どれほどの時間が経っただろうか。
張り詰めた沈黙が流れる中、物見櫓の上で無線機に向かってがなり立てていた監視役の男が、ようやく俺たちの方へ顔を向けた。
先ほどまでの、狂気的なまでの怯えと殺気は、その表情から幾分か薄れている。
だが、その手に握られた黒い拳銃の銃口は、未だに下ろされることなく、緩やかに俺の胸元を捉えたままだ。
男はゴクリと唾を飲み込み、喉を鳴らした。それから、さっきよりは幾分か落ち着きを取り戻した様子で、バリケードの隙間から声をかけてきた。
「……そこの三人は入る事を許可する。ただし、妙な真似はするな。ゆっくりハシゴを登ってこい」
短く、端的にそう告げた。その言葉を聞いた瞬間、俺は内心で(まぁ、そりゃそうか)と、至極当然の結論として受け止めていた。
自分で言うのもなんだが、今の俺の見た目はどう考えても異常だ。頭からつま先まで、べっとりとゾンビの返り血と肉片、脳漿で汚れている。
さらに、数十体ものゾンビを素手で掴んで投げ飛ばし、一瞬で肉塊の山に変えてみせた怪物。
そんな正体不明の「自称人間」を、何の警戒もなしに生存者の暮らす避難所へと招き入れるほど、中の人間も馬鹿ではないだろう。
上の連中が警戒し、まずは無害そうな一般人である慎太郎たちだけを先行して受け入れるというのは、至極真っ当で、現実的な判断だった。
俺は特に腹を立てることもなく、ただの日常の延長線上の出来事として捉え、物見櫓の男から視線を外した。バリケードの奥にある、避難所となっている体育館の屋根を見つめ、これからの立ち回りについてぼんやりと考え始める。
しかし、静寂を切り裂いたのは、俺ではなく、別の驚くべき声だった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ……! 恭平は……恭平は入れないのか……!?」
意外なことに、最初に異議を唱えたのは慎太郎だった。 物見櫓の上に向かって、必死に声を張り上げている。それに同調するように、達也も前に出た。
「そうだ! 恭平がいたから、俺たちはここまで生きて来られたんだ! 恭平は俺たちの命の恩人なんだよ! 感染だってしてねえ!」
さらに、いつもは臆病で、ゾンビの群れを前にして腰を抜かしかけていた風弥までもが、怯えた瞳の中に確かな拒絶の光を宿しながら、控えめに、しかし力強く頷いていた。
三人のその頑なな態度に、物見櫓の上の監視役の男は眉をひそめる。彼はピシャリと、冷徹に告げた。
「その"恭平"とやらが、そこに立つ血濡れの男を指すなら、現段階では入れるわけにはいかない。言葉を話そうが、あれだけの異常な力を見せつけられて通せるか。全ては上の判断次第だ。お前たちが中に入り、身元の確認と事情聴取を終えるまで、そいつは外で待機だ」
有無を言わせない口調。その冷たい言葉に、慎太郎たちは唇を噛み締め、悔しそうに拳を握りしめる。
俺は、彼らのその様子を見て、少しだけ胸の奥がくすぐったくなるような感覚を覚えていた。あいつらは、俺の規格外のパワーを目の当たりにして、ついさっきまで「言葉の通じない怪物」を見るような目で俺を恐れていたはずだ。
それなのに、こうして俺のために、武器を持った警備の大人に対して必死になって抗議してくれている。
例えそれが、「この異常に強い男に見捨てられたら困る」という打算や、生存のためのしがみつきだったとしても。この地獄のような状況下で、自分たちを恐怖に陥れた存在を庇おうとする。そのお人好しな事実だけで、俺にとっては十分に価値のあるものだった。
俺はこれ以上、ここで押し問答を続けて事態がややこしくなるのを避けるため、一歩前に出て口を開いた。
「おい、俺のことは気にするな。アイツらの言い分はもっともだ。誰だって警戒するだろ」
俺が静かに、しかし遮る余地のないトーンでそう言うと、三人はハッとしたように俺を振り返った。俺は血塗れの顔を少しだけ歪め、肩をすくめて見せる。
「とりあえず、お前らは先に入りな。中で親父に会えたら、俺が外で待ってるって伝えておいてくれ。それだけで十分だ」
俺の言葉に、三人はどこか表情に歯痒さを滲ませ、互いに視線を交わし合った。やがて、慎太郎が小さく息を吐き出し、力強く頷いた。
「……分かった。もし中で事情を聞かれたら、恭平が間違いなく人間だってこと、しっかり伝えておく」
慎太郎は真っ直ぐに俺を見つめ、真剣な表情でそう言った。続いて、金属バットを握りしめた達也が、俺の前に歩み寄り、深く、腰を折って頭を下げた。
「さっきは、お前の力にビビって悪かった。それと、ここまで連れてきてくれて、本当にありがとう。お前がいなきゃ、俺は今頃あの化け物どもの胃袋の中だった」
その言葉に、風弥も小さく駆け寄るようにして、達也の隣で頭を下げた。
「助けてくれてありがとう、恭平。本当に感謝してる」
向けられる真っ直ぐな謝罪と、心からの感謝の言葉。世界が崩壊する前は、実家のベッドで昼過ぎまで惰眠を貪っていただけの俺が、生まれて初めて他者からこれほどまでに重く、純粋な感謝を向けられている。
その事実がもたらす猛烈な気恥ずかしさに、俺は思わず視線を右往左往させてしまった。後頭部を雑にかきむしり、ぶっきらぼうな声を絞り出す。
「お、おう……まぁ、なんだ。どういたしまして。……ほら、さっさと行けよ」
俺の不器用な態度に、慎太郎たちはほんの一瞬だけ目を見張り、それから、どこか昔馴染みの安心感を取り戻したような、温かい苦笑を浮かべた。
「じゃあ、また後でな」と、慎太郎が手を振り、彼らはバリケードに立て掛けられた木製のハシゴへと足をかけた。
物見櫓の監視員の銃口が慎太郎たちを、そして依然として俺を警戒しながら見守る中、三人はゆっくりとハシゴを登り、バリケードの向こう側へと姿を消していった。
無事に中に入っていくのを見届け、彼らの足音が防壁の向こうに遠ざかるのを確認した俺は、ようやく深い息を吐き出し、張り詰めた肩の力を抜いた。
さて、と。一人残された俺は、その場に佇みながら、頭の中でこの待ち時間をどうすべきか考える。
(……上の判断を仰ぐって言ってたけど、ぶっちゃけ、入れるかどうかはかなり怪しいよな)
物見櫓に立つ男の、熱烈なまでの視線を肌に感じながら、俺はあえて目を合わせず、バリケードの奥の建物をぼんやりと視界に入れる。
もし、中の「お偉いさん」とやらが、俺を徹底的に排除すべき怪物だと判断すれば、入れるどころか、総出で排除にかかるかもしれない。そうなったらそうなったで、このバリケードごとへし折るだけだが、できれば穏便に済ませたいものだ。
思考を巡らせる中、ふと、全身を包む圧倒的な不快感が、再び強烈に自己を主張し始めた。殺戮の高揚感が完全に消え去った今、この血みどろの身体は、生理的な嫌悪の極みでしかなかった。
(……そういや、全身血濡れのままだったな。暇だし、水場で水浴びでもするか)
顔や髪にへばりついた赤黒い液体は、時間の経過とともに俺の体温で生乾きになり、皮膚をピキピキと突っ張らせている。鼻腔を蹂躙する鉄錆とゾンビの腐敗が混ざり合った最悪の悪臭。
一歩歩くたびに、靴底にこびりついた肉塊がグチャリと音を立てるのが、たまらなく不愉快だった。こんなドロドロの姿のままでは、仮に中に入る許可が出たとしても、周囲を無用にパニックに陥れるだけだ。せめて、表面の汚れだけでも洗い流しておきたい。
俺はそう思い立ち、重い足取りでその場を離れ、水道がありそうな方向へ歩き出そうとした。その瞬間。
「……おい」
頭上から、低く抑えられた声が降ってきた。物見櫓の、あの監視役の男だ。 俺は無言のまま、ゆっくりとそちらへ顔を向けた。先ほどのような狂乱の気配は消えていた。
「どこに行くつもりだ」
男は警戒を怠らず、俺の動向を正確に把握しようとしている。俺はため息混じりに、自分の血まみれの身体を両手で示しながら、日常的なトーンで返した。
「あぁ、ちょっと水浴びにな。中に入る時に、このままじゃ不味いだろ」
俺のその、拍子抜けするほど世俗的な回答に、監視役の男は一瞬、呆気に取られたように目を見張った。
全身を他人の血と肉で汚し、怪物のような力を振るった男が、生乾きの血の不快感に眉をひそめているのだ。そのギャップが奇妙だったのだろう。
「……そうか」
男は短く、納得したように呟いた。俺は特に彼の出方を気にすることなく、適当な方向に向けて、再び歩みを進めようとした。
ゾンビの死体を蹴散らして進んできたあの市街地なら、壊れた消火栓や、公園の水道の一つくらいは見つかるだろうと考えたのだ。
だが、俺が足を動かした瞬間、頭上から意外な言葉がかけられた。
「……そっちはやめておけ」
「……?」
俺は足を止め、怪訝に思いながら振り返り、物見櫓の男を見上げた。 男は銃口をわずかに下げ、固い表情のまま、俺とは正反対の方向を指さした。
「街の方は、ドブと死体で埋め尽くされているはずだ。あっちに川がある。少し距離はあるが、まだマシなはずだ」
男は相変わらず冷徹な、しかしどこか諭すような静かな声で言葉を続ける。 わざわざ、俺のような得体の知れない「怪物」に対して、マシな水場を教えてくれたのだ。
「分かった。助かる」
「……」
俺がそう言って短く頭を下げると、監視役の男はそれ以上何も言わず、ただ黙り込んで俺から視線を外した。その横顔には、相変わらず厳しい警戒の色が張り付いていたが、最初に俺を「化け物」と決めつけて射殺しようとしていた時のような、容赦のない敵意は感じられなかった。
俺は、言われた方向に向けて、再び一歩を踏み出す。靴底が泥を噛む音を響かせながら、一人で川の方へと歩みを進める中、俺は自分の胸の内で、妙な可笑しさを覚えていた。
(……初めよりは、だいぶ印象が良くなったか?)
あの監視役の男が、俺に対してわざわざ忠告をし、水場を教えてくれた理由。それは、紛れもなく、つい先ほどまでここで繰り広げられていた、慎太郎たちとのやり取りが要因だろう。
自分たちを怯えさせた怪物であるはずの俺を、必死に「人間だ」と主張し、身を挺するようにして庇った三人。そして、それに対して気恥ずかしそうに、極めて人間的な、むしろ冴えない日常を思わせる態度で応じた俺の姿。
それら一連の滑稽で、しかしあまりにも「人間らしい」泥臭いやり取りが、監視役の男の心に、俺をただの「人を喰う化け物」とは見なさない、微かな余地を生み出したのだ。
(あいつらのお人好しさに、また助けられたな)
ふっ、と、自然に口元が緩み、自嘲混じりの息が漏れた。 本当に、どこまでも気の良い、お人好しな奴らだ。
次にバリケードの向こうで彼らに会った時は、今回のこと、それからここまで着いてきてくれたことについて礼でも言おう。
そう心に決めながら、俺は冷たい川の水が待つ方角へと、血塗れの身体を揺らしながら歩き続けるのだった。