第七話
監視役の男に背を向け、俺は言われた方角へ向かって一歩、また一歩と歩みを進めた。
背後にそびえ立つバリケード。そしてその上で未だに緊張の糸を切らさずにいる男の刺すような視線が、歩くたびに背中にひりひりと伝わってくる。
だが、それも長くは続かなかった。曲がり角を曲がり、物見櫓の男の視界から完全に外れたことを確認した瞬間、俺はそれまでセーブしていた『脚力』の制限を、一気に解放した。
──ドンッ!!!
五月蝿い警告音を鳴らすこともなく、俺の足元のアスファルトがクモの巣状に砕け散る。生み出された爆発的な推進力によって、俺の身体は重力を無視するようにして斜め上空へと打ち上げられた。
一瞬にして、周囲の二階建ての民家の屋根を見下ろす高さまで到達する。頬を叩く風は、ゾンビの腐敗臭や街の煙を孕んで熱を帯びていたが、それでも立ち止まっている時よりは遥かに心地よかった。
着地と同時に、今度は近くの雑居ビルの屋上へと跳躍する。コンクリートの縁に足をかけ、その強固な構造をバネにして、さらに先の一軒家の瓦屋根へと飛び移る。
常人であれば、着地の衝撃だけで両膝の皿が粉々に砕け散り、内臓が口から飛び出すような高高度からの着地。しかし、変異を遂げた俺の頑強な肉体は、その凄まじい衝撃をまるで綿毛でも受け止めるかのように、易々と吸収して見せた。
ビルの屋上から屋上へ。まるで重力というルールから取り残されたかのように、空中を疾走する。
眼下を見下ろせば、崩壊した街のストリートに、疎らに立ち尽くすゾンビたちの姿があった。彼らは一様に、頭上を通過した俺の気配や、風を切る音に反応して、ガクガクと不自然な動きで上空を見上げようとする。
だが、その濁った瞳が俺の影を捉える頃には、俺は既に数百メートル先の建物の屋根へと飛び移っている。
その様子は、まるでおぞましい地獄絵図の中に描かれた、場違いなアクロバットのようだった。
(……あれか)
およそ数キロメートル。常人の足なら一時間はかかるであろう距離を、俺はものの数分、わずか数回の跳躍と全速力の疾走だけで踏破していた。
街の喧騒──ゾンビの咆哮、時折遠くで響く生存者たちの悲鳴、そして火災のパチパチとはぜる音──が急速に遠ざかっていく。
代わりに鼻腔をくすぐったのは、鬱蒼と生い茂る草木の青臭い匂いと、耳に心地よいせせらぎの音。
コンクリートのジャングルから完全に外れ、生い茂る雑木林に囲まれたその場所に、目的の川は静かに流れていた。
河川敷に降り立つ。周囲を見渡すが、動くものの気配は一切ない。ゾンビは、捕食対象である生存者が密集する市街地や避難所の周辺に引き寄せられるのか、こうした何もない自然の中には殆ど居ないのだろう。
もちろん、こんな危険極まりない郊外をうろつく生存者らしき人影も見当たらなかった。かつては散歩道や子供たちの遊び場だったであろうこの場所は、完全に人間に見捨てられ、ただ静かに生い茂る自然の一部へと戻りつつあった。
「……水質は、まぁこんなもんか」
河川敷の、湿った泥と小石が混ざる地面を数歩進み、水面を覗き込んでぽつりと呟いた。
お世辞にも綺麗な水とは言えない、深緑色に濁った川。おそらく、泥が巻き上がっているのだろう。
だが、少なくとも、赤黒い血が混じって泡立っている様子はないし、引きちぎられた人間の肉片や腐った死体がぷかぷかと漂っているようにも見えない。今の俺にとって、この最悪な返り血のドレスを洗い流せるのであれば、多少の濁り水など天国のようなものだった。
俺はためらうことなく、靴を履いたまま、そして衣服も着たままで、ザバザバと川の中へと入り込んだ。
「浅いな」
川の中心に向かって五メートルほど奥に進んだが、水深は精々が股関節程度までしか浸からない。流れも緩やかで、俺の自重を押し流すほどの勢いは微塵もなかった。
俺は川底の丸みを帯びた小石に膝をつき、しゃがんで横になった。無理やり頭まで浸かり、冷たい川水の中に全身を沈める。
ヒヤリとした水の冷たさが、体温で温まり、生乾きになって皮膚を突っ張らせていたゾンビの返り血を、優しくふやかしていくのが分かった。
俺は両手で顔をごしごしと擦り、髪にへばりついていた脳漿や、頬にこびりついていた乾いた皮膚の破片を、容赦なくこそぎ落とす。
水中で目を開けると、俺の身体から溶け出した赤黒い液体が、煙のように深緑色の水の中に溶けて広がり、下流へとゆっくりと流されていくのが見えた。
何度も何度も、手で水をすくっては身体に浴びせ、首筋や腕、胸元にべっとりと付着していた汚れを洗い流していく。
(やっぱ、服が邪魔だな)
水を含んだことで、ずっしりと重くなったパーカーとシャツ。それが、冷たく、そして鬱陶しく皮膚にまとわりつく。
せっかく汚れを落としても、この泥と血が染み込んだ衣服を着たままでは、すぐにまた身体が汚れてしまうだけだ。
俺は一度川の中で立ち上がり、身体にぴっちりと張り付く、引きちぎれてボロボロになったシャツを、鬱陶しそうに頭から脱ぎ捨てた。
そのシャツを川の水ですすぎ、軽く絞って河川敷の岩の上に放り投げる。
その時だった。
「……?」
ふと、視線を下に向けた俺は、露になった自身の腹部を見て、思わず困惑の声を漏らした。川の水で濡れ、光を反射する俺の腹回り。
そこに、確かに存在していたはずの「だらしない肉」が、目に見えて分かる程度には少し減っていたのだ。ただ減っているだけではない。
お世辞にもスタイリッシュとは言えなかった、丸みを帯びた俺の胴体。その皮膚の下で、僅かにだが、まるで彫刻のように四角く割れた腹筋の線まで見え始めている。
以前から確かに筋肉もあったが、それ以上に脂肪の乗った、いわゆる「筋肉デブ」の典型だった。
それが、どうだ。今、水の中で晒されている肉体は無駄な脂肪が削ぎ落とされようとし、より強固な、実戦的な形状へと再構築しつつあるように思えた。
(……まぁ、あれだけ動き回ったら、そりゃ痩せる……か?)
心做しか、濡れた髪を手でかき上げた際の、顎周りのラインもすっきりとシュッとした気がする。
今更「スリムになりたい」などという高尚な美容意識を持ち合わせているわけではない。俺にとって、見た目がどうなろうが知ったことではなかった。
だが、この短期間での肉体のあまりにも急激な変化──筋肉の密度が増し、より効率的な形状へとシフトしている感覚には、少なからず興味を持たざるを得なかった。
やっぱり、俺の肉体はただのリミッター解除ではなく、別のナニカへと変異を遂げている。
その仮説がより強固なものになったことを、俺はどこか他人事のように、しかし若干の浮かれた気分と共に受け入れていた。
まるで、手に入れたばかりの新しいゲームの仕様を、一つずつ確認していくかのような、そんな軽い高揚感。そうして、自身の肉体の変化を観察し、若干浮かれていると。
スッ、と。 周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。
「──────」
俺はすべての動きを完全に止めた。川水を指先から滴らせるその仕草すらも途中で凍結させ、一瞬の予備動作すらも見に見逃さないように、対岸の森の境界線、その一点を見つめる。
肺の中の空気を完全に吐き出し、次の呼吸を止める。全身の、それこそ産毛の一本一本に至るまでの神経を針のように尖らせ、低く腰を落として、いつでも爆発的な跳躍ができる臨戦態勢へと移行する。
おかしい。何かが、そこにいる。
「──────」
対岸の、鬱蒼と生い茂る木々の影。そこに佇む『影』としか言いようがない、人の形をしたナニカ。俺は水浴び中も、決して警戒を怠ることなく、自身の拡張された五感をフルに稼働させて、周囲の音や匂い、空気の微細な振動に気を配っていたはずだった。
それにも関わらず。いつ、どのようにして、そこに出現したのか。気付けば、最初からそこに存在していたかのように、ソレはただ、佇んでいた。
(距離は十数メートル、身長は二メートルはあるか……)
ソレはピクリとも動かない。 生い茂る草木の陰に半身を隠すようにしており、その顔はギリギリ視界の死角から外れていて正確には分からない。
脳内で、凄まじい速度のシミュレーションが開始される。
(もう少し頭を上げて確認するべきか?いや、危険だ。ヤツの出方が全く分からない。敵か、味方か。ただこちらを観測しているだけなのか。それとも、この世界に突然現れた『上位存在』か。……あるいは、俺と、同類か?)
脳を全力で稼働させ、周囲の情報、空気の密度、ヤツの重心、筋肉の弛緩状態、すべてを分析する。
その瞬間、俺の感覚は、通常の時間の流れから完全に切り離された。
耳元で鳴っていたはずの川のせせらぎが、ふっと消える。周囲の森の匂いが、真空に吸い込まれるようにして霧散する。視界の端々から色彩が急速に失われ、モノクロームの、静止した世界へと変貌していく。
川の流れが、目に見える形でスローモーションになり、やがて完全に、ピタリと止まる。宙を舞う水滴の一つ一つが、ガラス玉のように虚空に静止していた。
俺の超加速された脳内処理速度。一瞬が、永遠にも感じられるほどの静寂の世界。その究極の思考の果てに、俺の直感と本能が導き出した答えは────────
(顔を見る)
ただ、それだけだった。 理屈ではない。凡ゆる論理的な選択肢を並べ、生存確率を計算したはずの脳内で、最も非合理的な、しかし最も強力な「本能」が、その答えを弾き出した。
あいつが何者なのかを知るには、その正体を暴くには、顔を確認する以外の道はない。
俺は、動いた。
「……」
静止した世界の中で、首を一瞬だけ、コンマ数ミリ秒の速度で反らし、死角にあったヤツの『顔』を、網膜に、そして意識に直接滑り込ませるようにして視界に入れた。
──────っ!!!
その瞬間、俺の背筋を、これまで味わったことのないほどの強烈な戦慄が駆け抜けた。
爛れた皮膚。まるで一度焼かれ、腐りかけた肉を無理やり繋ぎ合わせたかのような、どす黒い皮膚。
眼球が今にも眼窩から飛び出しそうなほど、狂気的に見開かれた、濁った黄色い目。顎の関節が外れているのではないかと思えるほど、耳元まで引き裂かれた、悍ましい口。軟骨が削げ落ち、不気味な洞窟のように骨が剥き出しになった鼻。
そして────────
ニィィッ……
ヤツは、確かに笑った。
俺が首を動かし、その顔を認識したまさにその瞬間。俺がヤツを「見た」ということを、ヤツもまた、完全に認識したのだ。
この、コンマ数秒という、人間には知覚することすら不可能な極限の処理速度の領域において。
冷や汗は、まだ出ない。身体が危険を察知して分泌するアドレナリンや、皮膚から吹き出す汗といった生理現象すら、この超加速された処理速度の中では、あまりにも遅すぎて追いついてこない次元の静寂。
戦闘力は分からない。だが、少なくとも、ヤツは俺と同等か、あるいはそれ以上の処理速度と知覚能力を持っている。
この事実だけで、ヤツがこれまでに遭遇してきた有象無象の「雑魚」とは、根本的に異なる存在であることが確定した。相応の、いや、圧倒的な強さを持っていると考えて間違いなかった。
(……終わってんな、この世界)
ヤツには感情がある。俺の反応を瞬時に認識し、それに対して「愉悦」を感じるほどの、極めて高度な知能を持っている。そして何より、俺を絶望させたのは。
────────あの類の化け物が、この世界のどこかに、他にも複数存在するかもしれないという、最悪の可能性だった。
思考の加速が、ゆっくりと通常の時間の流れへと戻っていく。耳元に、止まっていた川の音がザァッと戻り、視界に色が蘇る。その瞬間、俺の額から、ようやく、一粒の大きな冷や汗がぷつりと浮き出て、頬を伝って流れ落ちた。
「──────」
ヤツが、ゆっくりと首を動かした。 その、ギチギチと骨の鳴るような不気味な動き。ヤツの視線が、そしてその異形な身体の重心が、向けられた方角。
それは────────
(チッ……最悪だ)
生存者たちが、蜘蛛の子を散らすようにして逃げ込み、立てこもっている、あの体育館。俺の親父がいて、そして、ついさっき俺を庇って中に入っていった、あのお人好しな三人組がいる、あの避難所の方角だった。
ヤツの身体が、明確にその方角へと向けられる。単なる偶然ではない。ヤツの獲物を定めるような、明確な殺意と捕食の意思が、その姿勢から痛いほどに伝わってくる。
確定だ。 ヤツの標的は、あの避難所だ。
俺は全身の筋肉に一気に力を込めた。血管が破裂しそうなほどの圧力をかけ、ヤツと同じように、避難所がある方角へと瞬時に身体を向け、軸足を川底の岩へと食い込ませる。
その刹那。ヤツの引き裂かれた口が、微かに、しかし明確な『意志』を持って動いた。声にはなっていない。だが、その唇の動きは、確かにこう紡いでいた。
『─────オニ─────』
ニィィッ……と、さらに深く口を歪ませ、飛び出しそうな瞳を愉悦混じりに細めて、俺をあざ笑うように見やる。
瞬間。
──────ドンッッッッ!!!!!
鼓膜を、そして周囲の空気を木っ端微塵に破壊するような、強烈な衝撃波。
それと同時に、対岸の木々が爆風に煽られたように激しくなぎ倒され、ヤツの巨体は一直線に、弾丸のような速度で上空へと飛び上がった。
一瞬にして、空の彼方、点となって消えていく。
「クソッ!!!」
俺は激しい悪態をつくと同時に、全身の筋肉を爆発させ、全力で川底を蹴り上げた。足元の小石や水が、大爆発を起こしたかのように四方八方へと吹き飛ぶ。
空へと消えたヤツの軌跡を、そして、大切な者たちが待つ避難所への道を遮るために、俺は自身の限界を超えた速度で、点となったヤツの後を追いかけるのだった。