「どう……なってんだ……? お前……だって、身体、灰になって……」
途切れ途切れの声で、恭平は何とか目の前の事態を整理しようと脳細胞をフル回転させていた。
視線の先は、確かに目の前に佇む全裸の美少女───かつて実験室で約束を交わした『モモ』の面影を色濃く残す少女の姿をしっかりと捉えている。
足元には、先ほどまで彼女を閉じ込め、破虐の限りを尽くしていた二メートルを超える異形の巨殻が、まるで役割を終えた蝉の脱け殻のように完全に崩壊し、サラサラとした灰となって山風に舞い散っていた。
だが、直前までの号泣と絶望、そしてあまりにも脈絡のない超展開によって、彼の脳内には大宇宙という名の情報量の濁流が容赦なく渦巻いていた。
死んだと思った人間が、異形の殻を破って脱皮するように美少女姿で復活し、何事もなかったかのように舌をちろっと出している。
理解の範疇を遥かに超えた怪現象の連続に、恭平の思考回路は完全にショートしかけていた。
「へへへ〜。あの身体、凄かったでしょ〜。ふういん?された時のボロボロ状態だったけど、すっごく強いんだ〜」
モモは自分の裸の胸元を細い両腕で隠しながら、えっへんと言わんばかりに自慢げに胸を張った。
その天真爛漫で無邪気な笑顔には、死の淵をさまよっていた悲壮感など欠片も見当たらない。透き通るような金色の瞳をキラキラと輝かせ、まるで自慢のオモチャを見せびらかす子供そのものの態度だ。
「……」
(封印? ボロボロ?……なんだ? 何なんだ? 俺がいない間に、一体何があったんだ? ダメだ、マジで意味分かんねぇ……)
恭平は内心で激しく頭を抱えた。『封印』という聞き捨てならない単語。あの圧倒的な破壊力と地獄のような圧力を誇っていた異形の状態が、本来の力を封じられたボロボロの姿だったという信じがたい事実。
自身が実験施設から姿を消したあと、彼女が大人たちにどんな目に遭わされ、どうやってあの姿になり、この崩壊した世界に現れたのか。
疑問は山のように沸き起こってくるが、目の前の少女のマイペースすぎる態度と能天気な空気感が、それ以上の深刻な追及を全力で阻んでいた。
「それにしてもぉ? オニったら、あんな風に泣いちゃってさ〜。あははっ! 可愛いとこあるじゃん。私のこと、好きすぎ〜」
「〜〜〜〜っ!?」
ぷぷぷ、と意地悪そうに口元を手で隠し、小悪魔のような笑みを浮かべて恭平を小馬鹿にするモモ。先ほどまで涙と泥で顔をぐしゃぐしゃにして情けなく泣き叫んでいた恭平の姿を、彼女はバッチリと観察していたのだ。
状況が飲み込めず茫然自失としていた恭平だったが、その舐め腐った態度と茶化すような言動に、次第に沸々と苛立ちが込み上げてきた。赤黒く染まっていたはずの頬が、今度は猛烈な羞恥と怒りで真っ赤に熱くなっていく。
「……っるせぇ! 記憶が戻って混乱してただけだ! 妙な勘違いしてんじゃねぇ!」
恭平はバッと顔を背け、噛みつくような勢いで怒鳴り散らした。だが、その必死すぎる反論と真っ赤になった顔は、モモにとって格好の玩具でしかなかった。
「あっ! ツンデレだー! 初めて見たぁ! 生のツンデレ! かーわーいーいー!」
「だ、誰がツンデレだ誰がッ!?」
きゃあきゃあ、と両手を叩いて無邪気にはしゃぐモモ。 どこでそんなネットの知識やサブカルチャーの単語を仕入れてきたのか、生で『ツンデレ』という現象に遭遇できたことが嬉しくてたまらないといった様子だ。
「……なんなんだよ、マジで……」
恭平は片手を額に当て、天を仰ぎながら深々と長い溜息を吐き出した。 怒る気力すら根こそぎ奪われていくような脱力感。
だが、その際───自分の額に触れた手つき、自由になった指先の豊かな可動域、そして目線に映った自身の腕の質感に、恭平はある重大な変化に気がついた。
(あっ。元に戻ってる……いや、違う、これは──────)
恭平はハッとして、自分の身体を見下ろした。
先ほどまで全身を覆っていた狂暴な紅色の皮膚も、額から生えていた鋭い角も綺麗に消え去っていた。 だが、元の冴えない「筋肉デブ」の体格に戻ったわけではない。
そこには、ギリシャ神話の英雄像を思わせる、完璧なバランスで引き締まった無駄のない肉体が横たわっていた。
胸元から腹部にかけて、彫刻のように美しく溝を刻む鋼のような腹筋。上腕から前腕にかけては、皮膚の下で太く逞しい血管がまるで力強い脈動を伝えるように青く走り、洗練された筋肉の隆起を誇示している。傷一つない、瑞々しい生命力に満ち溢れた皮膚。
ふいに、恭平はその場でスっと立ち上がった。両手で自分の胸筋、腹筋、大腿部の筋肉を押し込むように触りながら、肉体の精度とバランスを丹念に確認していく。
(少し、身長も伸びたか……? 五、六センチってところか……。それにしても、身体が軽い。可動域も、柔軟性も、以前の俺とは比べものにならないほど上がってる)
恭平は、自身の劇的な変貌に驚きを禁じ得なかった。身長は以前の百六十九センチメートルから、百七十五センチメートル前後にまで伸長している。
重苦しかった自重の感覚は完全に消え去り、全身の関節が驚くほど滑らかに駆動していた。
試すように、肩をぐるりと大きく回す。風を切る静かな摩擦音。続いて、腰の回転を利用して虚空に鋭い一拳を振り抜く。ドッ、と大気を穿つ重厚な衝撃音。
間髪入れずに軸足を駒のように回転させ、しなやかな回し蹴りを一つ繰り出す。そのままの勢いで軽くその場で高く飛び跳ね、空中でくるりと反転して、地面へと静かに着地した。
カサっ。
足元に積もっていた落ち葉が微かに擦れる音がしただけだった。衝撃を完璧に殺した、羽毛のごとき見事な着地。地面の小さな小石一つすら動かさない。身体の指先、爪の先、毛髪の先まで、すべての末梢神経に自身の意識が完璧に張り巡らされているという、圧倒的な全能感と洗練。
「……綺麗」
ぽつり、と。 感嘆の溜息混じりの、透明感のある美しい声音が恭平の鼓膜を優しく揺らした。
驚いて振り返ると、そこには両手を胸の前で合わせ、金色の瞳をらんらんと輝かせながら、ぼうっと見つめるモモの姿があった。
「そうか……?」
「うん。動きに全くブレが無い。身体の中心から指先……爪の先に至るまで、全てに意識が完璧に張り巡らされてる。やっぱり、オニは凄いね」
少女の瞳には、一切の社交辞令も偽りもない、純粋な敬意と讃嘆の色が宿っていた。武を極めた者だけが理解できる領域の美しさを、彼女はまっすぐに褒めたたえているのだ。
「お、おう……あざっす……」
全裸の美少女から、隠し事のない真っ直ぐすぎる高評価を向けられ、恭平は急激に居心地の悪さを覚えた。照れくささと気恥ずかしさが一気に押し寄せ、柄にもなくどもりながら情けない返事をしてしまう。
このままだと、自分のペースが完全に壊されてしまう。何より、全裸の女と二人きりで山奥の森の中に留まり続けるのは、精神衛生上非常によろしくない。
「ふ、服、探して来るわ!」
恭平は強張った空気感に耐えかね、そそくさと後ずさりをした。周囲の森にゾンビや敵の気配が無いことを視覚と聴覚で瞬時に確認すると、逃げるような駆け足で、先ほどの廃採石場の敷地内へと向かうのだった。
────────────
数分後。
恭平は山奥の荒れ果てた廃採石場にポツンと残された、壊れかけた作業員のプレハブ小屋の奥から、運よくスチールロッカーに残されていた灰色の作業員服(上下セット)を見つけ出し、抱えて戻ってきた。
長年放置されていた埃っぽさはあるが、破れや汚れはほとんどない。サイズはやや大きめだが、今のモモの小柄な身体なら十分に覆い隠せるだろう。
恭平はモモに作業服を手渡し、一本の太い大木の幹を背にして、互いに見えないように背中合わせになって素早く着替えを済ませた。
「着たよ〜」
ひょこっと、大木の幹の横から小さな頭が覗いた。 ダボダボの灰色の作業服に身を包んだモモが、袖口から少しだけ指先を覗かせ、後ろ手に手を回して、上目遣いに恭平を見上げてくる。
「どう? 似合ってる?」
「……いや、作業服に似合うもクソもねぇだろ。ただの土木作業員スタイルじゃねぇか」
袖や裾が余ってダボついている作業着姿の彼女を見て、恭平は即座に容赦のないツッコミを入れた。だが、モモは不満そうに「ぶー」と口を尖らせる。
「えー。ラブコメのテンプレだと、『あぁ、似合ってるぜ』って言われて、ここで良い雰囲気になるのにぃ」
モモはわざとらしく声を低く落とし、片手をあごに当ててキリッとしたイケメン風のセリフを口ずさむ一人芝居を始めてみせた。
「お前はどこを目指してんだよ……。どこでそんな無駄な知識仕込んできたんだ」
「だってぇ、観察室に置いてあったマンガ本に書いてあったもん。……ねぇ、恭平って本当に男だよね……?」
「は?」
ジト目で恭平を見つめながら、モモは疑わしそうな声をあげる。
「だって私の裸見ても完全に無反応だったし……もしかして、枯れたの?それとも男の人にしか興味ないの?」
「どこでそんなロクでもない言い回し覚えてきたんだよ……」
マイペースすぎる彼女の煽り言動に、恭平は額を押さえて本日何度目か分からない大きな溜息を吐き出した。 脳がじりじりと疲弊していくのを感じる。
「で、実際のところどうなの?」
「良いか、"モモ"。今の時代な、男女関係無くセクハラってのは成立するんだぞ。調子に乗ってると本気で怒るぞ」
恭平が少し呆れ顔で注意を促した、その瞬間だった。
「っ。……やっと、名前呼んでくれた……!」
「は?」
モモの表情が一変した。 先ほどまでの小悪魔的なおちゃらけた雰囲気が嘘のように消え去り、その金色の瞳が激しく揺れている。彼女はぐいっと一歩踏み込み、互いの鼻先が触れ合いそうなほど至近距離まで顔を近づけてきた。
「ち、近ぇよッ!?」
「ねぇねぇ! もっかい! もっかい私の名前呼んで!?」
「分かった! 分かったから一回離れろ、モモ!」
「〜〜〜〜っ! うん、うんっ! モモだよ! 私はモモ! オニが付けてくれた、世界で一番大切な名前……!」
歓喜に顔を綻ばせ、モモは弾けたように恭平の胸元へと飛び込み、その細い両腕で強引に抱きついてきた。
「おい、急に抱きつくなっ! 暑苦し───」
恭平が苦笑いを浮かべながら押し戻そうとした、その時だった。
ぐす……っ。ぐす……っ。
胸元から、小さく押し殺したような、切ない鼻をすする音が聞こえた。抱きついてきたモモの小柄な身体が、小刻みに、激しく震えている。
「生きてる……。生きてるんだ……。私、やっと……やっと会えたんだ……っ」
「……モモ?」
「夢じゃないんだよね……? 幻想じゃないんだよね……? 本当の、本物のオニなんだ……。あったかくて……強くて……カッコよくて……大好きな私のオニ……っ」
モモは、恭平の作業着を押し潰さんばかりの力でぎゅっと握りしめ、胸に顔をうずめて号泣し始めた。
彼女は、ずっと恐ろしかったのだ。あの実験施設で引き裂かれ、永い暗闇の底でただ一人、果てしない絶望と孤独に耐え続けてきた。やっと再会できたオニ。だが、目の前にいる彼が、自分の強い孤独と切望が生み出した都合の良い『幻影』なのではないか。
目覚めたらまたあの暗い一人きりの世界に戻ってしまうのではないか。その恐ろしい不安を打ち消すために、彼女はずっと明るく、おちゃらけた態度を演じ続けていたのだ。
だが、今、肌を通じて伝わってくる恭平の確かな体温。力強い胸の鼓動。そして、自分に名前を呼んでくれた優しい声。この温もりが本物であり、現実なのだと実感がこもった瞬間。彼女が胸の奥底に必死で押し込めていた全ての感情と、途途もない孤独の記憶が、一気に決壊した。
「うぁあああんっ! オニっ……! オニぃ……っ!」
ボロボロと溢れ出る大粒の涙が、恭平の作業着の胸元を熱く濡らしていく。 子供のように大声を上げて泣きじゃくるモモ。
恭平は、自身の胸の中で弱々しく肩を震わせ、すがりつくように抱きついてくるモモの姿を、じっと見つめた。
もう、言葉はいらなかった。 どんな言い訳も、どんな釈明も必要なかった。
恭平は何も言わず、ただ静かに、優しくその腕を回し、小さく震えるモモの背中をそっと抱き締めるのだった。