アルティメットライフフォーム   作:感謝君

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第五話

 

 

(あぁ、気持ち悪ぃ……)

 

 

脳髄を焼き尽くさんばかりに荒れ狂っていた殺戮の高揚感が完全に消失した今、俺の全神経を占めていたのは、ただただ圧倒的な不快感だけだった。

 

 

俺の顔に、髪に、そして無惨に引きちぎれ、ボロボロになった衣服の繊維に。

 

 

べっとりと、そして執拗に染み付いた赤黒い血。

 

 

飛び散った肉片、そして得体の知れない生温かい臓物の残骸。

 

 

それらが時間の経過とともに体温で生乾きになり、皮膚を突っ張らせ、鉄錆と腐敗の混ざり合った最悪の悪臭を放ちながら鼻腔を蹂躙してくる。

 

 

一歩歩くたびに、靴底にこびりついた肉塊がグチャリと不快な音を立てるのが分かった。

 

 

一刻も早く、この穢れをすべて洗い流してしまいたかった。

 

 

「……どこか……水場……」

 

 

うわ言のように、掠れた声が俺の口から漏れる。

 

 

それは生存への渇望というよりも、生理的な嫌悪感からくる切実な叫びだった。

 

 

どこかに水道はないか。公園の蛇口でも、壊れた消火栓でもいい。

 

 

この悍ましい汚れを落とせる場所を、俺の目は無意識に探し求めていた。

 

 

「…………」

 

 

だが、その俺の呟きに答える者は誰もいなかった。

 

 

後ろからついてくる慎太郎、風弥、達也の三人は、ただ無言のまま、俺が進む方向に足を進めているだけだった。

 

 

それも、決して俺のすぐ隣に並ぼうとはせず、常に一定の距離───およそ5メートルほどの、いつでも反転して逃げ出せる絶妙な距離感を維持したままで。

 

 

あいつらの足音は、驚くほど慎重で、そして怯えに満ちている。

 

 

あれだけ通りを埋め尽くしていたゴミ共は、俺が木っ端微塵に粉砕したおかげで、最早どこにも居ない。

 

 

完全に生物の気配が途絶えた街には、俺の冷えきった思考と同じ、不気味なほどの静寂だけが支配していた。

 

 

俺の脳裏を、終わりのない疑問がぐるぐると駆け巡る。

 

 

俺は、一体何者なのだろうか。

 

 

本当に、今でも「人間」と言えるのだろうか。

 

 

この異常極まりない肉体の出力と、それを支える桁外れの強度。

 

 

先ほど、あの脳髄に迸る圧倒的な快感と狂気の中、微かに残っている自身の記憶を冷静に振り返ってみる。

 

 

最後の方、俺は多分────いや、間違いなく。

 

 

自身の肉体が内側からぐちゃぐちゃに粉砕されそうな圧力すら、脳内で歪んだ快楽へと変換しながら、あの巨大な『大型トレーラー』を持ち上げていた。

 

 

数十トンはある、あの鋼鉄と超質量の塊。

 

 

それを、俺は雑に、豪快に持ち上げて放り投げたのだ。

 

 

現存する地上生物において、あの陸上最強と謳われるアフリカゾウですら、そんな馬鹿げた膂力を発揮出来やしない。

 

 

ましてや、それを人間のサイズ、人間の骨格で持ち上げようものならどうなるか。

 

 

どれだけ超人的な筋力があろうとも、作用反作用の法則に従い、数十トンの負荷はすべて自身の足元と骨格へと跳ね返ってくる。

 

 

普通の人間なら、持ち上げる前に自身の骨格が重量に耐え切れず、内臓ごと忽ち木っ端微塵に粉砕され、肉のパイになって破裂するのがオチだ。

 

 

時々、ネットの掲示板や退屈な大学の講義中に、「もし人間の火事場の馬鹿力のリミッターが完全に外れたらどうなるか」という仮想シミュレートを脳内ですることがあったから、よく分かる。

 

 

リミッターが外れただけの人体は、自身の筋力によって自身の骨をへし折り、筋肉を引きちぎって自滅するのだ。

 

 

つまり、今の俺の身体で起きている現象は、リミッターの解除などという生易しいレベルのものではない。

 

 

数十トンの重量を支えても軋みすらしない骨。

 

 

コンクリートを爆裂させて跳躍しても断裂しない腱。

 

 

トラックの鉄板を素手で引きちぎっても傷一つつかない皮膚。

 

 

恐らく、俺の肉体そのものが、細胞の密度、あるいは組成レベルで、人類とは全く異なる何物かへと変異している可能性が極めて高かった。

 

 

ゾンビ化とは違う、だが確実に、ホモ・サピエンスの範疇を逸脱した『怪物』への変態。

 

 

そんな冷徹な自己分析に没頭していた、その時だった。

 

 

「……きょ、恭平……そ、その……喰われてる……ぞ」

 

 

後ろの方から、遠慮がちに、そして今にも消え入りそうなほどに震えた声が、俺の鼓膜を揺らした。

 

 

慎太郎の声だった。

 

 

「ん……?」

 

 

深い思考の沼からすっと意識が浮き上がり、言われてみれば、右上腕のあたりに奇妙な異物感と微かな不快感を感じていることに気がついた。

 

 

俺は緩慢な動きで、自身の右腕へと視線を向けた。

 

 

ガァ……ガァァァ……

 

 

いつの間に物陰から這い出てきていたのか、一体のゾンビが、俺の右上腕の肉に文字通り必死になって噛みついていた。

 

 

白濁した目を血走らせ、汚いヨダレと赤黒い体液を垂らしながら、俺の肉を噛みちぎろうと必死に顎を動かし、唸り声を上げている。

 

 

だが、ゴミの鋭い犬歯は、俺の着ているパーカーのボロ布を突き破ったところで、完全に停止していた。

 

 

 

俺の皮膚は、まるで最高硬度の特殊装甲板か何かのように、ゾンビの牙を完全に弾き返している。

 

 

傷一つ、赤み一つついていない。

 

 

むしろ、噛みついているゾンビの側の顎の骨が、俺の肉体の硬度に負けて、メキメキと嫌な音を立てて歪んでいる。

 

 

文字通り、全く歯が立たない様子だった。

 

 

痛くも痒くもない。ただ、汚い液体を押し付けられている感覚だけが、ひたすらに不愉快だった。

 

 

「あぁ……悪ぃ……」

 

 

俺は声をかけて教えてくれた慎太郎に向けて、心底気の抜けた調子で短く謝罪した。

 

 

それから、右上腕にへばりついているゴミの頭部に向けて、そっと左手を伸ばす。

 

 

ゾンビの髪の毛ごと、その頭蓋骨を上から包み込むようにして、右手を雑に、だが全力で握り締めた。

 

 

ぐぎゃ……ぐちゃ…………ぐちゅ………

 

 

大した抵抗も手応えもなく、ゾンビの頭部は熟しすぎた桃のように、あっけなく潰れた。

 

 

骨が砕ける嫌な感触と、ドロリとした脳漿が指の隙間から飛び散り、役目を終えたゴミの身体が、地面に力無く倒れ伏す。

 

 

俺はそれを、ゴミ箱にティッシュを捨てるような無関心さで見下ろした。

 

 

ヒッ、と後ろの方で、風弥の小さな悲鳴が小さく聞こえた。

 

 

達也が息を呑む気配も伝わってきたが、今の俺にはそれすらもどうでも良かった。

 

 

今の俺にとって、この程度の「処理」は、呼吸をするのと同義の作業に過ぎなかったからだ。

 

 

そうして、歩きながら時折路地から這い出てくるゾンビを、文字通り虫ケラのように蹴散らしながら進むこと数分。

 

 

俺たちは、ようやく目的地である市役所の正面門の前まで辿り着いた。

 

 

……アアァ……ァアア……

 

 

門の向こうから、無数の不快な呻き声が反響して聞こえてくる。

 

 

市役所の敷地を囲む頑丈な鉄製の門の内側には、建物内から運び出されたであろう事務机、スチール製のロッカー、重い棚、さらには公用車までもが隙間なく山積みにされ、巨大なバリケードが築かれていた。

 

 

外からの侵入を徹底的に拒絶するための、狂気的なまでの防壁。

 

 

その厳重な防備のおかげか、バリケードの内部を見る限り、ゾンビの侵入を許した形跡は無いようだった。

 

 

だが、問題はその手前だった。

 

 

生きている人間が立てこもるその防壁の「外側」には、中に入ろうとして阻まれた、あるいは中にいる人間の肉の匂いに引き寄せられた、数十体ほどのゾンビの群れが、いまだに未練がましく群がっていたのだ。

 

 

 

バリケードの左右には、急造されたと思われる木製の物見櫓的な建築物が二つ、天を突くようにそびえ立っていた。

 

 

 

そこには、監視役という、いつ襲われるかも分からない最高に損な役回りを押し付けられたのであろう男たちが数人、配置されていた。

 

 

 

彼らは皆、恐怖で顔を土このように青ざめさせ、門の下の地獄絵図を見下ろしながら、今にも胃の中のものを吐き出しそうな顔をして立っていた。

 

 

「…………」

 

 

俺は、物見櫓の上の男たちを一瞥した。

 

 

それから、彼らの怯える視線を全身に浴びながら、バリケードの前に群がるゴミどもを「掃除」するために、迷うことなく歩みを進めた。

 

 

アァ……ァアア?

 

 

俺が発する堂々とした足音と、全身から漂う圧倒的な血の臭いに気づいたのだろう。

 

 

数体のゾンビが、バリケードを引っ掻くのをやめてこちらを振り向き、醜い顔面を晒しながら、新たな獲物を求めて近付いてくる。

 

 

……ァアアア!! ウアアアア!!!

 

 

彼らは獲物を目の前にして興奮を最高潮に達させ、狂犬の如き速度で、猛烈な体当たりを仕掛けて来た。

 

 

まともな人間なら、その質量と速度だけで容易く押し潰され、地面に圧倒されるだろう。

 

 

だが、俺にとっては、ただののろまの突撃に過ぎない。

 

 

グギャッ! ガァッ!

 

 

迫り来る二体のゾンビの顔面を、俺は左右の手で同時に、真正面から鷲掴みにした。

 

 

そのまま、突進の勢いを肉体の剛性だけで完全に相殺し、自身の身体を軸にして、遠心力を利用したハンマー投げの要領で、バリケードの前に密集している群れの中心に向けて、二体同時に投げ飛ばした。

 

 

 

バンッ! ドガッ! ドガガガッ!!!

 

 

凄まじい速度で放たれた2つの肉塊の弾丸は、バリケードにへばりついていた群れへと激突し、爆弾が炸裂したかのような衝撃を生み出した。

 

 

 

それだけで、群がっていたゾンビの約三割が一気に肉片となって削り取られる。

 

 

間髪入れず、俺は次のゾンビの首根っこを掴み、再び砲弾として投げつける。

 

 

ドガンッ! パァンッ! グチャ……

 

 

恐れを知らない、あるいは本能だけで動く雑魚どもを、掴んでは投げ、掴んでは投げ。

 

 

それはまるで、流れてくる荷物を仕分ける工場の一作業のようだった。

 

 

先ほど街中で味わったような、脳が焦げるようなあの大爆発的な高揚感は、もう無い。

 

 

ただ、目の前に与えられた義務的なタスクを淡々とこなすように、冷徹に、そして機械的に処理を続けた。

 

 

ものの数十秒。

 

 

気付けば、あれほどバリケードに群がって不快な音を立てていたゾンビ共は、無様にも原型を留めない肉片と内蔵を周囲に飛び散らせる、凄惨な死体の山へと姿を変えていた。

 

 

周囲を見回し、動くものが完全に途絶え、処理が完了したことを確認した俺は、特に感慨を抱くこともなく、無言のままバリケードの門の方へ向かって歩みを進めた。

 

 

 

綺麗になった門を開けさせ、中にあるだろう水場でこの身体を洗いたい。ただそれだけだった。

 

 

 

しかし、その歩みは、頭上から響いた狂気的な絶叫によって遮られることになった。

 

 

「と、止まれぇぇぇぇ!!! 動くな!!!」

 

 

バリケードの向こう。物見櫓擬きの上の方から、恐怖で完全に裏返った、悲鳴にも似た怒声が浴びせられる。

 

 

見上げれば、監視役の男の一人が、ガタガタと全身を激しく震わせながら、その手に握られた黒い鉄の塊──────警察庁支給の拳銃か何かを、まっすぐに俺へと向けていた。

 

 

銃口は、小刻みに、しかし明確に俺の胸元を捉えようとしている。

 

 

「それ以上進めば撃つ! お前、お前は何者だ!!!」

 

 

男の目は完全に血走っており、引き金にかかった指は、今にもパニックで力を込めてしまいそうなほど逼迫していた。

 

 

俺は浴びせられる銃声のような声の方へゆっくりと顔を向け、その人物と、彼が持つ武器の確認をする。

 

 

その瞬間、俺の頭の中に浮かんだのは、生存への危機感ではなかった。

 

 

(……拳銃か……。あれは、今の俺の身体を貫けるのか……?)

 

 

そんな、完全に常軌を逸した、ズレきった考えが脳裏をよぎっていた。

 

 

今の俺の皮膚の硬度、筋肉の密度。

 

 

あの拳銃の弾丸が音速を超えて着弾したとき、果たして肉を穿つことができるのだろうか。

 

 

それとも、さっきのゾンビの牙のように、キン、と虚しい音を立てて弾き返してしまうのだろうか。

 

 

そんな危険極まりない好奇心が、一瞬だけ頭をもたげる。

 

 

だが、俺の後ろでその様子を見ていた仲間たちは、俺のようにトんでるわけではなかった。

 

 

「ま、待ってくれ! 撃たないでくれ! 俺たちは人間だ!!! 感染もしてない!!! どうか中に入れて欲しいんだ!!!」

 

 

後ろに立つ慎太郎が、必死の形相で両手を高く上げ、物見櫓の警備に向けて声を枯らして懇願した。

 

 

その必死な弁明に、風弥と達也も同じように両手を上げ、自分たちが無害な生存者であることを必死にアピールする。

 

 

それでも、警備の人間は尚も銃口を俺に向けたままだ。

 

 

当然だろう、人間を片手で投げ飛ばして群れを壊滅させるような「化け物」が、生存者の皮を被って近づいてきているようにしか見えないのだから。

 

 

慎太郎が、焦燥に駆られた顔で、俺の背中に向かって叫ぶ。

 

 

「恭平……! 頼むから何か喋ってくれ! このままじゃ、本当に化け物扱いのまま撃たれるぞ!」

 

 

あぁ、そうか。俺が黙っているから、余計に不気味なんだな。

 

 

俺は小さくため息をひとつつくと、物見櫓の上の警備に向けて、できるだけ抑揚のない、平易な声を意識して口を開いた。

 

 

「……あぁ……。俺は人間だ。あそこに転がってる、人喰い共の仲間じゃない」

 

 

「っ! しゃ、喋った……!?」

 

 

俺の口から発せられた、あまりにも流暢で、かつ緊張感のない日常的な日本語の響きに、警備の人間が大きく目を見開いた。

 

 

銃口を向けたまま、驚愕と混乱に顔を歪ませる。

 

 

化け物が言葉を解し、自らを人間だと主張したのだ。

 

 

その事実が、彼らの貧弱な現実感覚を揺るがしているようだった。

 

 

警備の男の一人が、無線機を震える手で引っ掴み、怒鳴るように奥へと連絡を入れ始めた。

 

 

「……きょ、局長に伝えろ……! 正面門に生存者、生存者三名と……その、人の姿をした、言葉を話せる『自称人間』が一体いる……と! 至急指示を仰ぐ!」

 

 

物見櫓の上からの報告が、俺の耳にいやに鮮明に届く。

 

 

人知を超えた聴覚までもが、その屈辱的なフレーズを正確に拾い上げていた。

 

 

(全部聞こえてんぞ、おい。生存者三名と……『自称人間』が一体って、何だそれ。普通に失礼だろ)

 

 

俺は内心で、そのあまりにもな扱いに鋭いツッコミを入れつつも、表情には出さなかった。

 

 

ひとまず、即座に射殺されるという最悪のパターンだけは回避できたようだ。

 

 

自称人間、か。

 

 

まぁ、あいつらから見れば、今の俺の存在はそういう歪なカテゴリーに分類せざるを得ないのだろう。

 

 

俺は静かに腕を組み、バリケードの奥から現れるであろう「お偉いさん」の出方を待ちながら、これからのこの避難所での立ち回り、そして親父との合流について、冷徹に思考を巡らせるのだった。

 

 

 

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