そして何より恐ろしいのは。 あの大打撃を受けたことによる全身の無数の酷い傷口から、再生の兆候が一切見られないことだった。
溢れ出るどす黒い血液。割れた生体装甲。もう、その肉体には、傷を塞ぐための生体エネルギーすら、余力として残されていなかったのだ。
恭平は、その場に両膝から崩れ落ちた。 地面の泥に膝を突き、ただ情けない息を吐き出すことしかできない。
異形が、ギギ……と、骨の砕ける音を立てながら、緩慢すぎる動きで首を動かした。指示器の切れたライトのように濁りきった金色の瞳で、崩れ落ちた恭平の顔をじっと見定める。
『オ……ニ……』
声帯すら潰れているのだろう。音にはなっていなかった。 ただ、引き裂かれた唇が、かすかに、静かに、その言葉の形を形作っていた。
声は届かなくても、恭平には容易に理解できた。かつて白い実験室で、そしてこの戦場で、呆れるほどその口の動きを見てきたからだ。
異形は、複雑に折れ曲がり、皮膚一枚で繋がっているような長い腕を、震わせながら恭平の方へとゆっくり差し出してきた。
助けを求めるような、あるいは最後に触れ合おうとするような、悲しい手伸ばし。
「──────っ!」
恭平は、泣き出しそうな顔で、その冷たくなりかけた大きな手を、自分の両手でそっと、壊れものを扱うように優しく包み込んだ。
その瞬間。 触れ合った皮膚を通じて、恭平の脳裏に、暖かく、優しく、そして泣きたくなるほど懐かしい「記憶」が、鮮明に蘇ってきた。
それは、失われたはずの遠い日の、暖かくも切ない記憶の再生だった。