眩しいほどに白く、無機質な実験室。
壁も、天井も、床も、すべてが殺風景な白一色で塗られたその空間は、あまりにも無機質で、生活感というものが一切削ぎ落とされていた。消毒液のツンとした臭いと、冷気混じりの人工的な風。
その冷たいコンクリートの床の上に、ペタリと両手を突いて座り込んでいる幼い少女がいた。荒い息を吐きながら、ペタンと女の子座りをしている彼女の身体は、激しい模擬戦の後だというのにどこか楽しげだった。
光を受けて神秘的に輝く、透き通った金色の瞳。そして、幼い肩を滑らかに覆う、艶やかな美しい黒髪。白衣の大人たちが「失敗作」だの「危険体」だのと忌み嫌うその部屋の中で、彼女だけがまるで一輪の花のように、可憐で瑞々しい生命感を放っていた。
『はぁ……。はぁ……っ。結局、今日も君には勝てなかったや───そう言えば、君の名前は?』
少女は胸元を押さえながら息を整えると、床に両手をぽんと置いて、興味津々といった様子でぐいっと身を乗り出してきた。
あまりにも顔が近すぎて、その金色の瞳に自分の顔がはっきりと映り込むほどだった。恭平は思わず気恥ずかしさを覚え、少しだけ身体を後ろに引きながら答えた。
「俺か……? 俺の名前は、キョウヘイだ」
『へぇ、キョウヘイ! じゃあ、その名前の由来は?』
少女は小首をちょこんと傾げ、一切の毒気を含まない、どこまでも無垢な表情で問いかけてくる。恭平は少しだけ目線を落とし、自身の硬くゴツゴツとした幼い手を見つめながら、ぼそりと呟いた。
「それは……分からないけど。最初は『キョウカヘイシ』って大人たちに呼ばれてたのが、いつの間にか略されてキョウヘイになってた。まあ、今じゃ大人たちからは『失敗作』としか呼ばれてないけどな……」
自嘲混じりに吐き捨てたその言葉。すると、少女は床にぺたんと座り直すと、小さな両眉をキュッと顰めて、あからさまに不満そうな顔を作った。
『……そっか。……でも、それは……なんかヤダなぁ。失敗作なんて名前じゃないもん』
少女は不機嫌そうに頬を膨らませていたが、不意に何かを閃いたように、パッと顔を輝かせた。
『あっ! そうだ! 私が新しい名前、付けてあげる! じゃあ、えーっとね! ───君は今日から、『オニ』ね!』
ビシッと、小さな人差し指が恭平の鼻先に向けられる。 突然の提案に、恭平は狐につままれたような顔で首を傾げた。
「オニ? なにそれ。ヘンテコな名前」
『えっとねぇ! この前、観察室の横の空き部屋でたまたま拾って読んだ絵本に出てくる、すっごく強そうな悪役なんだけどー』
「……悪役なんだ……」
あまりにもストレートすぎるチョイスに、恭平は思わず呆れたようなツッコミを入れてしまう。少女は「もー!」と可愛らしく足をバタつかせた。
『まぁまぁ、最後まで聞いてよ! その絵本に載ってる見た目がね。君が本気で戦うときの、額に角が生えて真っ赤になる姿と、すっごく似てるの!』
「へぇ。でも、悪役ってことは……物語の中じゃ、最終的にヒーローに倒されちゃうんでしょ?」
『んふふ〜、そう! だからね、君は『オニ』になって、いつか私に倒されるの!』
その遠慮の欠けらもない、どこまでも不遜で高飛車な物言いに、恭平は思わず額に青筋を立ててムッとなった。
「……でも君、めちゃくちゃ弱いじゃん。今日も俺に一回も攻撃届かなかっただろ」
『うぅ……! 今は弱くても、これから強くなるもんっ! 絶対、私がオニを倒してみせるんだからっ!』
キーッと癇癪を起こしそうになる少女を見て、これ以上意地を張られても面倒だと悟った恭平は、呆れ顔で話の流れを無理やり変えることにした。
「はいはい……わかりました。じゃあさ、その絵本の物語で、オニを倒す側の主人公の名前は何ていうの?」
『ん? 桃太郎だけど?』
「ふーん。じゃあ、俺はこれから君のこと『桃太郎』って呼ぶよ」
『ええっ!? やだァ! なにそれ全然可愛くなーいー!』
少女は両腕をぶんぶんと振って、年相応に子供らしく駄々をこね始めた。あまりの嫌がりように、恭平は困ったように後頭部を掻く。
「えぇ……。参ったな。ん〜……じゃあ──────『モモ』ってのはどうだ?」
『っ! 『モモ』っ! 良い! モモっ! すっごく可愛い!』
その響きが一瞬で気に入ったのか、少女はまたしても目を輝かせて、身を乗り出すようにして顔を近づけてきた。
「じゃあ、俺は『オニ』で──────」
『──────私は『モモ』!』
「ふっ。よし、決まりだな」
『うんっ!』
冷たい実験室の白い空気のなかで、二人の幼い笑顔が弾けた──────。
────────────
「……モモ」
恭平は、かすれた声でその名を口にした。明確に、目の前の、二メートルを超える醜悪で変わり果てた彼女に向けて。
かつて白い部屋で交わした、あの愛おしい約束の記憶。 異形の恐ろしい顔面には、血みどろの皮膚とは裏腹に、驚くほど穏やかで、満ち足りた笑みが浮かんでいた。
濁っていたはずの金色の瞳が、澄み切った光を宿して、優しく恭平をじっと捉えている。
自分がついていた「嘘の敗北」。 守るためだったとはいえ、彼女に向き合わず、彼女の心を踏みにじって失望させてしまったことへの、猛烈な悔恨と罪悪感が恭平の胸を破裂させる。
「悪かった……。俺、お前にちゃんと向き合わずに……ずっと嘘つき続けて……っ」
恭平が握りしめる彼女の大きな手が、まるで役目を終えた枯れ葉のように、端から段々と灰のように儚く崩れ始めていく。生体エネルギーを使い果たした彼女の肉体が、分子レベルで崩壊を起こしているのだ。
「っ……! 一人にして悪かった……! 置いていってごめん……! これからは、これからはずっと一緒だ……!」
ボロボロと、ボロボロと形を失っていくその腕に、恭平の目から溢れ出た大粒の涙がポタポタと染み込んでいく。
「お前が望むなら、いくらでも……何回でも遊んでやるから! だから……なぁ! 頼むから消えないでくれ……っ!」
崩れ去っていく手を必死に包み込むように、恭平はその場に突伏し、顔を埋めて強く深く蹲った。とめどなく溢れ出し、止まることのない涙。胸の奥底が、生まれてから一度も味わったことがないほどに固く締め付けられ、息ができない。
灰となり、砂のようになった彼女の身体の残骸が、恭平の指の隙間からサラサラと音を立てて無情に零れ落ちていく。
「ぁああ……っ……あああああッ!!!モモっ……! モモぉッ!!」
絶望と、激しい悲しみ、自由を手に入れる前に失ってしまった喪失感が、凄まじい濁流となって恭平の精神を呑み込んでいく。
こんな筈じゃなかった。こんな事になると分かっていれば、あの時、もっとちゃんと話していれば。やり直したい。だけど、もう二度とやり直せない。
崩壊した世界で、最強の力を手に入れたはずなのに、たった一人の大切な少女すら救えず、こうして子供のように泣きわめいている自分が、惨めで、情けなくて仕方がなかった。
そんな自罰的で昏い思考の渦に完全に呑まれそうになった、まさにその時だった。
──────トントン
無造作に地面に蹲り、背中を丸めて泣きじゃくる恭平の肩を、何者かが遠慮がちに、優しく叩いた。
「……ぇ?」
恭平は、酷く間の抜けた掠れ声と共に、涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと跳ね上げた。
そこにいたのは───。
「ドッキリ大成功……?」
少しだけ気まずそうに疑問符を浮かべながら、ペロッと舌をちろっと出してみせる、一人の飛び切りの美少女だった。
長い黒髪を濡らし、金色の瞳をいたずらっぽく輝かせている彼女は、どこか恥ずかしそうに両腕で自身の胸元を隠しながら、小刻みに身を震わせている。
「くしゅんっ! ……さむっ。脱皮したら素裸になっちゃったじゃん。とりあえず服ちょうだい」
かつて白い記憶の中にいたあの幼い少女が、そのまま順調に成長を重ねたような、可憐で美しい姿。 脱皮した殻が崩れ去った後から、中身の本体がそのままニュッと出てきたのだと言わんばかりの、平然とした態度。
「……は?」
悲劇のヒロインとの永遠の別れから、一瞬にして繰り出された意味不明すぎる超展開。恭平は涙を流したまま、ただ口をぽかんと開けて、その場で木石のように固まることしか出来なかったのであった。