「クソっ! 逃げるぞ!」
肺を焦がすような熱い息を吐き出しながら、俺─────森本慎太郎は、ただひたすらにアスファルトを蹴っていた。
頭の中は真っ白で、心臓が肋骨の内側を壊れそうなほどに叩き続けている。
つい一時間前まで、俺たちは至極平和な日常のなかにいたはずだった。
小学校からの付き合いがある地元の悪友たち。
山下風弥と、北森達也。
久しぶりに集まった俺たちは、駅前のファミレスのボックス席で、くだらない思い出話に花を咲かせていた。
ドリンクバーの炭酸飲料をすすりながら、あの頃の先生のモノマネをして笑い合う。
そんな、どこにでもある退屈で、だけどかけがえのない土曜日の午後。
それが、一瞬で消し飛んだ。
ふと、達也が何気なく窓の外を覗き込んだ瞬間、彼の顔から一切の血の気が引いた。
何事かと俺と風弥も視線を向けた先────そこは、すでに言葉通りの『地獄』と化していた。
ガラス窓の向こうで繰り広げられていたのは、おぞましい捕食劇だった。
狂ったように叫び、他人の首筋に噛みつく人間。
引きちぎられた肉。
アスファルトの上にこれでもかとぶち撒けられる、どす黒い血と臓腑。
街中に響き渡る怒号と、逃げ惑う女子供の引き裂かれたような泣き叫ぶ声。
映画の撮影か何かのドッキリであってくれという願いは、ファミレスのガラス扉を突き破って侵入してきた、血塗れの『化け物』によって無惨に打ち砕かれた。
そこからは、無我夢中だった。
俺たちはただひたすらに走り、逃げ続け、運良く誰一人欠けることなくここまで生き延びてきた。
だが、その運もいよいよ底を突いたようだった。
「ダメだ慎太郎! あっちにも化け物が……ッ!」
前方の路地裏から現れた影を見て、風弥が悲鳴のような声を上げた。
彼の顔面は完全に蒼白となり、額からは恐怖による脂汗がじっとりと滲み出ている。
その視線の先には、血走った目を爛々と輝かせ、狂犬のような速度でこちらへ突進してくる四体の化け物。
後ろを振り返っても、すでに逃げ道はない。
完全に挟み撃ちだった。
絶望という重圧が、容赦なく俺たちの肩にのしかかる。
「くっ! 仕方ない、戦うぞ……!」
喉を鳴らし、覚悟を決めたような声をあげたのは達也だった。
彼は地面に転がっていた、どこかの野球少年が落としたであろう金属バットを引っ掴み、両手で固く構える。
その手は小刻みに震えていたが、その瞳にはまだ諦めの色はなかった。
だが、俺は絶望に歯を鳴らすしかなかった。
「おいおい無茶言うな! アイツら痛覚も無けりゃリミッターも外れてやがんだぞ!?」
テレビのニュースや、逃げる途中で目撃した光景が脳裏をよぎる。
あいつらは生きた人間を食らうためだけに動くバケモノだ。
銃で撃たれても止まらない狂戦士を相手に、高校球児でもない俺たちが金属バット一本で勝てるわけがない。
「じゃあ、このまま大人しくアイツらの餌になれってか!? どうせ死ぬなら、せめて一体でも道連れにしてやるよ!」
達也が声を荒らげる。
風弥は恐怖のあまり、その場にへたり込んでガタガタと震えていた。
「くっ……」
俺は強く歯噛みをし、最悪の結末を覚悟して拳を握りしめた。
その時だった。
視界の端から、信じられないほどの質量を持った『何か』が、猛烈な突風と共に割り込んできた。
──────ブォン!!!
空気を強烈に圧縮したような、重苦しい風切り音。
直後、鼓膜を震わせたのは、鈍く硬いものが激突する最悪の破壊音だった。
ぐしゃり、と。
「……え?」
俺の口から、間の抜けた声が漏れる。
何が起きたのか、脳の処理が追いつかない。
目の前にいたはずの化け物のうち、先頭の一体の頭部が、まるで熟しきったトマトのように容易く破裂していた。
それだけではない。
砕け散った頭蓋の破片を撒き散らしながら、その体は凄まじい勢いで二体目の化け物へと衝突し、二体まとめて遥か後方へと吹き飛んでいったのだ。
グシャッ! パァン! グシャッ!
連続して響く、肉と骨が文字通り木っ端微塵に粉砕される。
残りの二体も、まるでハエ叩きでもされるかのように、一瞬で地面へと叩きつけられ、その頭部を容赦なく踏みつぶされた。
そこにあったのは、戦闘などという生易しいものではなかった。
ただの圧倒的な『処理』。
暴虐の嵐そのものだった。
返り血の雨のなか、鉄パイプを無造作に肩に担いだ一人の男が、気だるげに佇んでいた。
その背中は、お世辞にもスタイリッシュとは言えない。
身長は俺たちよりもやや低く、だが横幅が尋常ではない。
着古したパーカーの袖から覗く腕は、丸太のように太かった。
男は、血塗れの靴底で地面の肉片を雑に拭うと、こちらを振り返った。
「あっ……慎太郎と……風弥と……あーっと達也か?」
酷くのんびりとした、この地獄絵図にはあまりにも不釣り合いな声で、男は俺たち三人の名前を正確に口にした。
俺は血の臭いも忘れて、その男の顔を凝視する。
どこかで見たことがある。
いや、よく知っている。
中学時代、クラスの隅でいつも飄々としていた。
「お前……恭平か?」
中学以来の再会だった。
昔から変わらない、あの独特な「筋肉デブ」のシルエット。
しかし、記憶にあるそれよりも遥かに分厚く、禍々しいほどの威圧感を放つその肉体から、俺の脳は一人の旧友の名前を導き出していた。
高橋恭平。
間違いない、アイツだ。
「久しぶりだな」
恭平は、まるでコンビニの前で偶然会ったかのような軽い調子で言った。
そして、鋭く目を細めると、俺たちの背後────路地の奥からさらに湧き出てこようとしていた化け物の群れを見据える。
「とりあえず伏せてくれ」
有無を言わせない静かな迫力に、俺たちは呆気にとられつつも、反射的に頭を抱えてその場に伏せた。
地面にへばりつき、息を潜める。
直後。
ブォン! ──────パァァァアン!!!
身体の芯までドスドスと轟くような、重低音の風切り音。
それは先ほどよりも遥かに重く、激しいものだった。
そしてそのすぐ後、俺たちの後方から、巨大な風船が至近距離で爆発したかのような爆音が響き渡った。
強烈な衝撃波が俺たちの背中を通り抜け、生温かい風が髪をなびかせる。
恐る恐る顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。
俺たちを背後から狙っていたはずの数体の化け物どもが、文字通り跡形もなく吹き飛んでいたのだ。
周囲の壁には赤黒いペンキをぶちまけたような跡が残り、肉片が雨のようにぽつぽつと路面に降り注いでいる。
恭平が振るった鉄パイプ一閃の風圧と威力だけで、化け物の群れが消滅したのだ。
鉄パイプを軽く一振りし、恭平はふぅと息を吐いた。
「もう大丈夫だ」
何が大丈夫なのか。
今、目の前で起こった超常現象とも言える怪奇現象を、俺の脳はまったく処理することができなかった。
漫画や映画の世界ならともかく、現実の人間が、鉄パイプ一本でこんな芸当をできるはずがない。
俺はただ、マヌケに口を開けて立ち尽くすことしかできなかった。
全身の血が、恐怖とは違うベクトルの衝撃で沸騰しているようだった。
「助かった……のか?」
隣から、ようやく腰を上げた風弥の、完全に気の抜けた声が聞こえた。
そのつぶやきは、静まり返った路地裏の空気に、虚しく通り抜けていく。
俺たちの前に立つ旧友の背中は、崩壊した世界の中で、あまりにも巨大で、そして異質に見えた。